せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

運河とモノレールの夢の跡・手柄を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、手柄を歩いてみたいと思います。

船場川

手柄山を下りると川がありました。こちらは船場川。江戸時代のはじめの寛永元(1624)年に当時城主だった本多忠政が川を改修して運河としました。前編でご紹介した池田輝政の運河計画はこの船場川の改修によって実現したことになりますね。手柄山を出たモノレールはこの船場川に沿って走っていましたが、この辺りには痕跡はありません。

モノレールの橋脚

しばらく歩くと、住宅地の中に黒々とした影が見えてきました。モノレールの橋脚です。もともとはこの辺り一帯に橋脚が残されていましたが、撤去が進み今はわずかしか残されていません。しかし、高い橋脚は未だに存在感がありますね。

新幹線をくぐる

橋脚は途切れ途切れになりながら山陽新幹線の高架をくぐります。この付近にはJRを乗り越える鉄橋もありましたが、早くに撤去されてしまいました。

大将軍駅

さらに進むとビルの中に空き地がありました。ここにはマンションとモノレールの駅が一体となった大将軍駅がありました。姫路市営モノレールの中でも特に目立つ遺構でしたが、ビルの老朽化や耐震性に問題があることから2016年に解体されてしまいました。この土地は再開発される予定でしたが、杭基礎の撤去が困難とのことで跡地はいまだに空き地のままです。

華々しく開業した姫路市営モノレールでしたが、短距離であったことや運賃が割高であったことで、姫路大博覧会の閉会後は利用が低迷します。特殊な構造のためにメンテナンスにも費用が掛かるようになり、赤字が続きました。昭和49(1974)年にはついに休止となり、昭和54(1979)年には正式に廃止となりました。路線の延伸計画も実現することはなく、わずか8年の営業で幕を閉じることとなりました。

商店と橋脚

姫路駅に近づくと、商店と一体になった橋脚が残されていました。
廃止後、モノレールの橋脚は放置されていましたが、倒壊の危険性などから徐々に撤去が進んでいきました。このまま姫路にモノレールがあったことは忘れられていくのかと思っていましたが、2011年に前回訪ねた手柄山交流ステーションがオープンし、モノレールの車両が保存されることになりました。

姫路駅跡

山陽百貨店
などのある南側のこの辺りにモノレールの姫路駅があったといわれています。計画では大手前通を横断し、東側に駅ができる予定で、ここはそれまでの仮駅だったそうですが、結局仮駅のまま営業を終えることとなりました。もともと簡素な作りだったことや後の再開発で駅の痕跡は残されていません。

手柄から時代の違う二つの夢の跡をめぐって姫路駅に着きました。再開発によって賑わう姫路駅周辺ですが、実現することがなかった計画がもしも実現していれば、姫路の景色は今とは少し違うものになっていたのかもしれませんね。

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