せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、西宮を歩いてみたいと思います。

西宮神社本殿

西宮神社の本殿は改修工事中で、参拝は仮拝殿でした。大きな社殿を目にすることができないのが残念ですが、これはこれで今しか見られない貴重な光景ですね。

本陣跡と蛭児大神御輿屋傳説地碑

西宮神社を後にしてから表大門から続く道を歩くことにします。こちらはかつての西国街道です。かつての西国街道の本陣があった場所には「蛭児大神御輿屋傳説地」と刻まれた石碑がありました。

前回ご紹介しましたが、西宮神社の創建の伝説では鳴尾の漁師が海中から引き揚げた神像を祀ったのが始まりとされています。当初、漁師は神像を自宅で祀っていました。しかし、ある夜に神像が漁師の夢に現れて、自分は蛭児神であること、そして、鳴尾から西にある宮地に祀ってほしいとお告げがあったそうです。お告げを受けた漁師は仲間とともに蛭児神を輿に載せて西へと運びましたが、途中で蛭児神が眠り込んでしまったので尻をつねって起こしました。その場所がこの「蛭児大神御輿屋傳説地」とされています。時代が下がり、近世にはこの辺りは西宮神社の門前町と西国街道の宿場町として栄えたそうです。特に、宿場町としては西国街道や山崎街道、中国街道が交わる交通の結節点で、多くの人や物資で賑わったとされています。現在、宿場町の面影をしのぶことができるものはあまり残されていませんが、建て込んだ街並みにかつての賑わいを感じることができます。

札場跡

西国街道と交わる南北の道は札場筋線です。その名の通り、西国街道との交差点には札場があったとされていて、現在では交番になっていました。

宮水

阪神高速の高架を潜った先には小さな公園があり、「宮水」についての説明看板が建てられていました。門前町、宿場町として栄えた西宮ですが、西宮を歩く中で欠かせないのがこの宮水ではないでしょうか。

次回ももう少し西宮を歩いてみたいと思います。

宮水の湧く宿場町・西宮を歩いて(前編)

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少し肌寒い日が続きますが、日差しにはどこか夏の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神西宮駅

直通特急で着いたのは西宮駅です。
阪神本線の主要駅なこともあり、駅の中や周辺は店舗が建ち並んで賑やかな雰囲気です。

西宮の街並み

住宅地のイメージが強い西宮ですが、阪神西宮駅の周辺には昔ながらの街並みが続いていています。

西宮神社表大門

街中に土壁に囲まれて佇んでいたのが西宮神社です。こちらの表大門は「赤門」とも呼ばれ、その名の通り、かつての西国街道に面して朱塗りの楼門がそびえています。

西宮神社の創建時期は詳しくわかっていませんが、非常に古いといわれています。伝説でははるか古代、西宮の東の鳴尾に住んでいた漁師が神戸・和田岬の沖合で海中から引き揚げた神像を祀ったのが始まりとされています。時代が下り、平安時代にはこの地から北に鎮座する廣田神社の境外摂社の「浜の南宮」「南宮社」と呼ばれる社の境内の夷社となりました。この夷社が中世から近世にかけて夷信仰の広まりとともに知られるようになり、発展していきました。

南宮神社

西宮神社の境内には南宮神社がありました。こちらは今も廣田神社の境外摂社とされています。

全国から信仰を集め、「浜の南宮」よりも大きな神社へと発展した西宮夷社は明治時代に入ると廣田神社から「大国主西神社」として分離し、のちに現在の呼び名である「西宮神社」となりました。ちなみに、「西宮」と言えばこちらの西宮神社が思い浮かびますが、地名の由来となった「西の宮」とは本来は廣田神社のことを指し、廣田神社自体や廣田神社の荘園を「西宮」と呼んだことに因んでいます。

西宮神社の境内

松の木が青々として眩しいくらいの境内を涼しい浜風が吹き抜けていきます。

神池のカキツバタ

境内の神池にはカキツバタが鮮やかな花を咲かせていました。

西宮神社と西国街道の町、西宮をもう少し歩いてみたいと思います。

古城と港の地・大物を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて尼崎の大物を歩いてみたいと思います。

