楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】赤穂鉄道跡を歩く(その3)

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その2から続きます。目坂駅跡から道なりに進むと、あっさり坂越駅跡に着きます。有年駅から9.4㎞地点。現在のJR坂越駅とは位置が異なります。かつては直営のバスがここから坂越港へ向かっていたそうです。
ようやくJR赤穂線の線路が近寄って来ました。何とか帰れそうです。
赤穂鉄道の橋台と言われている遺構。線路はここで水路を越えていたそうです。上に継ぎ足してある部分はともかく、下半分は鉄道遺構だと思われます。
真ん中の道が廃線跡のごとき写真ですが、線路は右側のこんもりした部分を通っていたそうです。
砂子駅跡。有年駅から10.2㎞。平坦な道ではありますが10㎞を超えてくると足にこたえます。日頃の運動不足が・・・。
これ以降は赤穂市街地に入ります。線路跡は道路に取り込まれ、痕跡をたどることは難しくなります。終点の播州赤穂も現在のJR播州赤穂駅とは全く違う場所にあります。有年駅から12.7㎞。ようやく完歩しました。かなり日も傾いてきました。
現在の赤穂鉄道播州赤穂駅跡付近には、神姫バス(ウイング神姫)の営業所と・・・、
山陽百貨店赤穂ショップがありました。唐突に、やや強引に山陽電鉄グループのお店をご紹介したところで、今回のウォーキングもそろそろお終い。
む~パパ的には終点に着いた気分だったので、そこからJR播州赤穂駅までの遠かったこと!いつの間にやら建て替わっている駅舎に驚きましたが、2000年に建ったとのことで、もう20年以上前・・・。白状しますと大抵クルマで来ていましたので、駅に来たのは本当に久しぶりだったのです。いかんいかん、もっと電車に乗らないと。家に帰って見てみると、この日の歩数は28,923歩。よく歩きました。

【廃線跡】赤穂鉄道跡を歩く(その2)

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その1 から続きます。千種川を渡る現在の高雄橋から見下ろすと、川の中に橋脚の台座が残っているのが分かります。赤穂鉄道の廃線後も道路橋として使用されていた鉄橋がここに架かっていました。
橋は架け替えられましたが、旧道にあたる廃線跡には旧高雄橋の親柱がひっそりと残っていました。
左が現在の高雄橋。右が廃線跡を使用した旧高雄橋へ通じる旧道です。
根木駅跡。有年駅から6.5㎞。田舎道をひたすら歩きます。
途中、がけ崩れがあって廃線跡は通行止めになったまま放置されているようです。(写真左側・有年方向を撮影)
目坂駅跡。有年駅から7.6㎞地点。廃線跡らしい雰囲気は感じられません。

田園地帯を歩いていると、遠くに日野ポンチョが。調べてみると東備西播定住自立圏圏域バス「ていじゅうろう」と言うそうです。途中で青いのも見ましたが、こちらは赤穂市内循環バス「ゆらのすけ」とのこと。

正直この辺で歩くのはかなり疲れてきまして・・・。果たして播州赤穂までたどり着けるでしょうか!?

【廃線跡】赤穂鉄道跡を歩く(その1)

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さて、今回は姫路駅からJR山陽本線に乗り継ぎ。黄色の113系に乗って西へ向かうことしばし、む~パパ、ここ有年(うね)駅に降り立ちました。メタボ解消のため赤穂鉄道跡を歩こうと思います。

1921(大正10)年と言いますから今から約100年前、有年駅と播州赤穂を結ぶ「赤穂鉄道」が開業しました。山陽本線が赤穂を通過しなかったことから特産物である塩を輸送することを目的としたもので、軌間762㎜の軽便鉄道でした。1950(昭和25)年、国鉄赤穂線開業により代替廃止されましたが、営業成績は安定していたと言います。山陽電車も網干から岡山への延長計画を持っていましたが、これも赤穂線開業により消えてしまいました。今回は70年以上前に消えた鉄道跡をたどります。

