須磨寺公園に「新吉野」の面影を求めて(後編)


桜花の候、皆様方におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。

山陽沿線歴史部の内膳正です。

前回に引き続き、須磨寺を歩いてみました。

須磨寺の境内

須磨寺公園から須磨寺の境内へ。
夕方だったせいか、ひっそりしていました。
このあたりの桜はまだつぼみだったのですが、ちょうど今週末には見ごろになっているのではないでしょうか。


須磨寺は正式名を上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)といい、真言宗須磨寺派の大本山です。
平安時代、和田岬沖で漁師が引き上げた聖観音像をこの地に安置したのが始まりと言われる由緒ある寺院ですが、一方で、遊び心一杯の施設が色々とあります。


ぶじかえる

こちらのカエルは、びっくりしたい人は目玉を回し、借金で困っている人は首を回すようにとのこと。駄洒落ですが、お寺の境内にあるので、何だかご利益がありそうな気がしてきました。

獅子

境内で見つけた獅子。
何でお寺に獅子なのか、由来はよくわかりませんが、エキゾティックな雰囲気のかわいらしい獅子です。一人ぼっちで相方がいないのが気になるところ。

この自販機は?

門前の須磨寺前商店街を歩いていて見つけたクラシカルな自動販売機。
自販機マニアが喜びそうな代物ですが…、


なんと、自動達磨販売機でした。
多分、世界でここだけにしかないと思います。
達磨は300円、上段の「何が出るかな?」は500円とのこと。


お金を入れてボタンを押すと、確かに達磨が出てきました(※紙袋に入って出てきます)。

参道の途中にある須磨寺塔頭正覚院の祈祷がなされた達磨とのことで、れっきとしたお寺のオフィシャル品らしいです。

達磨の中にはおみくじが入っています。花見ついでに今年度の運勢を占ってみるのはいかがでしょうか。

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須磨寺公園に「新吉野」の面影を求めて(前編)


春暖の候、皆様方におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
山陽沿線歴史部の内膳正です。

最近、日ごとに春めいてきて、そろそろ桜の季節ですね。
桜と言えば、大和の吉野山が一大名所ですが、山陽電車の沿線にも「新吉野」なる桜の名所がかつてありました。

須磨寺公園

その「新吉野」こと須磨寺遊園地があったのが、今の須磨寺公園です。
今では大池の畔の静かな公園なのですが、かつては、桜の木だけでなく様々な遊戯施設があり、一大レジャーパークになっていたそうです。

ここが須磨寺遊園地の跡?

大池に張り出すようにだだっ広い広場がありました。ここが須磨寺遊園地の跡かと思ったのですが、ここは遊園地がなくなった後に池を埋め立ててできた広場とのことです。

今は静かな遊園地跡

明治の中頃、荒れ果てていた須磨寺に観光客を誘致しようと、当時の住職が木や花を植え、茶屋を開いたのが須磨寺遊園地の始まりと言われています。さらに、住職に賛同した須磨の神田兵右衛門なる人物が寄付を募って桜の木を植え、大池の畔に千本もの桜が咲き誇る「新吉野」が生まれました。

明治末期には兵庫から路線を伸ばしてきた兵庫電気軌道(後の山陽電車)が 須磨寺から土地を借りて遊戯施設などを次々とオープンさせ、遊園地を整備していきました。園内には動物園、ボート乗り場、花人形館などが設けられ、花の季節には大変な賑わいだったと言われています。

須磨の人々の憩いの場だった須磨寺遊園地ですが、昭和恐慌の影響で催し物の縮小が行われ、太平洋戦争の開戦で戦時徴用工の宿舎用地となったことで姿を消しました。

今では遊園地の跡に残る桜に当時の賑わいを偲ぶのみです。

一目千本の桜


私が訪れた時は、まだ花見には早いようでしたが、日当たりのいい場所にある木では八分程度咲いていました。
今週末にはちょうど見ごろになりそうですね。
満開の花を眺めながら昔日の「一目千本」に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。

