せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨平野の戦争遺跡・鶉野飛行場跡を訪ねて(前編)

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厳しい日差しの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

法華口駅

神戸電鉄粟生線の終点・粟生駅から北条鉄道に乗り換えて着いたのは法華口駅です。
「法華」の駅名は南西にある法華山一乗寺に由来していて、駅舎の横には一乗寺の三重塔の模型がありますが、寺までは5kmも離れています。

加西の田園地帯

駅の周りにはのどかな景色が広がっていました。
田んぼを吹き抜ける風が稲の葉を揺らす音が響きます。

林の中の防空壕

田んぼから林の中に入ると、鉄柵に囲まれた穴がありました。
こちらは戦時中に使用された防空壕の跡です。木陰の中の穴の中は真っ暗で、ひんやりとした空気が漂ってきます。

爆弾庫

さらに林の中には、苔むしたコンクリートの入り口をもつ穴がありました。こちらも戦時中に使用されていた爆弾庫です。静かな林の中に佇む暗い穴を眺めていると、肌が泡立つのさえ感じました。

のどかな田園地帯に佇む戦時中の遺跡はこの地にあった姫路海軍航空隊基地鶉野飛行場に関連する施設の跡です。この地に飛行場が設けられたのは太平洋戦争の戦局が悪化し始めた昭和18(1943)年のこと。基地航空兵力を増強のために新たに設けられた姫路海軍航空隊の飛行場として建設されました。

門柱

林の先に進むと、姫路海軍航空隊の門柱のレプリカがありました。
姫路海軍航空隊は練習部隊でこの地で訓練した練習生たちが旅立っていきました。

この門柱の先が姫路海軍航空隊、そして、鶉野飛行場となります。
次回は飛行場跡を訪ねてみたいと思います。

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揖保川のほとりの城下町・龍野を歩いて(肆)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
これまでに続いて、龍野を歩いてみたいと思います。
四回目の今回で、龍野を巡る旅は終わりです。

龍野城隅櫓

本丸を降り、城下に出ると立派な櫓がそびえていました。こちらは隅櫓です。明治以降に龍野城の本丸は失われてしまいましたが、こうして櫓や城門は残されています。

龍野神社

城下町の外れに神社がありました。こちらは龍野神社です。神社の始まりは幕末の文化8(1811)年に祠を築いたことで、後の文久2(1862)年に江戸の脇坂家の藩屋敷の祠を移して神社となりました。余談ですが、この汐留の藩屋敷の跡地は後に開業した日本初の鉄道の新橋駅の用地となりました。

聚遠亭

龍野神社の近くにあったのが聚遠亭です。

聚遠亭は脇坂家の上屋敷跡に設けられた庭園で、紅葉の名所としても知られています。園内にある茶室は池に浮かぶような姿ですが、こちらは幕末の安政期に当時の藩主・脇坂安宅が京都所司代を務めていて、炎上した御所の復興の功績として当時の孝明天皇から賜った茶室を移築したものとされています。もともとはこの茶室が眺めの良さから「聚遠亭」と呼ばれていましたが、今は庭園全体が「聚遠亭」とされています。

再び龍野城へ

再び龍野城に戻り、埋門から城下町を見下ろしてみました。

揖保川のほとりの城下町・龍野。川の水運を活かした物資の集散地であったことが素麺や醤油といった産業を生み出し、龍野藩の政策がそうした産業を育み、今の産業都市へと発展させました。全国に知られる産業の中心で、文化の息づく城下町は一日では足りないくらいの見どころがあります。4回に渡って龍野を歩いてみました。世の中はまた厳しい状況となってきましたが、こんな時期だからこそ、近場の播州で秋を楽しんでみてはいかがでしょうか。

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播州・斑鳩を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、太子町を歩いてみたいと思います。

硯橋

太子山を下りて、鵤の街を歩いてみます。街の中には埋もれるように橋の欄干があり、「硯橋」の名前が刻まれていました。かつてこの向こうには「中宮寺」という寺院があったようで、また奈良の斑鳩を思わせます。

斑鳩寺仁王門

突き当りには大きくて立派な門がありました。こちらは斑鳩寺仁王門です。

斑鳩寺の境内

仁王門をくぐると、広大な境内が広がっていました。

前回も歩いてきたように、ここ太子町の鵤は聖徳太子ゆかりの土地で、「鵤荘」と呼ばれる法隆寺が保有する荘園でした。創建は鵤荘となった推古天皇14(606)年とされていて、荘園の経営のために法隆寺が伽藍を建立したのが始まりとされています。

