せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

たつの市に古代の遺跡をたずねて

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こんにちは、玄蕃允です。

姫路の西隣のたつの市に行ってきました。
たつの市は縄文時代や弥生時代の遺跡が数多くあります。

山陽姫路駅からJRの姫新線に乗り換えて播磨新宮駅で下車します。

まず国指定史跡の新宮宮内遺跡です


当時の住居が復元されています。



新宮宮内遺跡は縄文時代後期から中世までの大規模な集落遺跡になります。
もっとも栄えたのは弥生時代だそうです。

この周辺は揖保川の中流域の盆地になっており、豊かな土地のため人々が集まり、大きな集落が形成されました。
すぐ近くにはたつの市立埋蔵文化財センターがあり、遺跡の出土物などが展示されています。

たつの市立埋蔵文化財センター


天神山古墳


古墳もこの近辺にあります。天神山古墳と呼ばれ、今から1400年前に造られた円墳になります。古墳内の石室は残念ながら盗掘されていたそうですが、副葬品がわずかに残っており、資料館に展示されています。

古墳の近くには重要文化財の宮内天満神社があります。

宮内天満神社


中世に播磨・美作・備前の三国の守護職赤松則祐が、この地の南に位置する城山に城を築きましたが、その鬼門を護り、城の安泰を祈るために、唐から禅師を迎え、寺を建てたのが始まりです。その禅師の寝枕に天神(菅原道真)が現れたことにより、天神を鎮守堂に祀りました。

このように西播磨には古代から中世にかけての遺跡が数多く残っています。ぜひ足を運んでみてください。

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播磨のお城めぐり その3~利神城と平福の街並み

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こんにちは、玄蕃允です。

前回の続きで、山陽姫路からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三城を押しているようです。

今回は利神城(りかんじょう)です。

公共交通機関では、智頭急行の平福駅が最寄りとなります。駅のすぐ裏手が利神城跡になりますが、山城で現在崩落危険な箇所があるため、城跡まで登山できません。

平福駅


平福駅は近畿の駅百選に選ばれているそうで、立派な駅舎が建っています。

平福は江戸時代前は利神城を中心とした城下町として、江戸時代に入ってからは姫路と鳥取を結ぶ因幡街道の宿場町として、参勤交代や物流で栄えました。

この利神城ですが、池田輝政の甥・池田由之が姫路城の支城として入ります。「雲突城」とも称されたそうで、麓からでもその美しさがよく分かります。

利神城


間近で見ることができないのが、残念です。竹田城が有名になりましたが、匹敵する美しさではないでしょうか。

もともとは1349年に赤松氏の一族の別所敦範が築城しました。戦国時代に入り、別所氏は播磨に侵攻する織田方に一度は従いますが、播磨の領主たちがつぎつぎと織田を見限り、中国地方の毛利方に従う中でそれに追随します。織田方の上月城主・尼子勝久と山中鹿之介が利神城を奪いますが、毛利氏が上月城を落とし、利神城はその時毛利方であった宇喜多氏の城となります。

関ヶ原の戦い後、池田氏が播磨を与えられますが、輝政が姫路城に、甥の由之がこの利神城に入りました。

由之は城の大改修に着手し、三重の天守を構え、曲輪を全て石垣で築きました。また、城下町を整備し、武家町や街道沿いに町人地を設けました。輝政はその豪壮さに驚き、江戸幕府の警戒を恐れて天守の破却を命じたとされます。

平福の街並み


江戸時代以降、平福は因幡街道最大の宿場町として栄えます。

瓜生原家


江戸時代の町屋が残っています。瓜生原家は鋳物業を営んでいたそうで、1810年に建てられました。

本陣跡


本陣は宿場町で大名や旗本などが宿泊所として指定した家になります。

陣屋門


陣屋門ですが、1万石以下の小藩の城は陣屋と呼ばれ、その邸宅の入口の長屋門を陣屋門といいます。平福は利神城廃城後に松平氏5千石の旗本領となり、代官支配となりました。この陣屋門は1864年に時の代官が建築したものです。

佐用川


佐用川沿いに建物が建てられていて、非常に美しい景観が広がります。

城下町と宿場町の名残りが残る平福の街並み。ぜひ足を運んでみてください。

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播磨のお城めぐり その2~佐用城

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こんにちは、玄蕃允です。

前回の続きで、山陽姫路からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三城を押しているようです。

今回は佐用城です。
公共交通機関では、JR姫新線の佐用駅が最寄りとなります。駅から徒歩15分くらい、川沿いを歩いていると案内板が見えてきます。



案内に従って佐用城跡に到着です。
小高い丘に本丸跡と城主を祀った福原霊社があるのみです。

上月城とは異なり平山城なので、楽にみることができます。

この佐用城ですが、赤松氏の家臣である福原氏が代々城主を務めていたこともあり、福原城とも呼ばれます。

元弘3年4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて、鎌倉方の総大将名越高家打ち取った佐用範家の築城と伝えられています。