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明石 ~武家屋敷の発掘調査をたずねて~ 後編


こんにちは 玄蕃允(げんばのじょう)です。

前回の武家屋敷の発掘調査見学の続きで、明石藩のお偉方の建物探訪もしました。お城のすぐ前の通りの一等地は家老のお宅が並んでいました。明石で唯一武家屋敷の名残を感じられるのは、織田家長屋門跡です。

織田家長屋門跡


キリシタン大名の高山右近が築城した船上城(ふなげじょう)の門を移築したものといわれています。

“この織田家ですが、信長の親戚筋にあたる家系で、信長の父親の弟の血筋となります。国宝の犬山城を築城した家系でもありましたが、徳川家康の次男・秀康(越前松平家)に娘が嫁いだことで、松平家の家老となりました。越前(福井県)松平家が明石に入封され、織田家はこの地に屋敷を構えることとなります。”


↑wikipediaのお力を借りて家系図を作成してみました。

ちなみに明石の町割り(都市計画)は剣豪・宮本武蔵が行ったとされています。

武蔵の庭園


明石城内で武蔵が「樹木屋敷」という城主の遊興所を造った記録もあり、現在明石公園の一角は「武蔵の庭園」と名づけられ、市民の憩いの場となっています。 武蔵の多才さを感じることができます。

もうすぐ桜の季節ということで、ちょうど昨年に訪れた写真があるのでご紹介を

明石城と満開の桜(昨年の様子)


明石公園にお花見がてら足をのばしてみてはいかがでしょうか。

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明石 ~武家屋敷の発掘調査をたずねて~ 前編


こんにちは 初投稿になります、平部員の玄蕃允(げんばのじょう)です。

明石駅前の再開発が進もうとしていますが、建設前に発掘調査が行われていて、特別に見学させていただきました。役得です。

発掘の光景


場所は山陽明石駅から南東すぐのところです。

文久年間(1861年~1863年)の地図を見ると、80石取りの「向井」家という中級武士のお宅だったそうです。ちなみに1石は大体大人1人が1年間に食べる量で、1石=100升=約180キログラムです。80石といっても全国的な例を見ればその4割が家の収入となります。さらに藩財政が厳しくなれば、その半分をカットされる藩もあり、いつの世も家計は大変だったのではないでしょうか。

明石の武家屋敷の特徴としては、非常に海抜の低い地域にあったことで、水害に悩まされたようです。塩分が多いので、井戸もかなり深く掘っていたことが分かったそうです。 

地層を記録
 

掘り進めていくと地層が違っていくのが分かります。

「これは古墳時代、これは中世の地層・・・」なんて説明されたら少しロマンを感じてしまいますね。 

漆塗りのお椀が出てきました
 

出土する御椀の善し悪しで身分も分かってしまうようです。

普段から少し奮発していい食器を使っていたほうが、何百年後かに自分の家の辺りが発掘されてしまった場合、見栄を張れるかもしれません・・・ 

ぽこぽこと穴が・・・
 

ところどころに穴を掘って何をしているのだろう・・・と疑問に思いますが、礎石や柱があったところです。段々と掘り進めていく内に、この部分だけ地質が違うので分かります。地質が違うのは屋敷を建設した際に、人工的に地面を掘っているためです。 

こんなものがでてきました(出土品の一部)
 

この後には、家老の屋敷跡などを訪ねましたが、後日紹介できればと思います。
発掘調査も実際に見てみると面白いですね。

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もうすぐ完成?置山を見る~三ツ山大祭~ 


こんにちは。左馬頭(さまのかみ)です。
播磨国総社で行われる20年に1度の「三ツ山大祭」、シンボルである置山(おきやま)造営の進捗をお伝えします。

位置関係が少し分かりにくいので、まずは見取り図を。

神門の南側に、東から二色山(にしきやま)、五色山(ごしきやま)、小袖山(こそでやま)とならびます。

2月中ごろの写真です。

左から五色山、小袖山です。足場が組まれ、内部が木造であることがわかります。

高さは18メートル、4,5階建てのビルに相当します。この山の頂上に神様をお迎えするお社、山上殿(さんじょうでん)が造られます。

2月25日の二色山の様子です。

同じく、2月25日の五色山(左)、小袖山(右)

