修験の山・布引山を歩いて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、布引を歩いてみたいと思います。

石段を上る

新幹線の陸橋を渡るとわりと急な石段に差し掛かりました。

熊内八幡神社

石段を上ると神社の境内に出ました。こちらは熊内八幡神社。前回訪ねた瀧勝寺の鎮守として創建された神社です。

「熊内」というと何だか不思議な地名ですが、この由来には諸説があるようです。生田神社の神内(くまうち=神領)であったとか、供米地(くまいち)であったとかいう説や、山の隈であったという説などがあるようですが、はっきりとしていません。

熊内八幡神社からの眺め

境内からは神戸の街並みを見下ろすことができました。今年もいろいろな場所から神戸を見下ろしてきましたが、ここからの眺めもなかなかのものです。

馬止

熊内八幡神社の裏から苧川という生田川の支流に沿って歩くことにしました。地図を見るとこの辺りの地名は「馬止」とのこと。確かに、ここから先は馬も通れなさそうな急坂が続いています。何だか新幹線の駅から数分とは思えないような山間の景色です。

徳光院東門

坂道を上っていくと急に寺院の門が現れました。こちらは徳光院という禅宗寺院の門です。日が傾いてきたせいか、何だかミステリアスな雰囲気です。

この徳光院、現在は山の中に佇む静かなお寺ですが、実は神戸の町に大きく影響を与えた寺院…だったのかもしれません。年明けの次回は徳光院と神戸の町に迫ってみたいと思います。

今年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をご覧いただき、ありがとうございました。
皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。

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修験の山・布引山を歩いて(前編)


師走の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

新神戸駅

今回訪ねたのは新神戸駅
言うまでもなく、新幹線と地下鉄の接続駅で、現代の神戸の玄関口とでもいえる駅です。ただし現代的な駅の様子から歴史っぽいものはあまり感じられません…。

新生田川

駅を出ると新生田川に架かる橋に差し掛かりました。
川の上流には新幹線の新神戸駅を眺めることができ、その向こうにはすっかり冬景色の六甲山地が続いています。今回はここからさらに東の方へと向かうことにしました。観光客で賑わう西側の北野地区とは対照的に、熊内町と呼ばれる東側の地区は住宅地が広がり静かな雰囲気です。

瀧勝寺

住宅地の中に小さな寺院を見つけました。こちらは瀧勝寺、通称「瀧寺」という真言宗の寺院です。

この界隈で「瀧」というと新神戸駅裏の布引の滝を思い浮かべてしまいますが、まさにその通りで、この寺院は飛鳥時代の終わりの文武天皇元(697)年頃、修験道の創始者と伝えられる役小角が布引の滝で修業中に馬頭観音が顕れたことからこの地に寺院を建立したとされています。もともとは布引山の中にあったようで、一時は70もの僧坊や末寺が建ち並ぶ修験道の大道場だったようですが、中世に戦乱に遭ってこの地へ移り、現在の建物は戦災で焼失した後に建てられたものです。

新幹線を越えて

瀧勝寺から坂道を上っていくと鳥居が見えてきました。

新幹線を眺める

鳥居の前の陸橋から金網越しに下を覗いてみると、なんと新幹線の新神戸駅を見下ろすことができました。ちょうど、東京への列車が発車し、六甲トンネルの闇の中に消えていきました。役小角を訪ねて歩いていると思ったら急に現代へ放り出されたようで何だか不思議な気分になってしまいましたが、さらに歩いていくことにしましょう。

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多聞寺への道(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、垂水の多聞寺を訪ねて歩いてみたいと思います。

瓦屋根の家並み

西方院
から多聞寺を目指して歩いてみます。西方院から眺めると、瓦屋根の家並みの向こうにまだ紅葉の残る山を望むことができました。
多聞というと多聞台や本多聞といった大規模な住宅地のイメージがあるかと思いますが、こうした景色も随所で見ることができます。

多聞橋

バス道を歩いて山田川に架かる多聞橋に差し掛かりました。
道幅が広く、橋の存在は希薄ですが、多聞寺の山を望む景色はなかなかのものです。かつては多くの参拝客が行きかったのでしょう。

多聞寺仁王門

多聞寺仁王門の前にたどり着きました。先ほど見てきた位置にあった大門は戦前の昭和12(1937)年にこの位置に移されています。この位置にある方がお寺らしい雰囲気で、先ほどの位置にあったのが信じられないような気がしてしまいますね。

吉祥山多聞寺は平安時代の貞観2(860)年頃に創建されたと伝わる古刹です。紋章に描かれたムカデからわかるように本尊は毘沙門天です。前回見てみましたように、最盛期には広大な寺領や堂宇を持つ大寺院でしたが、多くは失われてしまいました。現在は初夏のカキツバタが広く知られています。