大物くづれ戦跡

阪神電車の大物駅の北側には「大物くづれ戦跡」の碑が佇んでいました。

所謂「大物崩れ」とは戦国時代初めの享禄4(1531)年に起こった戦いで、「両細川の乱」と呼ばれる室町幕府官僚細川氏の家督争いと室町幕府将軍の座をめぐる内乱の戦いの一つです。幕府で実権を握った細川政元が暗殺されたことをきっかけに政元の養子の細川高国と、やはり養子の細川澄元・晴元父子の間で対立が起こり、戦いは泥沼化していきました。この戦いの終わりとなったのがこの大物崩れで、高国を裏切って晴元側についた播磨守護・赤松政祐が陣を敷いていた西宮の神呪寺から中嶋(現在の大阪市北区大淀付近)の高国軍の陣を奇襲。大敗した高国は尼崎の大物城へと敗走します。しかし、大物城下には赤松軍の手が回っていて、高国はほどなく捕らえられて自害しました。20年以上にわたり泥沼状態だった戦が崩れるように終わりを告げたことから、この戦いを高国が自害した大物にちなんで「大物崩れ」と呼ぶようになったそうです。

北の口門

さて、尼崎で城と言えば思い浮かぶのは復元された模擬天守が直通特急の車窓からもよく見える尼崎城ですね。この尼崎城と大物城は同じ城なのか、実ははっきりしていません。大物駅の南側には住宅地が広がっていて、この辺りが「残念さん山本文之助」が捕らえられた尼崎城北の門のあった辺りだそうですが、何の痕跡も見当たりません。

大物主神社

住宅地の中に佇んでいたのが大物主神社です。

大物浦と呼ばれていた大物の地に城を築いたのは大物崩れで命を絶った細川高国だといわれています。といっても、築城された当時の城は砦のようなものであったと考えられています。同じ城なのかはっきりとわかっていない尼崎城と大物城ですが、位置が微妙に異なっているようで大物城は「古城」とも呼ばれていたといわれています。その古城・大物城はこの辺りにあったとのこと。築城当初は砦のようだった城を西へ西へ拡張していったのが後の尼崎城に繋がっていったということなのでしょうか。

義経辨慶隠家跡

大物主神社の境内には「義経辨慶隠家跡」と刻まれた石碑がありました。「大物崩れ」が印象的な大物ですが、前回も訪ねたようにここ大物は古くからの港町で、京都への川船と大阪湾・瀬戸内海への航路の結節点でした。平安時代、兄の源頼朝と対立して都落ちした義経弁慶とともに大物に滞在しこの場所に隠家を構え、大物浦を出る船で西へと逃れたといわれています。

大物橋跡

大物主神社から南へと歩くと、再び大物川の川跡と交わりました。川跡には「大物橋跡」という石碑が佇んでいます。今は交差点となっているこの道路はかつては橋だったのでしょう。

大物川は大物浦を行き来する船の運河としてではなく、尼崎城の外堀の役割もあったそうです。ここ大物に城が築かれ、歴史上の出来事の舞台となっていったのは姿を消してしまった川の存在があったからなのかもしれません。
緑地となったかつての川をたどりながら、大物駅へと戻ることにしました。

古城と港の地・大物を歩いて(前編)

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師走に入り年末の雰囲気を感じるようになった頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大物駅

阪神電車の尼崎駅で直通特急から各駅停車に乗り換えて着いたのは大物駅です。
阪神本線と阪神なんば線が分かれる駅ですが、停まるのは各駅停車ばかりであまりなじみのない方が多いのではないでしょうか。

大物川緑地

駅の近くには公園や緑地がありました。地図を見ると緑地は曲がりくねりながら駅の南北に細長く続いています。こちらは大物川の跡です。

今では住宅や町工場の建ち並ぶ大物ですが、かつては「大物浦」と呼ばれた港町でした。現在は埋め立てられている大物川は上流で神崎川や淀川につながり、大阪湾を運ばれた物資がここ大物で川船に積み替えられて京都へ運ばれる物流の拠点でした。しかし、近代にかけて尼崎が工業都市として発展するにつれて汚染が進み、地盤沈下の影響で川の流れは淀んでいきました。川を浚渫して浄化する案もあったそうですが、結局埋め立てられることとなり、昭和45(1970)年に埋め立て工事が完了して川としては姿を消してしまいました。同様に埋め立てられて姿を消した川は尼崎から大阪にかけて数多くあり、緑地になっていたり橋跡が残されていたりして川の名残を見つけることができます。

残念さん山本文之助墓

公園沿いを歩いていると、「残念さんの墓」という変わった標記を見つけました。こちらは「残念さん山本文之助墓」です。山本文之助とは幕末の長州藩士で、元治元(1864)年の禁門の変の際には京都へ従軍しました。この戦いで長州藩は幕府軍に完敗し、文之助は京都から敗走します。しかし、途中の尼崎の北の口門で尼崎藩士に捕らえられ、取り調べ中に牢屋の中で「残念、残念」と言いながら自決したそうです。当時は「長州びいき」が流行っていて、尼崎藩が建てた文之助の墓は「残念さん」と呼ばれ、幕府が墓参を禁じたにも関わらず墓参者が絶えなかったそうです。現在の墓は尼崎藩の建てたものではなく、長州藩と取引のあった尼崎の商家が建てたものだそうです。

