せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

アカシゾウと明石原人を求めて・八木を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、八木の海岸を歩いてみたいと思います。

明石原人発掘地

アカシゾウ発掘地から海岸を歩いていくと、フェンスで厳重に囲まれた一角がありました。こちらは明石原人発掘地です。

明石原人が発掘されたのは戦前の昭和6(1931)年のこと。アマチュアの考古学者だった直良信夫氏がこの地で人骨の化石を発見しました。直良氏は東京帝国大学(現・東京大学)に鑑定を依頼するものの、当時は相手にされず、化石は後に東京大空襲によって焼失してしまいました。戦後、東大に保管されていた石膏模型が再発見され、北京原人やジャワ原人などと同じ原人の骨とされて「明石原人」と呼ばれるようになります。しかし、現物が失われていて、後の発掘調査でも周辺からは関連する化石などは見つかることはなく、正体は今なお謎とされています。ちなみに、この辺りは明石原人がいたころからずっと時代が下がった仲哀天皇2(193)年頃、三韓征伐の帰途に神功皇后が海岸線の崖を屏風のように美しいとして「屏風ヶ浦」と名付けたと伝わっています。

住吉神社

明石原人発掘地の裏手に神社がありました。こちらは住吉神社です。

海に向いた神社

住吉神社は小さな神社で詳しい由緒はわかりませんが、周辺によくある海に向かった神社でした。鳥居の向こうには播磨灘と淡路島の景色が広がります。

来迎寺

八木の街中に入ると、寺院がありました。こちらは来迎寺です。山号は「月輪山」で、神功皇后がこの沖合で月の美しさを称賛したという伝説を由来としています。寺院の創建は養老元(717)年に、神戸市西区の櫨谷にある如意寺で行基が造った観音像の一体をこの地にまつったことに始まるといわれています。

来迎寺の境内

小さな寺院ですが、掃き清められた庭は気持ちがいいですね。神功皇后といえば、大昔のこと…となってしまうのですが、ここ八木ではそれよりはるか昔にさかのぼる歴史があるだけでなく、それらが現代まで繋がっているのを感じることができ、気が遠くなるような気さえしてきます。

平成最後の年末に、八木ではるか遠い歴史を感じてみませんか。

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