二色山、五色山は外側に色布が張られました。

3月3日の二色山(左)、五色山(右)

足場がなくなった二色山(左)には装飾が。

猪に乗っている武士の姿があります。新田四郎猪退治(にったしろうししたいじ)といいますが、狩りをしていた源頼朝に突然襲いかかった猪に対して、家来の新田四郎が猪に飛び乗り刀で刺し倒したというエピソードを表現したものです。写真では分かりにくいのですが、左側の白馬に乗っているのが頼朝公です。

3月9日の五色山です。後ろは小袖山。

五色山にも「大江山、源頼光(みなもとのよりみつ)の鬼退治」の装飾が。大江山(京都府北部)を拠点に都周辺で悪行を働く鬼を、源頼光やその家来であった頼光四天王(らいこうしてんのう)と呼ばれる武士がやっつけるというエピソードです。詳細な内容は省略しますが、鬼を油断させ退治するまでのやりとりや、鬼の所業については昔話にもなるなど、興味はつきません。

関心のある方は、酒呑童子(しゅてんどうじ)渡辺綱(わたなべのつな)坂田金時(さかたのきんとき)といった言葉で検索願います。坂田金時はあの「金太郎」の成人後の名前です。

写真を見て気付きましたが、肝心の鬼が写っていません。ごめんなさい(>_<) ぜひ現地でご覧下さい。

最後に山陽電車の看板を

この投稿がUPされるころには、カラフルな小袖で飾られる小袖山も出来上がっているのではないでしょうか。

三ツ山大祭は3/31(日)からです。

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妻鹿に黒田官兵衛を見た~前編~


こんにちは、左馬頭(さまのかみ)です。

2014年(平成25年)大河ドラマの主人公「黒田官兵衛」を求めて、ゆかりの地といわれる山陽電車妻鹿(めが)駅周辺を散策することにしました。なお、写真は昨年(2012年)12月末のものです。

同行した“あまQ”くんの記事はこちらから。

体育会系歴史部としては硬派に行きたいと思っています。

まずは、市川橋梁からの国府山城(こうやまじょう)です。
国府山城は妻鹿城(めがじょう)、功山城、甲山城などいくつかの呼び名があります。国府山は播磨国府が近いことと関係があるのでしょうか。甲山は硬そうな山を連想します。登ってみてわかったのですが、確かに岩山に築かれた城です。

妻鹿駅改札前では、最近設置された黒田官兵衛に関する看板が目を引きます。国府山城への道筋をチェック。

城山のふもとの荒神社まで、市川沿いの道を約10分ほど歩きます。

荒神社横には、妻鹿城址の立派な石碑が。

ここが登山道の入口で20分ほど山道を登ります。夏に訪れた時は登山道がどこかわからないほど草木が生い茂っていましたが、最近手入れされたようです。それでも軽い登山になるので、歩きやすい服装で上ってくださいね。

案内標識を見落とさないように。


本丸跡?につきました。倒れかけの看板

かなり年季が入っていますが、興味津々です。標高約100メートルの甲山に築かれた城だけあって、見通しはかなりのものです。守護大名赤松氏の本拠である置塩城(おじおじょう)や、三木氏の居城、英賀城(あがじょう)まで十分視界に入ります。この看板には記載がないのですが、海上交通の要衝、室津にあった室山城(むろやまじょう)も有視界だったようです。江戸時代以降の埋め立てで海岸線は南にシフトしていることを考えると、戦国時代は国府山城が海上交通と河川交通の結節点である市川河口に位置していたと思われます。かなり重要性は高かったのではないでしょうか。