大物くづれ戦跡

「残念さんの墓」から大物駅の近くに戻りました。駅の近くには「大物くづれ戦跡」の碑がありました。ここ大物は物流の拠点だっただけではなく、戦国時代におこなわれた所謂「大物崩れ」の舞台ともなりました。

次回は戦と古城の跡をたどりながら大物を歩いてみたいと思います。

尼崎・寺町を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、尼崎の寺町を歩いてみたいと思います。

広徳寺

江戸時代には20もの寺院が建ち並んでいた寺町ですが、移転した寺院や廃寺となった寺院があったことから、現在残っているのは11の寺院です。その一つがこちらの広徳寺です。元は大物にあったのがここ寺町へ移った寺院です。本能寺の変の際、秀吉が「中国大返し」で京都へ戻る途中に逃げ込み、僧侶に変装したという伝説が残されています。

大覚寺

広徳寺から寺町をさらに進むと、山門が立派な大覚寺がありました。石畳が敷き詰められている大覚寺の境内は思ったよりも広々としています。

大覚寺は尼崎市内では最古の寺院といわれ、創建は推古天皇13(605)年にさかのぼり、聖徳太子が百済の日羅上人なる高僧に命じて開いたとされています。元の場所は「長洲の浦」と呼ばれた現在の大物でしたが、やはり、尼崎城の築城にあたって寺町が整備された際にこの場所へ移されています。大物に寺院があった頃、室町幕府の二代将軍の足利義詮が大覚寺に拠点を置いたことがあり、「大覚寺城」とも呼ばれていました。大物にあった頃の寺院は残されていませんが、城郭のような姿だったのかもしれませんね。それにしても、由緒ある寺院が隣り合って並ぶ寺町はどこか独特の雰囲気がありますね。

長遠寺

広い境内を持つのが長遠寺です。

長遠寺の境内

山門をくぐると、立派な本堂がそびえていました。こちらの長遠寺も南北朝時代の観応元(1350)年の建立と伝わる古刹で、もとは大物駅近くの東本町にあったのが移転したものです。

境内の妙見宮

歴史ある寺院のせいか、寺院にもかかわらず境内には妙見宮があり、鳥居と社殿もありました。こうした神仏習合の名残を見つけるのは私個人的な楽しみの一つです。

長遠寺多宝塔

長遠寺で印象的なのが多宝塔です。境内の堂宇の多くは江戸時代の移転後に建てられたものですが、こちらの多宝塔はかつての境内から移築されたものだそうです。空模様は生憎でしたが、南北朝時代の様式を残すとされる多宝塔が秋の空に向かってそびえていました。

尼崎城を眺めて

寺町を歩いた後、阪神尼崎駅の方へと戻って復元された尼崎城を眺めてみました。位置や建物の様式は本来の尼崎城と異なるそうですが、阪神電車からもよく見えるお城のおかげで尼崎に城下町のイメージが定着してきたようです。一方、尼崎城の築城で生まれた寺町はかつての城下町の風情を感じる街並みが残されています。尼崎城と併せて寺町を訪ねれば、より城下町としての尼崎の姿が見えてくるのではないでしょうか。

尼崎・寺町を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、尼崎を歩いてみたいと思います。

本興寺

尼崎の市街地に続く寺町に入ってすぐに佇むのが本興寺です。

本興寺の境内

本興寺は寺町の中心的な寺院で、広々とした境内には本堂だけでなく塔頭寺院が建ち並んでいます。

本興寺は室町時代初めの応永27(1420)年の日隆上人の開祖と伝わる古刹で、法華宗の四大本山とされています。もとは今の場所から少し東側の大物の若宮神社の社領地にありましたが、江戸時代の元和3(1617)年に元の場所に尼崎城が築城されることとなったために現在の場所へ移っています。同時に近隣の寺院も周辺に集められ、形成されたのが現在の寺町です。

本興寺開山堂

境内の奥に佇んでいたのが開山堂です。本興寺の本堂は江戸時代に焼失したのを再建したもので、他の建物も多くは現在の場所へ移転した後に建てられたものですが、この開山堂は諸説があるようですが、創建時の建立か室町時代の末の永禄元(1558)年に建立されたものを寺の移転に伴って移改築したものです。堂内には日隆上人の像が安置されています。