有年駅前。以前は地平の木造駅舎で駅前にはタクシーがいたと記憶しますが、現在は橋上駅舎に建て替わっておりタクシーもいませんでした。駅前に残っている古い建物は旧日通事務所でしょうか?新旧のギャップが面白いです。

有年駅前には旧西国街道に沿った形で小規模な集落が広がっており、数棟ですが古い建築物を認めることが出来ました。この街道、少し西に行くと現在の国道2号線に取り込まれていました。

右が西国街道(国道2号線)で、西方向へ向かって撮影しています。有年駅から分かれた赤穂鉄道はここで街道を横切って南側に出ます。小川の左側にある平らな部分が廃線跡です。
その後、廃線跡は集落に入りますが矢野川と千種川の合流点近くに出て来ます。
なんとなく鉄道廃線跡の感じがしてくる地点。左にゆったりとカーブしているのが廃線跡。周囲より1段高い山すそを進んでいきます。
廃線跡を進んでいくと、標柱が。「富原停車場跡」とあります。有年駅から2.3㎞。最初の駅です。当時も無人駅だったようで、乗客がいるときだけ列車が停車していたそうです。バスのようですね。このように全駅の駅跡標柱が設置されており、廃線跡をたどる人たちの利便を図っています。
千種川に沿って似たような風景が続きます。この写真は真殿駅跡(有年駅から3.8㎞)。乗客の乗り降り用の駅ではなく、機関車の給水や石炭を積み込む設備があったとか。運行上の拠点駅だったのでしょうか・・・。

しばらく歩くと森の出口が見えてきました。急に開けたところに出ます。

周世停車場跡。廃線跡はこのまま右にカーブして新幹線をくぐっていますが、もちろん赤穂鉄道運行時に新幹線はありません。有年駅から5.7㎞地点。
長らく沿っていた千種川を渡ります。現在の道路橋の左側に鉄道橋が架かっていたようで、現在も橋脚の跡が残っていました。

以下、続きます。

【東垂水】山陽電車がJRを越えていた場所はここ!

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先日の記事で「山陽電車がJRを越えていた場所」としてご紹介したJR列車線のなぞの石積み(これは前回記事で使用した写真の一部分を拡大したものです)。今回、新たな情報をいただいたので補足します。
今回、大先輩からいただいた写真。右端に見えるのが東垂水駅です。山陽電車が最上段、その下がJR列車線、手前の線路がJR電車線です。列車線のコンクリート擁壁の一区画だけがレンガ積みになっていますが、これこそが山陽電車の橋台を流用したものだそうです!ここを山陽電車が走っていた当時、列車線はありませんから、どうなっていたのか少し想像しにくいのですが・・・。
とすると、以前も書きましたがこのレンガ橋台から少し東寄りの、斜めのスロープ状になった石垣も遺構ではないかと勘繰りたくなりますね。ちょっと無理がありますが・・・。
JR(国鉄)線が複線時代にこの辺りを撮ったものはないかと探してみましたが、発見出来ませんでした。国鉄が鷹取~西明石間を複々線化したのは1965(昭和40)年で、同時に垂水駅が高架化されています。この写真は東垂水駅から東方を撮影したものですが複々線化直後のようで、すでに今と同じような風景です。撮影時期がはっきりしませんが、写っている2700形2702-2703は1964(昭和39)年製、手前のレールを用いた架線柱に1964(昭和39)年9月に塗装した旨記載があります。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
山陽電車を利用する、ほとんどの方が東垂水付近で見たことのある灯台。正確には平磯灯標というそうで、1893(明治26)年に完成。む~パパの記憶では昔は赤かったように思うのですが、そもそも最初は黒だったとのこと。貴重な近代化遺産ですね。

情報提供、ありがとうございました。

【東垂水】山陽電車がJRを越えていた場所を探す

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兵庫県最南端の駅として知る人ぞ知る東垂水駅。折しも阪神1000系の姫路行き直通特急が通過中。JRの列車線には貨物列車が走っています。
山陽電車・JRと並走する国道2号線(西国街道)。現在は埋め立てられていますが、む~パパ子供の頃は写真の古びた歩道の仕切り?から右側は海が広がっていました。実は「仕切り」に見えますが、かつては防波堤のてっぺんだったのです。