本丸跡からの眺望です。約4.5キロ先の天空の白鷺姫路城)をはっきりと視認することができます。


黒田官兵衛と父、職隆(もとたか)が、羽柴秀吉に姫路城を譲って国府山城に入ったのが、天正5~8年(1577~1580年)頃といわれています。この時期、官兵衛は秀吉の軍師として三木城攻めに従事、さらに叛旗を翻した荒木村重説得のために訪れた伊丹有岡城で1年余幽閉されていました。有岡城から救出された後も、官兵衛は秀吉と共に各地を転戦することになるので、実質的に国府山城にいた期間は短かったのかもしれません。おそらくは隠居した父、職隆が留守を預かり、領民とのコミュニケーションをとっていたのではないでしょうか。

官兵衛を支えた家臣の中で、特に優れたものを「黒田二十四騎」と言いますが、妻鹿出身といわれる母里太兵衛(もりたへえ)など、その多くが播磨から輩出されていることは、官兵衛と妻鹿の関係を示しているといえるでしょう。

我々は歴史の結果を知っていますが、当時、織田信長の先進性に目をつけ、秀吉に居城を譲るという官兵衛の行動は離れ業に違いありません。

さて、国府山城をあとにして、元宮八幡神社へ(約30分)。

御旅山の山上に移る以前の御旅山八幡神社の元宮であったそうです。境内には藤棚(写真右側)が。5月がシーズンでしょうか、色づいた頃に来てみたいです。

続いて、黒田職隆廟所

地元では「チクゼンさん」と呼ばれて親しまれているそうです。

官兵衛の父、職隆について少しだけ、
官兵衛の蔭に隠れがちですが、職隆も温厚で優秀な人物であったといわれています。元々黒田氏は職隆の父、重隆(しげたか、官兵衛の祖父)の時代に播磨に移ってきて、“目薬”の販売で財をなし、この地域を支配していた小寺氏(こでらし)に仕えます。職隆は、小寺氏の家老として姫路城を預かるなど、外様の家臣としては異例ともいえる出世をします。職隆自身が小寺氏当主の息子であったという説まであるくらいです。ともあれ地盤を官兵衛に譲り、国府山城で留守を守り、天正13年(1585年)亡くなったと伝えられます。

少々長くなってしまったので、妻鹿の町並み散策は後編とします。

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駅から3分!綱敷天満宮で観梅


今週はかなり暖かくなりましたね。もうすぐ桜のシーズンですが、その前に梅を見に行きたくなったS係長改め左馬頭(さまのかみ)です。



今日は須磨寺駅からスタート


目的地は綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)、踏切を渡り約3分で見えてきました。ほんとに駅から近いですね。

綱敷天満宮(正面から)


道真公がサーフィン?

何やら不思議な看板が。この看板の意味については後ほど。

境内に入ると、梅が見ごろです。


ぽかぽか陽気の中、ほのかに梅の香りが…。


まだつぼみの梅もありました。

色々な品種が植えられているようです。

~ここでちょっと道真公の復習を
菅原道真(すがわらのみちざね:845~903年)
学問の神様、天神さんとして有名な道真ですが、学者の家に生まれます。時の天皇に重用され朝廷内で改革を推進し、中級貴族としては異例の政権NO.2“右大臣”まで昇進するのですが、大貴族である藤原氏と対立し讒言の結果、大宰府へ左遷され失意のうちに亡くなります。~

ところでなぜ道真を天神さまと呼ぶのでしょうか。道真の死後、都では雷など天変地異が相次ぎ、道真の怨霊が原因といわれたそうです。そこで、雷の神様(天神)を道真に重ねて天神さまとなったようです。

大宰府への下向にあたり、道真がたどった行程は、平安京から淀川を下り渡辺津(わたなべのつ、大阪市)へ。その後、海路をとり途中、須磨の地にも立寄ったそうです。このルートについても一部陸路があったなど、諸説あるようですが。