多聞寺の境内

境内の木々は針葉樹が多いようで紅葉はそれほどですが、所々色づいた木を見かけることができ、針葉樹の深い緑色をコントラストを織成しています。

境内から眺める

境内から大門の方を眺めてみました。マンションが建ち、大門の方を見通すことはできませんが、家並みの合間から遠く淡路島の島影を望むことができました。

戦後の住宅開発で大きく姿を変えた多聞地区ですが、ゆっくりと歩いてみればかつての面影を感じることができます。晴れたお休みには近所を散策してみると、新しい発見があるかもしれませんよ。

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多聞寺への道(前編)


初冬の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大門橋停留所

山陽電車の舞子公園駅から山陽バスに乗って到着したのは大門橋停留所
舞子坂○丁目とか本多聞○丁目とか、住宅地らしい停留所の名前が続く中で、何だかちょっと雰囲気の違う停留所名です。

大門橋

バス停の名前になっている大門橋はバス停のすぐ西側、山田川に架かる小さな橋です。
ただし、周囲を見てみても「大門」らしきものは見当たりません。

多聞寺二天大門跡

大門橋から道路を渡って街中に入ってみました。住宅の中に埋もれるように佇んでいたのは多聞寺二天大門跡のお地蔵さん。
大門跡…? 何だか気になりますが、想像の通り、山田川に架かる橋とバス停の名前の由来になったのはかつてここにあった大門なのです。

この辺りはかつて多聞村という集落で、この北側にある古刹・多聞寺の僧坊が建ち並んでいました。その入り口にあったのが多聞寺二天大門で、古くは先ほどのバス停の近くにあったものが応永20(1413)年にこの場所に移されたものだということ。お地蔵さんの前に建つ石碑にも「従是境内本堂塔頭廿三坊之総門敷地」とあるように、この先が23もの堂宇が建ち並ぶ多聞寺の寺領だったのです。創建当初の大門の位置は諸説ありはっきりしていないようですが、移設後の大門は戦前に現在の位置へ移されるまでこの地にあったようで、垂水区のホームページで写真を見ることができます。

西脇地区の街並み

古い歴史のあるのせいか、瓦屋根の民家が建ち並ぶこの辺りの景色は隣接するほかの地区とは少し違った雰囲気があります。

西方院

住宅の建ち並ぶ中を歩いて着いたのが西方院という寺院です。吉祥山という山号からわかる通り、多聞寺の僧坊だった寺院です。

多数の僧坊を抱え、広い寺域をもっていた多聞寺ですが、天正6(1578)から天正8(1580)年の豊臣秀吉の三木合戦の際に大半が焼失し、跡地は村落となってしまいました。この地に残されたのは多聞寺本体と僧坊の西方院だけです。

初夏のカキツバタが知られる小さな寺院というイメージがある多聞寺ですが、かつてはそんなに大きな寺院だったとは、ちょっと意外な気がしてしまいますね。
次回はさらに多聞寺まで歩いてみましょう。

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垂水新田を辿って(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、垂水の五色山・霞ヶ丘を歩いてみたいと思います。

霞ヶ丘へ

五色塚古墳から山手の霞ヶ丘へ向かうことにしました。
古墳からはなだらかな坂道が続いています。
狭い道路ですが、ここは山陽バス1系統の走るバス道でもあります。

市場前?

霞ヶ丘5丁目
のバス停にたどり着きました。
バス停には「市場前」というカッコ書きがありますが、市場とは一体…?
バス停の南側の商店が集まっている区画のことを指しているのかもしれませんが、詳しくはわかりません。

現在は住宅地が広がる五色山・霞ヶ丘地区ですが、かつては田園地帯でした。特にイチゴ栽培は広く知られていたらしく、戦前は山陽電車で多くの人がイチゴ狩りに訪れていたとか。現在の神戸電鉄の二郎のような景色が垂水にもあったとは、ちょっと意外ですね。

松平日向守信之公供養墓

バス停の近くに石碑がありました。こちらは江戸時代前期の万治2(1659)年から延宝7(1679)年まで明石藩主を務めた松平信之の供養墓です。信之は明石藩から大和の郡山藩、下総の古河藩に転封され、古河で亡くなりましたが、信之を慕う住民が縁のあるこの地に供養墓を建てたそうです。

松平信之は父・忠国が進めてきた藩内の新田開発を引き継いで藩内各所で新田を拓いてきました。この五色山・霞ヶ丘地区もその一つで、古い地図には「垂水新田」という名前が見られます。川から離れた台地上でどうやって新田を拓いたのか疑問に思うところですが、古地図には大きなため池がいくつも記されていて、このため池で水利を確保していたようです。といっても、稲作を行なうほどの水は確保することはできなかったようで、小川が流れている山陽電車霞ヶ丘駅付近を除いて一帯では畑作が行われていました。この畑作地帯が後にイチゴ畑となり、なだらかに整えられた畑はやがて住宅地になっていきました。

供養墓の松

バス道から供養墓を眺めてみました。
初冬の青空に向かって立派な松の木がそびえていました。大きく変わったこの地域を松平信之はどのように見ているのでしょうか。

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