エイを求めて(前編) 長田神社


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今年も残すところあと少し。
年の瀬の長田神社を訪れてみました。

長田神社前商店街

最寄りの高速長田駅から長田神社へは商店街を抜けて行くことに。
年末独特の慌ただしいような雰囲気で、賑わっています。

長田神社

駅から10分程で長田神社に到着しました。
長田神社は事代主神を祭る鎮座1800年にもなる古社です。
神戸市内では生田神社湊川神社と並ぶ規模とされ、年始には多くの参拝客で賑わいます。ブログをご覧の方も、初詣の予定を立てているのではないでしょうか?

楠宮稲荷神社

今回、注目したいのは境内にある摂社の楠宮稲荷神社です。何だか長田神社のおまけみたいな存在ですが、こちらの神社も非常に長い歴史を持っています。

赤えい絵馬

この神社、長田神社のものとは別の絵馬を売っていて、その絵馬がちょっと変わっています。
絵柄になっているのはなぜか魚の赤えい

エイというと、私はお酒のつまみにエイヒレを食べる以外は水族館で眺めるくらいしかありませんが、西日本ではわりと食用にされているみたいで煮付け等、それなりにレパートリーがあるとか。
さらに、中国や朝鮮半島では煮たり揚げたり結構一般的に食べられているようで、朝鮮半島では刺身で食べたりもするそうです。食材として見ればちょっと大陸の香りがしますね。

病気に御利益大

神社の言い伝えでは、六世紀、長田神社の傍を流れる苅藻川が増水し、海から川を遡ってきた赤えいの群れが浸水した境内に入りこんできたそうです。村人がその赤えいを捕まえようとしたのですが、ご神木の楠の近くで見失ってしまったそうで、それ以来、この楠は赤えいの宿る樹として信仰されるようになり、稲荷神社として祭られるようになりました。
絵馬になったのは明治時代、稲荷神社の傍の茶店が赤えいを描いた絵馬を売るようになったことを由来とし、茶店がなくなってからは長田神社が引き継いで授与をしているとのこと。

と、ここまではよくありそうな話ですが、山陽沿線には他にもエイにまつわるスポットがありますよね…? 赤えいは縁起物ということもありますので、この年末年始はエイを求めて山陽沿線を歩いてみたいと思います。



今年は山陽沿線歴史部のブログ「せっつ・はりま歴史さんぽ」をご覧頂き、ありがとうございました。
来年も部員一同、熱く暑苦しく歴史を求めていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
それでは、皆さま、どうぞ、よいお年をお迎えください。

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A:高速長田駅
B:長田神社
C:楠宮稲荷神社


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黒田家所縁の中世都市・備前福岡を歩く(前編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回、播州赤穂を訪れましたが、今回は播州赤穂から赤穂線でさらに西へ…。
駅名に「備前〜」と付くようになってきました。
もはや、山陽沿線どころか、摂津でも播磨でもないやんという突っ込みが聞こえてきますが、ご容赦を。

長船駅

播州赤穂
から1時間弱で長船駅に到着。日本刀で有名な所謂「備前長船」の玄関口です。

長船駅からの道

ただし、今回訪れるのは備前長船ではなく別の地区です。
長船駅から西に向かって歩いて行きますが、田んぼが広がるばかりでひと気がなく、何だか心細くなってきました。とりあえず、田んぼの向こうに広がる集落を目指して行きます。

福岡地区の町並み

長船駅から15分程で瀬戸内市長船町福岡地区に入りました。

黒田官兵衛の幟が

静かな集落ですが、こんな幟が。
司馬遼太郎『播磨灘物語』を読んだ方ならピンとくるかもしれません。
そう、ここは黒田官兵衛を生んだ黒田家が播磨に移る前に身を立てた中世都市・備前福岡があったとされる場所です。歴史部が備前の地まで遠征してきたのも黒田官兵衛所縁の地だからです。

妙興寺

福岡地区の真ん中に妙興寺という日蓮宗の寺院が。
ここには黒田家の墓所があります。

黒田家墓所

中世までは近江の豪族だったとされる黒田家ですが、諸事情(詳しくはわかっていないようです)から所領を追われ、流れ者になってしまったようです。黒田官兵衛の曽祖父・高政、祖父・重隆は当時、吉井川沿いの商業都市として栄えていた備前福岡に移ります。ここで身を起こした黒田家は播磨に移り、小寺家に召し抱えられるようになりました。黒田官兵衛が生まれたのは黒田家が播磨に移ってからですので、福岡と官兵衛とは直接関係がないと言えます。しかし、黒田家再興の地として愛着があったのか、官兵衛の息子・長政が九州で与えられた城に「福岡城」、その城下町を「福岡」と名付けました。ということは、ここ備前福岡が福岡市の地名の由来といえるわけです。