綱敷(つなしき)のルーツがこちら

ここを訪れた道真に、地元須磨の漁師たちが綱を渦巻き状に巻いてお座りいただいたそうです。こういった伝説が各地に点在する天満宮にもあるのでしょうね。

その他、神社の境内には、こんなものも…

なすのこしかけ

ナス」は「成す」に通じていることから物事が成就するということで縁起がいいそうです。そういえば、初夢に見るものとして「一富士、二鷹、三茄子」と言いますね。腰掛はここのオリジナルなのでしょうか。

見て楽しむ“しかけ”が多くあります。普通の神社ではあまりないですよね。

そして、気になったこれですが…

波乗り祈願

なるほど。国道2号線を挟んで神社南側は須磨海岸。サーファーで賑わいます。「時代の
荒波に乗り1人でも多くの方が幸せになることを祈願している」とのこと。うまいなぁ。幼少の頃の道真公がモデルだそうです。

思うつぼかもしれませんが、買ってしまいました。波乗りストラップ800円也。

須磨寺駅から3分の綱敷天満宮、梅はまさに見ごろです。須磨寺方面と組み合わせてまわってみるのもいいかもしれません。

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【開催間近】三ツ山大祭を学ぶべし(後編)


県立歴史博物館を訪れたその足で向かったのが、三ツ山大祭の会場となる播磨国総社こと射楯兵主(いたてひょうず)神社

現在、三つの置山が建造中です。

建設中の置山(左から二色山、五色山、小袖山)※写真は2月上旬のものです。
ふたたび旗頭を掲げる3人。
大きさに圧倒されます。


今は骨組みだけで何がなんやらですが、東から「二色山」「五色山」「小袖山」になるようです。博物館で学んだ内容では、この並びはそれぞれの山を祭っていた国府寺(こおでら)宿(しゅく)福中(ふくなか)の三村の地理的な並びと一致するとのこと。三村は池田輝政の姫路城築城の際に城下町用地となって消滅しましたが、三ツ山大祭は近世に入ってもこの村の単位を用いて執り行われていました。


上の写真で参道の右が二色山、播磨国の大小の明神を迎える山とのこと。白と浅葱の二色で、富士山を模したと言われています。確かに、博物館で見た「播磨国総社三ツ山祭礼図屏風」ではもっと富士山ぽい姿でした。そのせいか、この山の飾り人形は「富士の仁田四郎の猪退治」です。

左が五色山、九所御霊を迎えるそうです。ちなみに、九所御霊とは少彦名命、大山祇神、経津主神、菅原道真、大物主神、猿田彦神、柿本人麻呂、誉田別命、大鷦鷯命の九柱を指すと言われています。飾り人形は「大江山の源頼光の鬼退治」です。

左端にちょこっと見えるのが小袖山、天神地祇(天つ神・国つ神)を迎える山で、町方から集めた小袖を張り付けるそうです。当時の町方たちは我こそはと提供する小袖の美しさを競ったのかもしれません。飾り人形は「三上山の俵藤太の蜈蚣退治」です。

大祭の期間中は毎日、この山の上に設けられた山上殿で神事が行われるそうで、博物館の展示によると山の中に階段が設けられるみたいです。高さは18メートルとビルの3階か4階に相当し、そんなところへ命綱なしで上るなんて想像しただけで足がすくみますが、一度は上ってみたいような気もします。

境内を歩いていると、こんな石碑を見つけました。


三つの置山を祭っていた村のうち、国府寺村と福中村は今も「国府寺町」「福中町」となって地名を残しています。この石碑は国府寺町の人が寄進したのでしょうか。

近代以後、置山を祭っていた三村の区分はなくなり、山に併設されていた能舞台も戦後には造られなくなりました。そうして時代とともに変化していった三ツ山大祭ですが、その伝統は脈々と現代へ続いています。

この春は、華やかな平成の三ツ山大祭の向こうに、長い歴史へ思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

ブログをご覧の皆様、是非三ツ山大祭へお越しください。

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【開催間近】三ツ山大祭を学ぶべし(前編)


余寒の頃、皆様方におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。

山陽沿線歴史部の内膳正です。

さて、今年の3月31日から4月7日まで、播磨国総社で二十年に一度の「三ツ山大祭」が開かれるということで、姫路の街では早くも盛り上がってきました。

山陽電車でも姫路駅に置山の二十分の一のひな形を飾るなどしてPRしています。

また、三ツ山大祭記念のエスコートカードも発売されていたので、早速GETしてきました。


にしても、三ツ山大祭って…?

