せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

北摂の城下町・池田を歩いて(後編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、池田を歩いてみたいと思います。

池田城の城門

曲がりくねった階段と坂道を上ると、城門がそびえていました。

池田城の模擬櫓

城門をくぐった先には立派な櫓が。こちらは池田城の模擬櫓です。

ここ池田に城が建てられたのは中世の建武元(1334)年頃とされています。城を築いたのはこの地を治める豪族だった池田氏でした。北摂の要衝にあった池田城は幾度となく戦乱に巻き込まれ落城していますが、戦国時代まで池田氏が治め続けることとなりました。戦国時代の永禄11(1568)年に織田信長がここ池田へ侵攻し、当時の城主・池田勝正は抵抗の後に降伏しました。この時に城は焼け落ちてしまいますが、勝正は信長の配下となり摂津三守護として活躍することとなりました。

池田城跡公園を見下ろす

櫓に昇ると庭園が広がっています。庭園は現在では池田城跡公園として整備されていて、私が訪れたときはイベントが開催されて出店が並んでいました。中世城郭だった池田城ですが、当時から枯山水などをそなえた庭園が整備されていたそうです。庭園の向こうの山には池田氏の菩提寺・大廣寺の屋根が見えます。

池田城跡公園

信長の配下の城となった池田城ですが、池田氏の内部の争いで池田氏の家臣だった荒木村重が治めることとなりましたが、村重が伊丹の有岡城に移った後に城は放棄されます。後に村重が信長に謀反を起こした際、池田城は信長方の城となって村重の籠る有岡城の攻撃の拠点となりますが、有岡城落城の翌年の天正8(1580)年に廃城となりました。

池田の街を見下ろす

城跡公園からは池田の街を見下ろすことができました。

池田城の廃城後、池田には城が築かれることはありませんでしたが、戦乱で焼け落ちた城下町は近世にかけて復興し、宿場町として、また物資の集散地として、栄えていったのは前々回と前回に歩いてきた通りですね。

訪れたときは梅の季節だった池田ですが、これからは北摂の山々は新緑に彩られそうですね。暖かくなり少しだけお出かけの気分も盛り上がってきたこの頃。少し足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

北摂の城下町・池田を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、池田の街を歩いてみたいと思います。

西光寺

能勢街道から横道に入ったところに佇んでいたのは西光寺です。
もともとはこの地にあった「不断堂」と呼ばれる草庵が始まりで、寺院となったのは江戸時代とされています。

吉田酒造

西光寺の傍には造り酒屋の吉田酒造の建物がありました。
現在は大阪のベッドタウンの印象が強い池田ですが、近世には能勢街道によって大坂とつながり、物資の中継地として栄えていました。当時、大坂へ向かって北摂や能勢の奥の丹波の農産物や鉱産物が運ばれ、一方で、北摂の社寺を訪ねる参詣者も行きかい、池田の街は大変賑わったと言われています。当時の池田は宿場町としてだけでなく、日本酒の産地でもあり、当時は北摂の酒造業の中心地となっていたようです。この吉田酒造もその一つでした。趣のある建物は登録有形文化財に指定されています。

吉田酒造の梅

私が訪れたとき、吉田酒造の傍では鮮やかな紅梅の花がほころんでいました。

池田城を眺める道

吉田酒造の脇の道を進んでいくと、丘の上に城郭が見えました。近世には宿場町として栄えた池田ですが、中世にはこの地域の中心として城が築かれていました。次回は中世の池田の姿を思いながら歩いてみたいと思います。

北摂の城下町・池田を歩いて(前編)

投稿日:


桜の便りも届き、春も本番のこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急池田駅

阪急電車に乗り換えて着いたのは池田駅です。

栄町商店街

駅前からは昔ながらの商店街が続いています。

能勢街道

商店街を通り抜けると、東西の道に差し掛かりました。この道は大坂と妙見堂のある能勢を結んでいた能勢街道です。池田は近世にはこの能勢街道の宿場町として栄えていました。