そんな歴史の舞台・備前福岡をもう少し歩いてみたいと思います。
ということで、年明けにアップ予定の次回に続きます。

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A:長船駅
B:妙興寺


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四十七士と塩の町・播州赤穂を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
10日前の「赤穂義士祭」110回目ということもあり、大変な賑わいだったようですね。
歴史部でも、前回に引き続き、播州赤穂の街を歩いてみることにしました。

城下の街並み

赤穂は赤穂浪士が有名になってしまっていますが、 姫路、明石、龍野と並ぶ播磨有数の城下町であり、今でも当時の風情が残されています。整備された通りから横道に入るとこんな景色が。板壁の街並みと突き当りの寺院が何ともいい雰囲気です。

花岳寺

城下町を歩いていくと、花岳寺という寺院に到着。
こちらには、四十七士の墓所があります。
静かで趣のある寺院ですが、赤穂浪士ファンの参拝が絶えません。

息継ぎ井戸

花岳寺から近い道路沿いにはこんな井戸がありました。
こちらは「息継ぎ井戸」と呼ばれています。
松之廊下の事件の5日後の元禄14(1701)年3月19日、事件を知らせるために江戸から赤穂へ早駕籠で戻った赤穂藩士の早水藤左衛門萱野三平の二名がこの井戸で水を飲んで一息ついたと言われていることからこのように呼ばれているそうです。
が、ここで問題…と言うほどでもありませんが、ちょっと気になるところが…。
赤穂の城下町は地図で見るとかなり海沿いの低地にあります。
赤穂城などは、現在は埋め立てによって内陸にあるように見えますが、江戸時代の当時は千種川の運んできた土砂で岬のようになった土地にあるという立地だったようで、とても井戸で真水が出るようには見えません…。
事実、赤穂の町で井戸を掘ると海水の混ざった水しか出てこないようです。
では、この井戸は一体…?

百々呂屋裏大枡(ももろやうらおおます)

実は、赤穂の城下町には上水道が敷かれていたのです。
江戸時代の上水道と言うと、玉川上水等の地名が現代でも残る江戸の物が有名ですが、江戸と、ここ赤穂、備後の福山のものを合わせて「日本三大上水道」と呼ばれていたそうです。
城下町の傍を流れる千種川から水路を引いて、城下町の北にあった百々呂屋裏大枡(ももろやうらおおます)でろ過をしてゴミを取り除き、各戸へと給水されていました。「息継ぎ井戸」もその一つです。
仕組みとしては何だか単純な物ですが、この上水道が完成したのは元和2(1616)年と言われ、同時期のヨーロッパの大都市では上水道がほとんど発達していなかった(紀元前から整備されたローマ水道がありましたが、この時期には多くが放棄されていたようです)ことを考えると、驚くべきことです。四十七士だけではない、赤穂藩の先進性が窺えます。
播州赤穂駅への道に百々呂屋裏大枡(ももろやうらおおます)の跡が示されていました。

赤穂と言えば「忠臣蔵」!
しかし、視点を変えてみれば違った赤穂の姿も見えてきます。
年末の忙しい時期ではありますが、赤穂でちょっと一息、歴史に触れてみるのもいかがでしょうか。
そろそろ牡蠣も美味しい時期ですし…!

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A:赤穂城跡
B:萬福寺
C:花岳寺
D:息継ぎ井戸
E:百々呂屋裏大枡
F:播州赤穂駅


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四十七士と塩の町・播州赤穂を歩いて(前編)


冬至が近づき、日が短くなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今回、山陽電車で向かったのは姫路

姫路駅前 眺望デッキ

姫路駅前に新たに登場した眺望デッキから姫路城の方を眺めてみました。
天守閣は素屋根に覆われた状態ですが、このデッキから素屋根を眺められるのもあとわずか。ある意味で貴重な景色です。
ただし、今回訪れるのは姫路ではなく、さらに電車で西へ…。

播州赤穂駅

姫路駅から山陽本線・赤穂線の列車で30分、播州赤穂駅に到着しました。
赤穂浪士四十七士の城下町・赤穂の玄関口です。
明日12月14日はいわゆる赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日ということで、赤穂の町を歩いてみました。

赤穂城

駅から歩いて15分ほどで赤穂城に到着!
こちらは城下町に向いた大手門側です。

ゆるキャラ登場!