本興寺の境内

渡り廊下が巡る本興寺の境内は街中とは思えないような風情でした。
境内を秋の風が吹き渡っていきます。

風情ある尼崎の寺町をもう少し歩いてみたいと思います。

尼崎・寺町を歩いて(前編)

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急に気温が下がり、秋らしくなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神尼崎駅

直通特急を下りたのは阪神電車の尼崎駅です。
工業都市・尼崎の南の中心で、駅の周辺にはホテルや商業施設、マンションなどが建ち並んでいます。

尼崎中央商店街

尼崎駅の北側には飲食店などが建ち並び、にぎやかな雰囲気です。

尼崎中央商店街の中を歩く

尼崎のトピックスといえば、阪神タイガースの優勝でしょうか。
駅前から続く尼崎中央商店街では阪神タイガース関連の装飾があふれていました。

現在は大阪湾岸に工業地帯を抱える工業都市や住宅地のイメージのある尼崎ですが、かつては城下町でした。大阪湾に面したデルタ洲に尼崎城の城郭が築かれたのは江戸時代初めの元和3(1617)年のこと。大坂夏の陣の功で近江膳所から移った城主・戸田氏鉄の手によるものでした。城があったのは現在の復元天守の位置から少し離れた阪神電車尼崎車庫の南側で、庄下川大物川、そして大阪湾に囲まれてまるで海に浮かぶ城のようだったと言われています。そして、築城の当初は城を取り囲むように東西、そして、南側に城下町が広がっていました。城下町も多くが川に囲まれたデルタ洲の上に作られていて、町全体が水に浮かんでいるような姿に見えたのかもしれません。

大本山本興寺

賑わう阪神尼崎駅の北側に対して、南側はマンションや住宅が多く、落ち着いた雰囲気です。駅の南東側にはかつて江戸時代に築かれた尼崎城があり、この辺りは城下町でした。尼崎城があった付近には平成30(2018)年に模擬天守が復元されています。
駅から南へ歩くと、道路沿いに「大本山 本興寺」と刻まれた石碑がありました。この辺りは城下町の西側で築城前から別所村という集落がある地域でした。

寺町

角を曲がった先には駅前のビル街からがらりと変わった雰囲気でした。
この辺りは寺町と呼ばれる地域です。

次回、もう少し尼崎を歩いてみたいと思います。

石屋川のほとり・御影を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、御影を歩いてみたいと思います。

西国街道の松

透き通った水がこんこんと湧き出す「澤之井」のある阪神御影駅から北西へと歩くことにしました。
中学校の裏手、住宅地が広がる中に佇んでいたのは趣のある松の木です。「西国街道の松」と呼ばれるこの松の木は呼び名の通り、この地を通っていた西国街道沿いに植えられた松の木で、江戸時代からこの地を見守ってきました。確かに風格のある美しい松の木ですね。松の木の向かいには「旧西国街道」と書かれた石碑が建てられていました。

六甲山地の麓に位置する御影は山から算出される花崗岩を使った石材の産地、そして、澤之井の伝説にみられるような豊かな水を使った酒造地として、近世にかけて発展することとなりました。現在、六甲山での石材の採取は行われておらず、御影の名前は花崗岩の別名の「御影石」に残るのみです。しかし、酒造業は今も盛んで、御影の海側は灘五郷の「御影郷」とされて今も酒造メーカーの工場が建ち並んでいます。明治22(1889)年、御影村は周辺の村とともに御影町となりますが、酒造を中心とした産業が盛んで、産業の発展を背景に大きな人口を抱えた豊かな町だったとされています。

御影公会堂

国道沿いを歩いていると、石屋川沿いに立派な建物がそびえていました。こちらは神戸市立御影公会堂という施設です。

御影公会堂の内部

戦前の昭和8(1933)年に建てられた建物の内部は重厚な雰囲気で、国の登録有形文化財に指定されています。

御影公会堂は当時の御影町が建てた文化施設で、大ホールは1000人が収容ができる当時としては巨大なもので、御影町の発展を象徴するような建物です。しかし、竣工からほどなく、昭和20(1945)年の神戸大空襲で御影の町とともに公会堂は大きく被害を受け、内部はほぼ焼け落ちてしまったそうです。戦後の昭和25(1950)年に御影町は神戸市へ編入され、公会堂の所有も神戸市へと移管されました。応急的な復旧がなされて幼稚園として使われていたという公会堂は神戸市の予算でようやく復旧され、現在も地域の集会施設として使用されています。

