せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

知られざる「明石城」を求めて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、船上城とその城下町を歩いてみたいと思います。

密蔵院

城跡から南東に向かうと、大きな寺院の屋根が見えてきました。
こちらは密蔵院という寺院。
平安時代の延喜4(904)年に創建された寺院と伝えられ、船上城があった頃は城下町の中にありました。かつては多くの堂宇が立ち並び、非常に栄えたそうですが、 昭和20(1945)年7月の明石大空襲によって焼失してしまいました。現在の建物は昭和51(1979)年に再建されたものです。
ちなみに、境内には天ぷら油をかけて願掛けをする「油掛地蔵」なるお地蔵さんがあります。

望海浜公園

密蔵院の前に広がるのは「望海浜公園」です。
この辺りが船上城の南端に相当し、土塁が築かれていました。 土塁の向こうには港があり、瀬戸内海を行きかう船が停泊し賑わっていたようです。
この土塁は近年まで残っていたということなので、しばし、公園の中を探してみたのですが、見つかりませんでした。
ちなみに、この公園は古くから景勝地として知られていて、江戸時代に明石城主を務めた 松平直明はこの地に「望海亭」なる茶室を設け、景色を楽しんだそうです。

宝蔵寺

望海浜公園から北西へ向かい、再び船上城の城下町へ戻ることしました。
石畳の敷かれている路地を歩いて行くと、本瓦葺きの寺院が現れました。
こちらは通称「林の毘沙門さん」と呼ばれる宝蔵寺という寺院です。
密蔵院と同じく船上城の城下町にあり、さぞ栄えたのであろうと思いきや、船上城のあった一時期には空き家となっていたようです。
船上城を築いた高山右近は大河ドラマでも触れられたように、熱心なキリシタンでした。右近が前任地の高槻で仏教徒をキリスト教に改宗させてきたことに警戒感を覚えた宝蔵寺の僧侶たちは右近の排斥を図りますが、逆に処罰され、江井ヶ島へ逃れることになりました。空き家となった宝蔵寺はキリスト教の教会として使用され、宣教師たちが住んでいたとのこと。仏教の寺院に戻ったのは右近が追放された後の事でした。
寺には今も隠れキリシタンが礼拝に使ったとされる「マリア観音の十字架」が保存されています。

高砂道

宝蔵寺の前の道路は山陽道より海側のルートで明石と高砂を結ぶ「高砂道」と呼ばれる街道でした。今は住宅が建ち並んでいますが、かつてはこの道路沿いが船上城の中心だったと言われています。不自然に曲がった「鍵辻」が城下町の風情を今に伝えています。

政治と経済の中心として栄えた船上城とその城下町ですが、中世都市の定めと言うべきか、近世に入ると消えていくことになります。
元和3(1617)年に明石郡を与えられた小笠原忠真は当初船上城に入りますが、将軍・徳川秀忠の命ですぐに新城の建設に取り掛かりました。この新城が現在に残る明石城で、船上城は明石城と入れ替わりに元和5(1619)年に廃城となりました。高山右近が城を築いてからわずか33年のことです。ちなみに、船上城の建物の一部は明石城で再利用されていて、今でも巽櫓などでその姿を見ることができます。

山陽電車と踏切

北へ向かうと山陽電車の新しい高架橋が見えてきました。
この景色が見られるのもあとわずかの間。中世から現代へと大きく変貌した街は、さらに変化の時を迎えようとしているというべきでしょうか。
かつて「明石城」と呼ばれた城と城下町に思いを馳せながら帰路につくことにしました。

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