このあたり独特の風景。右から国道2号線、JR山陽本線の電車線、そして列車線、最上段が山陽電車の東垂水駅。狭い空間に主要交通が立体的に配置されています。

今では日常の風景ですが、このあたり、元々山陽電車は国道2号線(西国街道)上を走っている路面電車で、東垂水駅も現在地より西にあったといいます。隣の垂水駅は今より西にありましたがJR(当時は省線)より北側の現在線上にあり、実はこの写真のあたりで山陽電車はJRを乗り越えて山側に移っていたと言います。当時はJRも列車線が無く複線だったのと電化されていなかったとは言え、この高低差を駆け上っていたとは、にわかには信じがたいですね。

上写真の反対向き。左から国道2号線、JR電車線、JR列車線、山陽電車の順。以前から、山陽電車がJRを越えていた跡と言われているのが、写真中央のJR電車線に見える石垣とJR列車線の擁壁の下に少しレンガが現れている部分です。山陽電車がここを越えていたのは1932(昭和7)年までで、JR列車線はその頃ありませんでしたが、国道から山陽電車まで、この高低差を一気に越えていた風景、今のところむ~パパ、写真で見たことはありません。
山陽電車がJRを越えていたと言われている地点。不規則な石垣の形状がそれっぽいですが、昔の航空写真を見ても何か決め手に欠ける感じです。山陽電車の跡地と思われる場所はすでに民家が建っています。
現在線から。この少し西側へ登って来ていたと思われる旧線。ここから見ても国道2号線ははるか下のほうで、当時の光景を想像するのは難しいですね。現在は明石大橋+電車のビュースポットとなっています。

追加情報を募集中です。引き続き調査を継続したいと思います。

【高砂線廃線跡を歩く⑤】三菱製紙専用線

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4回にわたってご紹介した国鉄高砂線跡。工業地帯を走る路線のため、沿線各工場へ専用の線路が敷かれており、その痕跡もあります。今回はその線路跡を歩くことにします。

2012年の高砂駅付近航空写真(出典:国土地理院)。中央やや上にあるのが山陽電車の高砂駅です。上から見ると駅のすぐ南側で東から来る線路跡(高砂線)と西から来る線路跡(専用線)が交わっているのがお分かりいただけるかと思います。

1961~1969年の同じ場所です(出典:国土地理院)。

山陽電車は現在のまま。黄色が国鉄高砂線。青が高砂線から分岐する専用線です。よく見ると現在でもはっきり痕跡を残している部分があります。
これは高砂線から分岐し三菱製紙高砂工場へ向かう専用線跡(上図では下の青線)。最近までサンモール駐車場へ向かう通路として使用されていました。いかにも線路跡らしいカーブを描いています。
サンモール跡地。建物の撤去が進み、寂しい雰囲気。再開発に期待したいところです。
専用線跡はサンモール跡を横切り、その先は三菱製紙専用の自転車・単車置き場として使われています。これはそのまま線路の跡です。
※すみません。こう書いていますが、本物の線路跡はこの北側を通っていたそうです。また写真撮り直しておきます。
ここを進めば三菱製紙の正門前。かつてここから線路が工場内まで延びていました。高速道路が整備されるまでは鉄道輸送が主力。工場内で貨車に積み込まれた製品は、高砂線を使って山陽本線に運ばれ、全国へ出荷されていました。
三菱製紙高砂工場内には近代的な施設もありますが、戦前から存在すると思われる建築物も多数残っているようで、機会があれば是非近くで見てみたいと、む~パパ、かねてより熱望しております。

