せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

古代の港町・魚住を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石の魚住を歩いてみたいと思います。

播磨灘を眺めて

魚住神社から海沿いを歩いていきます。

魚住城跡

海から少し内陸に入ると、住宅地の中に小さな公園がありました。公園には「魚住城跡」の文字があります。こちらには中世に魚住長範なる人物が築いた魚住城がありました。この魚住氏は三木・別所氏についていたのですが、天正8(1580)年の三木城落城に伴い、廃絶し、城も失われてしまいました。早い時期に失われたせいか、城跡には公園が広がるばかりの何の痕跡もありません。

摂播五泊 魚住の泊跡

海沿いに戻ると、「ながさわ明石江井島酒館」がありました。こちらは「明石ビール」などが購入できるお店ですが、「摂播五泊 魚住の泊跡」なる文字がありました。

「魚住泊」は奈良時代に僧・行基が摂津と播磨に整備したといわれる「摂播五泊」の一つとされた中世の港です。「摂播五泊」はこの魚住泊のほかに河尻泊(今の尼崎市)、大輪田泊(今の神戸市)、福泊(今の姫路市)、室生泊(今のたつの市)にあり、瀬戸内海の船運に重要な役割を果たしました。魚住泊がいつまで使われていたのは定かではありませんが、先ほど訪ねた魚住城は魚住泊の町を治める城としての役割もあったことから、比較的最近まで重要な港として使われていたことがうかがえます。

赤根川河口

「ながさわ明石江井島酒館」の傍を赤根川という川が流れていて、播磨灘へと注いでいます。長らく、魚住泊の場所はわかっていませんでしたが、昭和に入り、川の浚渫工事の際に古代の港で使われていた木材が発見され、この地が魚住泊の場所だということがわかりました。今では何気ない海の景色が広がっていますが、ここがはるか古代からの港の跡だと思うと、どこかロマンを感じさせますね。

小さな町にはるか古代へつながる史跡が残されている魚住。
お散歩に訪ねてみてはいかがでしょうか。

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