大手門の前に何かいる!
こちらは「陣たくん」という赤穂のゆるキャラとのこと。
大石内蔵助が討ち入りの際に用いたとされる山鹿流陣太鼓をモチーフにしているそうです。
カメラを向けるとポーズを取ってくれました。

大石神社

城内の大石内蔵助邸跡地には大石神社が建っていました。
こちらも赤穂義士祭が近づいているせいか賑わっています。

元禄赤穂事件、いわゆる赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、よく知られているように、元禄14(1701)年に赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が江戸城松之廊下にて高家旗本・吉良義央(上野介)に斬りかかったことから始まります。城内で抜刀したことから浅野長矩は切腹となり、赤穂浅野家は断絶、赤穂藩は改易(取り潰し)となりました。
その翌年の元禄15(1703)年12月14日に遺臣となった大石内蔵助ら47人の藩士が江戸の吉良邸に討ち入り、吉良義央を討ち取りました。
平和な元禄の世に起こった事件の大きさと、主君の仇討(「仇討」と表現すべきかどうかは微妙ですが)という物語性等から、この事件は歌舞伎などで上演され「忠臣蔵」として知られるようになります。

義士宝物殿

境内にある巨大な陣太鼓が目印の「義士宝物殿」では赤穂事件の各種資料を見ることができます。また、大石神社の境内には大石邸の長屋門や庭園なども残されていて、単なる神社では済まないほど見どころに溢れています。
明日は「赤穂義士祭」、メインの会場の一つの大石神社も多くの観光客で賑わうことでしょう。

歴史部は引き続き、赤穂の城下町を探っていくことにして、次回に続きます。

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A:播州赤穂駅
B:大石神社

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街道の町・須磨を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

前回に引き続き、須磨の史跡を巡っていきたいと思います。

村上帝社

月見山駅から須磨駅の方へ向かうと、道路沿いに小さな社がありました。
この社は村上帝社と呼ばれ、その名の通り、平安時代に皇位に就いていた村上天皇を祭った神社です。
しかし、京都にいた村上天皇の神社がなぜ須磨に…?
案内看板によると、平安時代の末、琵琶の名人だった太政大臣・藤原師長が琵琶をさらに極めんと唐へ渡ろうとしたところ、この須磨まで来たときに村上天皇梨壺女御(なしつぼのにょご・村上天皇の皇后)の神霊が現れて琵琶の妙手を授けたとのこと。そのために、師長は唐へ渡るのを思いとどまったそうです。以来、この地に村上天皇を祭る神社を置いたとのこと。

千守

村上帝社から山陽電車の線路を挟んだ北側は千守町(ちもりちょう)という地名で呼ばれていて、村上帝社の前の交差点も「千守交差点」という名称です。
この「千守」という地名の由来は諸説あるようですが、知られているのが、この辺りにあった西国街道の関所「須磨の関」「関守」「千守」に変化し、「ちもり」と読むようになったとの説です。

関守稲荷神社

付近には関守稲荷神社があります。
この辺りの地名は関守町(せきもりちょう)で、千守と関守で何だかややこしくなってきました。

以前、多井畑厄神を紹介したとき(こちら)でも触れましたが、現在、国道2号線山陽電車JR山陽本線は須磨から垂水へ海沿いを通っていますが、須磨の関があった頃の西国街道は鉄拐山を迂回するように多井畑を経由していました。詳しい理由はわかっていないようなのですが、山が海に迫る険しい地形の須磨浦を避けたためと言われています。

須磨の関碑

稲荷神社の境内には「長田宮」と書かれた古い石碑がありました。
説明文によると、この石碑は明治元(1868)年にこの地からやや南東の千森川(また関守の変化パターン!?)沿いで掘り出されたものだそうで、須磨の関があった場所を示す石碑だとされています。
ただし、結局のところ、須磨の関がどこにあったのかは今ではわからないそうです。
わかりそうでわからないのが何ともモドカシイ感じですが、謎が残っている方がある意味でロマンがあると言えるのかもしれません。

肌寒いこの頃ですが、終わりかけの紅葉にはまだ間に合います。
ブログをご覧の皆様も名残の紅葉狩りがてら、須磨の歴史ロマンを巡ってみてはいかがでしょうか。

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A:山陽電車月見山駅
B:村上帝社
C:関守稲荷神社
D:山陽電車山陽須磨駅


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