せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

街道の町・須磨を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

前回に引き続き、須磨の史跡を巡っていきたいと思います。

村上帝社

月見山駅から須磨駅の方へ向かうと、道路沿いに小さな社がありました。
この社は村上帝社と呼ばれ、その名の通り、平安時代に皇位に就いていた村上天皇を祭った神社です。
しかし、京都にいた村上天皇の神社がなぜ須磨に…?
案内看板によると、平安時代の末、琵琶の名人だった太政大臣・藤原師長が琵琶をさらに極めんと唐へ渡ろうとしたところ、この須磨まで来たときに村上天皇梨壺女御(なしつぼのにょご・村上天皇の皇后)の神霊が現れて琵琶の妙手を授けたとのこと。そのために、師長は唐へ渡るのを思いとどまったそうです。以来、この地に村上天皇を祭る神社を置いたとのこと。

千守

村上帝社から山陽電車の線路を挟んだ北側は千守町(ちもりちょう)という地名で呼ばれていて、村上帝社の前の交差点も「千守交差点」という名称です。
この「千守」という地名の由来は諸説あるようですが、知られているのが、この辺りにあった西国街道の関所「須磨の関」「関守」「千守」に変化し、「ちもり」と読むようになったとの説です。

関守稲荷神社

付近には関守稲荷神社があります。
この辺りの地名は関守町(せきもりちょう)で、千守と関守で何だかややこしくなってきました。

以前、多井畑厄神を紹介したとき(こちら)でも触れましたが、現在、国道2号線山陽電車JR山陽本線は須磨から垂水へ海沿いを通っていますが、須磨の関があった頃の西国街道は鉄拐山を迂回するように多井畑を経由していました。詳しい理由はわかっていないようなのですが、山が海に迫る険しい地形の須磨浦を避けたためと言われています。

須磨の関碑

稲荷神社の境内には「長田宮」と書かれた古い石碑がありました。
説明文によると、この石碑は明治元(1868)年にこの地からやや南東の千森川(また関守の変化パターン!?)沿いで掘り出されたものだそうで、須磨の関があった場所を示す石碑だとされています。
ただし、結局のところ、須磨の関がどこにあったのかは今ではわからないそうです。
わかりそうでわからないのが何ともモドカシイ感じですが、謎が残っている方がある意味でロマンがあると言えるのかもしれません。

肌寒いこの頃ですが、終わりかけの紅葉にはまだ間に合います。
ブログをご覧の皆様も名残の紅葉狩りがてら、須磨の歴史ロマンを巡ってみてはいかがでしょうか。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村


A:山陽電車月見山駅
B:村上帝社
C:関守稲荷神社
D:山陽電車山陽須磨駅


大きな地図で見る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。