嘉納治兵衛像

公会堂が建てられるにあたっては御影町の資金の他、御影郷の酒造業者・白鶴酒造嘉納治兵衛からの寄付が使われました。公会堂の中には嘉納治兵衛の像がありました。

御影町章のマンホール

公会堂の裏手へ回ってみるとかつての御影町の町章が描かれたマンホールが残されていました。

石屋川と六甲の山並み

公会堂から石屋川に沿って歩いていくと六甲の山並みを望むことができました。

水や石材といった六甲の恵みとともに発展してきた御影は今も六甲の麓に佇んでいます。

石屋川のほとり・御影を歩いて(前編)

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朝晩は涼しくなり、夏の終わりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神御影駅

直通特急を下りたのは阪神電車の御影駅です。
駅前にはバスターミナルと商業施設が整備され、地域の拠点の雰囲気です。

澤之井の地

御影駅の駅前には石碑が佇んでいました。
立派な石には「澤之井の地」の文字が刻まれています。

神戸市の東灘区に位置する御影は戦後の昭和25(1950)年に神戸市へ編入されるまで御影は御影村~御影町という独立した自治体でした。御影石で知られる地名の由来になったとされるのはこの石碑に刻まれている「澤之井」という泉であるとされていて、伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地に立ち寄った際に自分の姿を泉に写したことから「御影」という地名が付けられたとされています。ただ、地名の由来には諸説があるとされています。

澤之井

石碑は駅前にありますが、澤之井自体は阪神電車の御影駅の高架下にあり、今も鳥居と玉垣に囲まれた泉が佇んでいました。

澤之井を眺めて

高架下の薄暗い場所になってしまいましたが、泉を覗いてみると今もこんこんと清い水が湧き出していました。水底がはっきりと見える透明度に驚いてしまいますね。澤之井の水を使った酒を後醍醐天皇へ奉納したことがここ御影での酒造の始まりであるともされています。実際にこの辺りで酒造が盛んになったのは江戸時代頃とされているので、この後醍醐天皇の話はあくまで伝説なのかもしれませんが、水に恵まれた御影を象徴するような泉です。

賑やかな街に歴史ある史跡の佇む御影をもう少し歩いてみたいと思います。

西郷から敏馬の浦を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、灘を歩いてみたいと思います。

敏馬神社

西求女塚古墳から青谷川を渡って交通量の多い浜手幹線を歩くと鳥居が見えてきました。こちらは敏馬神社(みぬめじんじゃ)です。

敏馬神社御旅所

少し時間を遡って、こちらは大石の住吉神社にあった石碑です。この石碑に刻まれている通り、大石の住吉神社は大石浜で物資の運搬に携わる船の航海の安全を祈願するだけでなく、ここ敏馬神社の御旅所にもなっています。

敏馬神社は伝説でははるか古代の神功皇后元(201)年の創建とされ、神功皇后の三韓征伐の際に守護神を祀ったとされています。古代、敏馬神社のある場所は現在でも小高い丘になっていて、古代の海岸線が今よりも山手にあった頃には岬のようになっていたそうです。東側は入江のようになっていて、「敏馬の泊」と呼ばれる港になっていました。港の機能は奈良時代には大輪田の泊へと移されますが、この敏馬の泊が神戸に港が整備されるようになった始まりと言えるのかもしれません。

敏馬神社の境内

浜手幹線からの急な石段を上がると敏馬神社の社殿へと着きます。かつては岬だっただけあり、海岸に近く平坦なこの辺りでは珍しい高台です。

港ではなくなった後も、ここ敏馬浦は白砂青松の景勝地として知られるようになりました。近世には神社前の西国街道の沿道が栄えるようになっただけでなく、氏子地の大石味泥岩屋といった村々が酒造業で栄えるようになり、その財力を頼りに与謝蕪村とその弟子の呉春大魯が訪れ、この地でも俳人が生まれるようになりました。

敏馬浦を見下ろす

敏馬神社からかつての敏馬浦を見下ろしてみました。白砂青松の景勝地だった海岸は近代にかけて、海水浴場やボートハウス、料亭等が設けられて、一種のリゾート地として人気を集めるようになります。しかし、昭和に入って阪神電車の建設工事の際に発生した土砂で海岸が埋め立てられ、現在では阪神高速神戸線の高架橋がそびえたっていて、かつての景勝を忍ばせるものはありません。氏子地でも岩屋や味泥では酒造は行われないようになり、街の景色は大きく変わりました。しかし、今でも、敏馬神社の神輿はかつての景勝地や酒造で栄えた村々を、大石へと巡っています。

岩屋駅

敏馬神社から山手へ歩くと阪神電車の岩屋駅へ着きました。色とりどりの装飾が賑やかな駅は兵庫県立美術館の最寄り駅としても知られています。

かつて都人が憧れ、多くの文化人が足を運んだこの地は、新しい形で芸術の発信地となっているのかもしれませんね。