聖徳殿後殿

境内には立派な八角堂がありました。こちらは大正15(1916)年に建立された聖徳殿後殿です。

法隆寺の支院として栄えていた斑鳩寺ですが、室町時代の天文10(1541)年に守護大名の赤松氏と山名氏との戦いの際に堂宇は焼失。現在の建物はここから少し北側にあった篠山円勝寺の昌仙法師の発願や当時の龍野城主・赤松政秀の支援で順次再建されていったものです。再建後は天台宗の寺院となった斑鳩寺はその後も繁栄し、太子信仰の広まりもあって近世には巨大な伽藍と多数の塔頭寺院を持つ大寺院となりました。しかし、明治に入ると寺域は縮小していき、塔頭寺院も今は一つしか残っていません。

三重塔

境内で目立つのは三重塔です。こちらは室町時代に再建された際の永禄8(1565)年の建立とされています。

塀と三重塔

寺の東側に出てみました。
水路の向こうには立派な塀と先ほど眺めた三重塔がそびえています。

播磨にありながら法隆寺の荘園となり、今も奈良の影響を強く感じる鵤。その中に佇む斑鳩寺は風格ある姿を見せてくれます。秋のお散歩に姫路から足を延ばして訪ねてみてはいかがでしょうか。

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播州・斑鳩を訪ねて(前編)

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秋冷の候、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。



山陽姫路駅前から神姫バスで着いたのは難しい名前のバス停です。
この難しい漢字は「いかるが」と読みます。流石に読めないのか、バスの車内の表示では平仮名での案内でした。

大師堂

バス停から歩くと、山添いにお堂がありました。
こちらは大師堂です。

太子山

大師堂の裏手の山は太子山です。その名の通り、頂上には聖徳太子の立像がありました。今では公園となっている山ですが、かつては網干から龍野を経て新宮を結んでいた播電鉄道が鉄道の沿線だったこの地に遊園地を設けていたそうです。

この辺りは揖保郡太子町にあたります。「太子」の地名といい、バス停名にもなっている「鵤(いかるが)」といい、どこか聖徳太子とのつながりを感じますね。はるか古代の推古天皇14(606)年、推古天皇より播磨の土地を賜った聖徳太子はその土地を仏法興隆のために法隆寺に寄進しました。以来、この辺りは法隆寺の荘園「鵤荘」と呼ばれるようになりました。その後、近代に入ってもこの辺りは「斑鳩」と呼ばれていました。「太子町」となったのは戦後の昭和26(1951)年のことです。

太子山からの眺め

太子山からは「斑鳩」「鵤」と呼ばれている街を眺めることができます。

聖徳太子ゆかりの播州・斑鳩、次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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播磨のお城めぐり その3~利神城と平福の街並み

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こんにちは、玄蕃允です。

前回の続きで、山陽姫路からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三城を押しているようです。

今回は利神城(りかんじょう)です。

公共交通機関では、智頭急行の平福駅が最寄りとなります。駅のすぐ裏手が利神城跡になりますが、山城で現在崩落危険な箇所があるため、城跡まで登山できません。

平福駅


平福駅は近畿の駅百選に選ばれているそうで、立派な駅舎が建っています。

平福は江戸時代前は利神城を中心とした城下町として、江戸時代に入ってからは姫路と鳥取を結ぶ因幡街道の宿場町として、参勤交代や物流で栄えました。

この利神城ですが、池田輝政の甥・池田由之が姫路城の支城として入ります。「雲突城」とも称されたそうで、麓からでもその美しさがよく分かります。

利神城


間近で見ることができないのが、残念です。竹田城が有名になりましたが、匹敵する美しさではないでしょうか。

もともとは1349年に赤松氏の一族の別所敦範が築城しました。戦国時代に入り、別所氏は播磨に侵攻する織田方に一度は従いますが、播磨の領主たちがつぎつぎと織田を見限り、中国地方の毛利方に従う中でそれに追随します。織田方の上月城主・尼子勝久と山中鹿之介が利神城を奪いますが、毛利氏が上月城を落とし、利神城はその時毛利方であった宇喜多氏の城となります。

関ヶ原の戦い後、池田氏が播磨を与えられますが、輝政が姫路城に、甥の由之がこの利神城に入りました。

由之は城の大改修に着手し、三重の天守を構え、曲輪を全て石垣で築きました。また、城下町を整備し、武家町や街道沿いに町人地を設けました。輝政はその豪壮さに驚き、江戸幕府の警戒を恐れて天守の破却を命じたとされます。

平福の街並み


江戸時代以降、平福は因幡街道最大の宿場町として栄えます。

瓜生原家


江戸時代の町屋が残っています。瓜生原家は鋳物業を営んでいたそうで、1810年に建てられました。

本陣跡


本陣は宿場町で大名や旗本などが宿泊所として指定した家になります。

陣屋門


陣屋門ですが、1万石以下の小藩の城は陣屋と呼ばれ、その邸宅の入口の長屋門を陣屋門といいます。平福は利神城廃城後に松平氏5千石の旗本領となり、代官支配となりました。この陣屋門は1864年に時の代官が建築したものです。