旧加島銀行池田支店

街道沿いに目立つレンガの外壁の建物がありました。こちらは旧加島銀行池田支店です。加島銀行は大阪の豪商・加島屋が明治21(1888)年に設立した銀行で、大阪に本店を置いていました。明治から大正にかけて、大阪だけでなく全国に支店を展開する都市銀行へと発展しましたが、昭和に入り、昭和恐慌のあおりを受けて銀行業を廃業しています。かつては大阪だけでなく東京や中国地方へと広がっていた店舗網は他の銀行へ譲渡され、建物が現存しているのはここ池田支店だけです。現在は店舗として利用されているようですが、旧街道沿いでとても目立つ建物ですね。

白壁の道

街道から横道に入ると、瓦屋根に城壁の街並みが続いていました。

次回はもう少し池田を歩いてみたいと思います。

伊丹郷を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて伊丹を歩いてみたいと思います。

猪名野神社

伊丹の街の北側に向かうと、大きな神社がありました。
こちらは猪名野神社です。

猪名野神社の境内

猪名野神社の境内は広く、歴史ある神社であることを感じさせます。

猪名野神社の歴史は古く、はるか古代の孝徳天皇の時代に創建された神社がこの地に遷座したのは延喜4(904)年とされています。これまで歩いてきた伊丹郷は街の北側に構えるこの神社を氏神としていて、「野宮」とも呼んでいました。今の猪名野神社という名前になったのは明治に入ってからです。

境内を歩く

本殿の周りは参拝客で賑わっていましたが、境内を奥へと歩いていくと古い神社ならではのしんとした空気に包まれます。

岸の砦跡

境内の外れには土手のようなものがありました。こちらは「岸の砦跡」と呼ばれています。

荒木村重が築いた有岡城の総構えは今の伊丹郷に広がっていて、ここ猪名野神社の境内が北端にあたりました。ここにあったとされるのが「岸の砦」と呼ばれる砦です。木々の合間にある土手が土塁の跡なのでしょうか。こうして広大な範囲に及んでいた有岡城ですが、織田信長の猛攻撃に落城し、近世には城もなくなったのは前回見てきたとおりです。

伊丹郷の街並み

再び伊丹郷の街に戻りました。
有岡城は、今となっては痕跡がわずかに残るだけになりましたが、かつての有岡城の総構えの跡には今の伊丹郷の街が広がり、酒造業が栄えて今の伊丹の姿が形作られていきました。空港の街とは違う伊丹を歩いてきましたがいかがでしたでしょうか。

世の中はまたまた大変なことになってしまいましたが、こんな時こそ、近場をゆっくりとお散歩してみてはいかがでしょうか。

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伊丹郷を訪ねて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、伊丹を歩いてみたいと思います。

有岡城跡の碑

JR伊丹駅付近まで歩くと「有岡城跡」の碑がありました。

有岡城跡

石碑の向こうには石垣があり、まさに城の雰囲気ですね。

有岡城は「伊丹城」とも言われています。築城は南北朝時代とされていて、この地を治めていた伊丹氏によるものでした。この伊丹氏の伊丹城は天正2(1574)年に当時の城主・伊丹親興が反信長の勢力についたために、信長の配下の荒木村重の攻撃を受けて落城し、荒木村重の有岡城として改築されます。

有岡城の本丸跡

本丸跡として整備されている範囲はあまり大きくはなく、駅前にも関わらずどこかひっそりとしていました。

荒木村重は伊丹氏の城を改修し、総構えを持つ大規模な城郭として整備していきました。伊丹には城だけでなく、城下町が広がるようになり、中世都市として発展していきます。しかし、荒木村重は織田信長に謀反を起こし、伊丹は信長の軍勢の猛攻撃を受けました。荒木村重の整備した総構えは信長軍の攻撃に耐えましたが、荒木村重は尼崎へと逃走。1年以上の籠城戦の末の天正7(1579)年に落城しました。戦いの後は池田輝政の兄の池田之助が城主を務めましたが、程なく廃城となりました。

