せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

平清盛の夢のあと・兵庫津を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
今回も兵庫津を歩いてみたいと思います。

大輪田橋

再び新川沿いに出て発見したのが大輪田橋という橋です。大正13(1924)年の新川開削時に設けられたコンクリート橋で、三連のアーチが美しいですね。戦時中の神戸大空襲でこの周辺は大きな被害を受け、この橋に殺到した多くの避難民が炎に巻かれて亡くなったと言われています。現在でも、橋の所々には炎で焼かれたのか、黒ずみが残っています。

清盛塚

大輪田橋から程なく、清盛塚に着きました。さっき能福寺で清盛の墓所とされる平相國廟を見てきたところですが、ここも清盛の墓所として伝えられてきました。この塚はもともとは現在の場所の南西にあったそうですが、神戸市電の建設の際に道路が拡幅されることになり、現在地へ移転したそうです。その際に発掘調査を行なったそうですが、清盛の遺骨は発見されず、供養塔であると結論付けられました。

薬仙寺

清盛塚から歩くと薬仙寺という寺院に着きました。周辺は倉庫や企業のオフィスが建ち並び、あまり歴史を感じるような景色ではありませんが、こちらの寺院はなんと奈良時代に行基が創建した寺と伝えられます。「薬仙寺」という寺号を与えたのは後醍醐天皇であると言われています。創建当初は広大な寺領を有していたそうですが、運河の開拓によって削られ、現在の姿となりました。

萱の御所跡

境内にあったのは「萱の御所跡」という石碑。こちらは平安時代に平清盛後白河法皇を幽閉した「萱の御所」の跡と言われています。もとはここから東側の位置にあったそうですが、新川運河の拡張工事の際にこの地に移されたそうです。

朝廷での地位を固めた平清盛は後白河法皇と協調し、兵庫を中心とした日宋貿易の拡大をはかっていました。朝廷での盤石な地位とともに日宋貿易の成功は平氏に隆盛をもたらします。その歯車が狂いだしたのが安元3(1177)年の鹿ケ谷の陰謀、治承3(1179)年に清盛が起こしたクーデター事件の治承三年の政変です。治承三年の政変の際に清盛は後白河法皇を幽閉。そして、福原への遷都を強行しました。この「萱の御所」は清盛が遷都の際に後白河法皇を幽閉した場所と言われています。このことは多くの反感を呼び、後に所謂源平合戦と言われる治承・寿永の乱の勃発で各地から反平氏の狼煙が上がり、平氏は追い込まれていくことになりました。そのさ中に清盛は熱病に侵されてこの世を去ります。その後、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡、鎌倉幕府の成立で日本は本格的な武家政権の時代を迎えました。

清盛が眺める港町・神戸

清盛亡き後も兵庫は重要な港として栄えることになりました。その中興の祖となったのが東大寺の僧・重源です。源平合戦で焼失した東大寺の復興のための資材運搬のために損壊した港湾施設を整備したとのことで、そもそも南都焼討をしたのが平氏であるのを考えると妙な皮肉のようにも感じてしまいます。その後も足利幕府の日明貿易の拠点となり、近代には開港地として日本有数の貿易港となりました。戦後の経済成長により神戸港はコンテナ取扱量で一時世界一となりましたが、アジア諸国の経済発展で日本の地位が相対的に下がり、阪神淡路大震災の被害で凋落は決定的なものとなりました。今やコンテナ取扱量は世界トップの上海シンガポール深圳などの10分の1に満たない数です。兵庫の地から遠く世界を目指した清盛に、今の神戸はどう映っているのでしょうか。少し考えさせられるような気になり、兵庫津を後にすることにしました。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。