佐用川


佐用川沿いに建物が建てられていて、非常に美しい景観が広がります。

城下町と宿場町の名残りが残る平福の街並み。ぜひ足を運んでみてください。

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播磨のお城めぐり その2~佐用城

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こんにちは、玄蕃允です。

前回の続きで、山陽姫路からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三城を押しているようです。

今回は佐用城です。
公共交通機関では、JR姫新線の佐用駅が最寄りとなります。駅から徒歩15分くらい、川沿いを歩いていると案内板が見えてきます。



案内に従って佐用城跡に到着です。
小高い丘に本丸跡と城主を祀った福原霊社があるのみです。

上月城とは異なり平山城なので、楽にみることができます。

この佐用城ですが、赤松氏の家臣である福原氏が代々城主を務めていたこともあり、福原城とも呼ばれます。

元弘3年4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて、鎌倉方の総大将名越高家打ち取った佐用範家の築城と伝えられています。

福原霊社


福原氏は上月城とともに播磨に進出する織田方の大将・羽柴秀吉と敵対し、中国地方の毛利方に与します。天正5年(1577年)佐用に進んだ秀吉は黒田官兵衛と竹中半兵衛に佐用城攻めを命じました。

この際、黒田官兵衛の知略によって、城の三方を囲み、後ろの一方を開けておく孫子の兵法「囲師必けつ」によって落城させたといわれています。

そして、落命した城主・福原則尚を祀るために後世建てられたのが、福原霊社になります。

福原則尚辞世の句碑


本丸跡


本丸跡は小高い丘になっていて、南北を流れる佐用川などあたりの景色が見渡せます。

黒田官兵衛と竹中半兵衛、二兵衛が落とした佐用城に足を運んでみてください。

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室津へ

投稿日:



こんにちは。玄蕃允です。

今回は黒田官兵衛ゆかりの地として室津に行ってきました。(ちょっと沿線からは離れていますが・・・)

 

室津は『播磨国風土記』で「風を防ぐこと室の如し」と紹介されているように、天然の良港で古代から瀬戸内海航路の要港でした。江戸時代、参勤交代の西国大名はほとんどがこの室津で上陸し、陸路を進んだため、宿場町としても栄えたそうです。

車以外の交通手段として、山陽電車の網干駅から神姫バスで行くことができます。時刻表を見ると便数は少ないですが、約25分で着きます。意外と近いです。

美しい港


カキの販売所が並んでいます。


カキの時期にまた来たいですね。

 

たつの市立室津民俗館


 

民俗館は海産物問屋の商家であり、立派な雛人形が飾られていました。

室津では八朔(旧暦8月1日)にひな祭りをする風習があるそうです。それは室山城で起こった悲劇に由来があります。

室山城の城主・浦上正宗の弟・宗景と黒田官兵衛の妹との婚礼の夜に、当時対立していた龍野城主の赤松政秀が室山城を急襲しました。室山城は落城し、花嫁は討死したという悲しい出来事があったそうです。花嫁の鎮魂のために半年遅れの八朔の日にひな祭りを延期したというのが八朔のひな祭りの由来です。

官兵衛にとって室津は家族を亡くしたつらい土地だったのかもしれませんね。

そして一番の目玉、賀茂神社


 

えらく立派なソテツもありました。

賀茂神社は平安時代に建てられ、本殿を含めて8棟の建造物が重要文化財に指定されています。ソテツは野生のものでは日本列島の北限として県指定文化財になっています。清盛ともゆかりのある神社で、治承4年(1180)高倉上皇の厳島参詣に清盛は同行し、室津に立ち寄った際に航海の安全を祈願しました。

神社からは素晴らしい景色が眼前に。


かのシーボルトも絶賛したというのも頷けます。

黒田官兵衛ゆかりの地であるとともに、古代から海上交通の要所であった室津。ぜひ一度足を運んでみてください。

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山陽沿線歴史部出陣之御挨拶

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初めまして、山陽沿線歴史部と申します。

これまで同僚のあまQのブログ「スマホ片手に街ぶらり」に登場してきたので、厳密には初めましてではありませんが、このたび、独立ブログ「せっつ・はりま歴史散歩」を立ち上げることになりましたので、改めてご挨拶させていただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

さて、形から入る歴史部員のメンバー、早速顔出しの代わりとして部員のシンボルマークを決めてミニ旗指物を作りました。



部長のS係長こと左馬頭(さまのかみ)は「揚羽蝶

私、Nこと内膳正(ないぜんのかみ)は朱に「彦根橘

Gこと玄蕃允(げんばのじょう)は「さがり藤

 

各々、旗印がそろったところで、

山陽沿線歴史部!

いざ出陣!