本丸を眺める

有岡城の本丸を眺めてみました。本丸を取り囲む草地は堀の跡だそうです。

城下町としての伊丹は中世で途切れてしまいますが、後に伊丹は近衛家の所領となり、近衛家の庇護の元に酒造業が発展。かつての城下町は酒の街になっていきました。

中世の城下町から酒の街になった伊丹。次回はもう少し時代を遡りながら伊丹を歩いてみたいと思います。

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御影・平野城を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、御影を歩いてみたいと思います。

城ノ前バス停

御影駅の南側へ歩いてみました。大通りにあったのは「城ノ前」なる名前のバス停です。この辺りの地名は今では「御影」ですが、以前は「城ノ前」「大手筋」といった城を思わせる地名がありました。城の痕跡はすっかり姿を消してしまったのですが、こうして地名にはかつての城の姿が残されているのですね。

中勝寺

山手幹線沿いに歩いていくと、中勝寺なる寺院がありました。戦国時代の永正(1505)年に創建された寺院で、平野城を築いた平野忠勝の菩提を弔うために子孫が建立したと言われていて、以前は「忠勝寺」という名前だったそうです。

六甲山麓に強固な守りをもった平野城でしたが、城が築かれた直後に起こった観応の擾乱であっさりと破られてしまいます。近代に入り、平野村と呼ばれていたこの辺りは御影町へ編入され、さらに戦後には神戸市に編入されていきます。急速な市街化と住宅開発により、中世にわずかな期間存在した城の痕跡は消えていきました。

弓弦羽神社

中勝寺の隣には弓弦羽神社への参道がありました。
御影に城があった頃、この神社の辺りには弓場があったとも言われています。

平野城が破られた後、平野忠勝はどうなったのか…? 実は、農業へ戻り、郡家と呼ばれるこの地の庄屋を務めるようになりました。忠勝の子孫は江戸時代にはこの周辺の大庄屋を務めるようになります。中世の戦乱で多くの武家が滅んでいったことを考えると、この平野忠勝の選択は正しかったということなのでしょうか。

弓弦羽神社の境内

弓弦羽神社の境内からは、神社の名前の由来となった六甲山地(諸説あります)の山並みをわずかに眺めることができます。

弓弦羽の杜からの蝉しぐれを聞きながら、平野氏の治めたこの地を後にすることとしました。

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御影・平野城を訪ねて(前編)

投稿日:



真夏の太陽が照りつけると思うと、台風がやってくるこの頃、いかがおすごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急御影駅

阪急電車で到着したのは御影駅です。

御影の街並み

駅の山手には住宅地が広がります。御影といえば、言わずと知れた関西屈指の高級住宅地で、六甲山を背景にゆったりと住宅が建ち並ぶ景色を眺めていると、確かに住みたくなる街だと思います。

平野城跡

駅前に「御影城址」と書かれた石碑がありました。こちらは御影城とも呼ばれた平野城の跡です。

平野城が築かれたのは南北朝時代の正平元(南朝)/貞和2(北朝)(1346)年のことで、平野忠勝なる赤松氏の家臣によって築かれたと言われています。北側の六甲山地、西を流れる石屋川の支流の新田川に囲まれた強固な守りをもつ城であったと言われているのですが、今では何の痕跡もなく、この地に城があったことも信じられません。

深田池

御影駅のすぐ北側には畔の松の木が美しい池がありました。こちらは深田池です。
もともとは農業用のため池でしたが、この地に城があった頃は城の防衛設備の一つとしても機能していたとされています。
今では池の周囲は公園として整備されていて、釣りをしている方もちらほら見かけました。

次回はもう少し、高級住宅地の中に眠る城跡を巡ってみたいと思います。

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梅は岡本・摂津岡本を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、岡本を歩いてみたいと思います。