福原霊社


福原氏は上月城とともに播磨に進出する織田方の大将・羽柴秀吉と敵対し、中国地方の毛利方に与します。天正5年(1577年)佐用に進んだ秀吉は黒田官兵衛と竹中半兵衛に佐用城攻めを命じました。

この際、黒田官兵衛の知略によって、城の三方を囲み、後ろの一方を開けておく孫子の兵法「囲師必けつ」によって落城させたといわれています。

そして、落命した城主・福原則尚を祀るために後世建てられたのが、福原霊社になります。

福原則尚辞世の句碑


本丸跡


本丸跡は小高い丘になっていて、南北を流れる佐用川などあたりの景色が見渡せます。

黒田官兵衛と竹中半兵衛、二兵衛が落とした佐用城に足を運んでみてください。

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播磨のお城めぐり その1~上月城

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こんにちは、玄蕃允です。

山陽姫路駅からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。
佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三つのお城を押しているようです。
今回は上月城です。
公共交通機関では、JR姫新線の上月駅が最寄りとなります。駅から徒歩10分くらいで、上月城の麓・登山口に到着です。

登山口

登山口前には資料館があります。入館は200円ですが、土日祝月しか開館してないようですので、ご注意を。

資料館


この上月城。黒田官兵衛のゆかりとしては、官兵衛の妻・光の姉が上月城主・上月景貞に嫁いだことで知られています。
上月城跡は標高322mの山頂にあり、登山口から約15分かかります。完全に山登りになるので、動きやすい服装・靴を準備してください。

堀切


堀切とは、山の尾根をそのまま敵に進まれないように掘った堀を言います。

この城は赤松氏の一族である上月景盛(かげもり)が1336年に築きました。

赤松政範の墓


戦国時代に入り、播磨平定に乗り出した織田信長方の大将・羽柴秀吉が攻撃し、1577年に城を陥落させました。その時の城主が赤松政範になります。

奪った上月城を秀吉は、出雲の守護大名であり、毛利氏に滅ぼされた尼子家の再興を目指す尼子勝久・山中鹿之助に与えます。

しかし、毛利氏も織田の中国地方進出を防ぐため、上月城再奪還を目指し、秀吉よりもはるかに多くの兵で城に攻め寄ります。秀吉は信長に援軍を要請しましたが、上月城への援軍は叶わず、落城。尼子勝久は自ら命を絶ち、山中鹿之助は捕虜となり、広島・鞆への移送中に殺されます。

尼子勝久追悼碑


それまで、播磨の領主達はは織田方に従いましたが、上月城をなかば見捨てる形となったため、一気に反感が高まり、一斉に中国地方の毛利方に従います。織田の播磨での立ち位置が逆転する契機になりました。

播磨の西端に位置したため、中国地方へ進出する織田とそれを守る毛利の板挟みとなり、半年の間に二度も落城する、悲運の城・上月城。ぜひ足を運んでみてください。



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播磨の法隆寺・鶴林寺を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、「播磨の法隆寺」こと鶴林寺を歩いてみたいと思います。

宝物館

境内の隅には鉄筋造りの大きな建物がありました。
この建物は宝物館で、館内では鶴林寺が所蔵する文化財や太子堂の壁画のレプリカが展示されています。
また、現在は「黒田官兵衛と鶴林寺」と題した特別展示が行われています。

中世には30余りの寺坊に2万5千石もの寺領を有し、大寺院となった鶴林寺ですが、やがて戦国時代の動乱に巻き込まれていくことになります。近隣の大寺院で、一向宗の拠点となっていた英賀本徳寺は秀吉の軍勢に滅ぼされ(詳しくはこちら)、書写山圓教寺は三木合戦の拠点となり戦に巻き込まれていったのに対し、鶴林寺は黒田官兵衛の説得によって秀吉に寺領を献上し保護されたために直接戦いに関わることはありませんでした。そのおかげで、貴重な建築物や文化財は戦火を免れました。ただし、その後、江戸時代にかけても寺領の縮小は続き、今の規模になりました。

宝物館の特別展で展示されているのは黒田官兵衛や父・職隆の書状です。
書状には官兵衛が播磨を離れ豊前中津へ移った後のものもあり、深いつながりをうかがわせます。

護摩堂

宝物館の前にあるのは護摩堂
鶴林寺は天台宗の寺院であるため、このようなお堂があります。
こちらは永禄6(1563)年の建立といわれ、播磨攻め開始の直前にできた建物とのこと。

境内の鳥居

境内を歩いていて発見したのは小さな鳥居。
寺院の境内に鳥居とは何だか不思議な景色です。
ここだけ何だか空気が違い、静かな境内の中でもより静かに感じます。

行者堂

鳥居の奥にあるのは行者堂です。
神仏習合の時代には山王権現が祭られた神社だったのですが、明治の神仏分離令により役行者像を安置するお堂となりました。
小さな建物ですが、応永13(1406)年の建築とされ、鶴林寺に現存する建物では最古のものと言われています。
今、こうしてこのお堂を眺めることができるのも、黒田官兵衛のおかげなのかもしれません。

まもなくお盆休みの方も多いでしょう。
夏の休みには加古川の鶴林寺で寺の長い歴史や寺を守った黒田官兵衛に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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