神戸出身の私にはあまり馴染みがなく、どんな祭なのかイメージがわきません。なんか、三つの山が造られることはわかるのですが…。

ということで、山陽沿線歴史部の初活動として、三ツ山大祭の事前勉強のために姫路の兵庫県立歴史博物館で開催中の企画展「姫路・城下町の祭礼 -播磨国総社の三ツ山大祭-」へ行ってきました。

土曜日の朝、山陽姫路駅に集まったのは、歴史部顧問の民部卿(みんぶきょう)、左馬頭玄蕃允、そして、あまQ、私を入れて総勢5人のそうそうたるメンバーです。

駅から大手前通を北上して姫路城内へ。


お城を回り込むと、「天空の白鷺」の裏側を眺めることができます。展示施設になっている素屋根はもちろんすごいのですが、この資材運搬用のエレベーターと桟橋もなかなかすごいと一同、立ち止まってしばし見上げました。意外と現代のものにも興味のある歴史部です。

レンガ造りの市立美術館の裏手を進むと、目指す県立歴史博物館が見えてきました。

鳴り響く法螺貝(※ブログ編集部注 歴史部以外には聞こえません)

放たれる鏑矢(※ブログ編集部注 歴史部以外には見えません・聞こえません)

いざ出陣!



残念ながら、館内の写真はありませんが、三ツ山大祭のことを知れば知るほど一同テンションが上がっていき、1時間程度のつもりが、気づけば2時間半も過ぎていました。案内をお願いした博物館のボランティアガイドの方が半分呆れたような顔をしていたのはきっと気のせいです…。今までボランティアガイドをお願いしたことはなかったのですが、わかりやすい解説をしていただき、とても勉強になりました。これから行かれる方には絶対におすすめです。



館内で学んだ内容をまとめると…

播磨国総社の祭礼には「丁卯祭」と「臨時祭」があり、前者が丁卯年開催(60年に一度)の「一ツ山大祭」、後者が20年に一度の「三ツ山大祭」だそうです。

臨時祭は平将門・藤原純友の乱の際に行われた「天神地祇祭」を発祥とし、以後、国家安泰を願う時に不定期に執り行われていたのですが、天文2(1533)年の臨時祭で播磨国守護・赤松政村が20年に一度の式年にするように定めたとのこと。

なお、前回の一ツ山大祭は昭和62(1987)年、次回は2047年で、三ツ山大祭は前回が平成5(1993年)、次回は2033年とのこと。次の一ツ山大祭の頃には私は定年していますね…。

シンボルとなる置山は祇園祭などで見られる曳山や播州各地の秋祭りで見られる舁山(かつぎやま)よりも古い形を残し、文化的価値が高いとされています。また、第四日目に執り行われる「五種の神事」も中世の播磨地方で行われた農村祭礼の姿を色濃く残すそうで、一見の価値がありそうです。

中世には播磨国総社の祭礼として、農村祭礼的な性格を持っていたとされる一ツ山・三ツ山大祭ですが、近世以降には姫路の都市化とともに都市祭礼として整備されていき、一種の博覧会のようになったようです。江戸時代には播磨だけではなく近隣諸国から多くの人が訪れるようになったそうで、姫路城下の人口が2万人程度のところへ10万人もの人が押し寄せたという記録が残っているとのこと。20年に一回という希少性のためかもしれませんが、人口の5倍とは現代で考えても驚異的な数字ですね。

さすが、千年以上前から続く祭礼だけあって、なかなか奥が深く、知的好奇心が刺激されますね。

ちょっと長くなってしまったので、後編に続きます。