岡本八幡神社

住宅地の坂道を上っていくと、神社がありました。こちらは岡本八幡神社です。

岡本八幡神社の境内

木々に囲まれた境内は意外と広々としていました。岡本八幡神社の創建時期はわかっていないようですが、岡本地区の鎮守として信仰を集めてきたそうです。

岡本梅林公園

岡本八幡神社から少し坂を下ったところに岡本梅林公園がありました。阪急電車の踏切の名前になっていたのはこの梅林でしょうか。

今や住宅地として知られる岡本ですが、かつては「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗丹波」と言われるなど、梅の名所として有名でした。この地に梅が植えられた時期はわかていませんが、豊臣秀吉が観梅に訪れた記録もあるようで、中世には梅の名所として知られていたようです。岡本梅林は近代に入ってからも多くの観梅客で賑わい、春には東海道本線や阪神電車が観梅客向けの臨時駅を設けていたようです。明治時代の地図を見ると、山沿いに広大な梅林が広がっていることがわかります。

岡本梅林の梅

岡本の梅は今が見ごろです。公園の中は梅の香りでいっぱいでした。

多くの観梅客で賑わった岡本ですが、昭和13(1938)年の阪神大水害で壊滅的な被害を受けてしまいます。水害で梅林のあった山は崩壊し、梅の木の多くが失われてしまいました。さらに昭和20(1945)年の神戸大空襲でわずかに残った梅も焼失。跡地は住宅地として開発され、梅林は失われてしまいました。戦後すぐの地形図を見ると「岡本梅林跡」という何とも寂しい表記があるのですが、程なく表記もなくなり、岡本の梅林は忘れられていきました。その梅林が復活したのは昭和50年代のことでした。保久良神社の境内に梅が植えられ、後にこの梅林公園が設けられました。毎年梅まつりが開かれるなど、かつての賑わい取り戻しつつあります。

梅と神戸の街

高台にある梅林公園からは梅の花越しに神戸の街を眺めることができます。

岡本の梅は3月上旬頃まで見ごろです。賑わう梅林に「梅は岡本」を感じてみてはいかがでしょうか。

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梅は岡本・摂津岡本を訪ねて(前編)

投稿日:



明るい日差しに春を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

岡本駅

今回降り立ったのは阪急電車の岡本駅
駅の周りは六甲山地を望む住宅地が広がっています。

本山村役場跡碑

住宅地の中にあったのが本山村役場跡の石碑です。

現在は「岡本」として独立した地域となっているこの辺りですが、もともとは武庫郡本山村の一地区でした。戦後、本山村が神戸市に吸収されて東灘区の本山町となり、さらに本山町から独立した岡本という地名となって今に至っています。

保久良の丘を望む

阪急電車の踏切の向こうに六甲山に続く山々を望むことができました。こちらの山は「保久良山」と呼ばれていて、山の上には保久良神社があります。「岡本」の地名もこの保久良の丘の麓にある村だったことからついた名前とも言われています。

新梅林踏切道

そんな保久良を望む踏切の名前は「新梅林踏切道」です。
梅林とは…?

今は住宅地の岡本ですが、かつては今とは異なる景色が広がっていました。
次回はもう少し岡本を歩いてみたいと思います。

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北野坂から二宮を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて北野坂から二宮を歩いてみたいと思います。

二宮温泉

二宮の街中を歩いていると二宮温泉なる入浴施設がありました。源泉は新神戸駅近くですが、中央区の街中に温泉施設があるとは意外ですね。

二宮神社

さらに街中を歩いていくと、神社がありました。こちらは二宮神社です。「生田裔神八社」の一宮神社に続く二柱目ですが、創建時期などははっきりわかっていないとのこと。

前回説明しましたように「生田裔神八社」は生田神社を取り囲むように配置された神社で、北斗七星を表すという説もあります。神社は生田川と湊川(旧湊川)の間に配置されているはずですが、この二宮神社はフラワーロードの東側…、つまり、生田川の外に配置されています。なぜこのような配置になったのかはよくわかっていないようでずが、街中に古代の謎が残されているというのもロマンのある話ではあります。

二宮神社の境内

街中の神社ですが、境内は広々としています。古い地図を見ても存在感はあり、古くから大きな神社であったことが伺えます。

新生田川

二宮神社から東に歩くと、新生田川のほとりに出ました。生田川の付け替えにより、結果的に二宮神社も生田川の西側に収まることになったのは、たまたまなのでしょうか。

神戸の都心で少し謎のある歴史巡りをした後は三宮に戻ることにしました。

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