【高砂線廃線跡を歩く④】高砂港へ向かう

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今回は高砂港までの線路跡を歩いてみましょう。

山陽電車の高砂駅。特急停車駅で現在は高砂市の代表駅とも言える存在。
山陽電車の向かいにある店舗群の裏手。駐輪場に転用された部分は高砂線の廃線跡。山陽電車の高砂駅(当時は電鉄高砂駅)最寄りの高砂北口駅は左側の建物に沿ってあり、ホームと上屋だけの無人駅でした。
カーブを曲がり南へ向かいます。平坦で歩きやすい遊歩道になっています。
カーブの先で西へ分岐する線路跡があります。これは国鉄高砂工場はじめ周辺の工場へ延びていた引込線の跡。腕木式信号機など鉄道の名残を示すものが保存されていました。
現在の高砂と言えばあまりにも有名な「梅が枝湯」。高砂線の敷地に沿っており、ここから南側に国鉄高砂駅のヤードが広がっていました。
高砂駅跡にある車輪を使用したオブジェ。尾上駅跡にあるものと似ていますね。現在の商店街の正面付近に駅舎がありました。
高砂駅から線路はまだ南へ続いていました。堀川を渡る道路橋が正面に見えます。
「工」の文字は国鉄用地の証。今でもあちこちに残っています。
線路跡をたどると海に出ました。高砂港駅です。元々線路が敷いてあるだけの広い空間。廃線後もしばらくそのままだったようですが、現在は線路は撤去され建物も建ち当時の面影はなくなっています。鉄道が物流の中心を担っていた時代、船から直接貨物を受け渡ししていたのですね。

沿線工場へ引き込まれていた線路もたくさんありました。可能な限り追ってみます。

【高砂線廃線跡を歩く③】加古川駅まで

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山陽電車の北側へ出た高砂線跡は、道路となって加古川駅を目指します。ここはひたすらウォーキング。写真正面の高架道路は明姫幹線、高架下に見える緑は鶴林寺です。
鶴林寺。兵庫県の建築物では最古となる太子堂や、折衷様建築の代表作とも言われる本堂が国宝に指定される古刹。お寺の真横に高砂線「鶴林寺駅」がありました。
鶴林寺駅。ローカル線らしい無人駅でした。1984年(提供:山陽電鉄OB)
1979~1983年の航空写真(出典:国土地理院「地理院地図」)
鶴林寺駅は鶴林寺の門前にあります。高砂線はこの先で別府港から来る別府鉄道野口線と、野口駅で接続していました。
現在の鶴林寺付近(出典:国土地理院「地理院地図」)
高砂線の跡地は道路に、別府鉄道跡地は遊歩道「松風こみち」となってます。野口駅跡は少し広いスペースや緑地になっています。40年経ち宅地化が進んでいるのが分かります。

別府鉄道の跡地「松風こみち」の終点。高砂線との合流点にあたります。

そのまま進むと加古川市役所のそばを通り、JR山陽本線(神戸線)にぶつかります。高砂線は当時地平にあった山陽本線を築堤で乗り越え、北側から加古川線に合流する形でした。
1979~1983年の加古川駅付近(出典:国土地理院「地理院地図」)
加古川駅を出た加古川線から、高砂線、軍用線(旧陸軍神野弾薬庫線)が分かれています。軍用線については以前ご紹介しました。
【加古川】旧陸軍神野弾薬庫線を歩く・前編【廃線跡】 | 楽しいむ〜さん一家 (blog-sanyo-railway.com)
【加古川】旧陸軍神野弾薬庫線を歩く・後編【廃線跡】 | 楽しいむ〜さん一家 (blog-sanyo-railway.com)
比較的最近の加古川駅付近(国土地理院「地理院地図」)
山陽本線が高架化され、高砂線の築堤が消滅しています。「比較的最近」と書いたのは、この写真ではまだはっきりしている高砂線跡がここ数年で急速に宅地化し、現地を歩いても分かりにくくなったためです。
上写真の中央部。今も廃線跡がはっきり残る区画。公園なのか細長い土地が広がります。前後の区画はすでに家が建ち並んでいます。
加古川線も高架化され当時の面影を失っていますが、このコンクリート壁は高砂線の遺構と思われます。

次回からは高砂港方面を探索します。お楽しみに。

【高砂線廃線跡を歩く②】山陽電車との並走区間

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加古川を渡った高砂線は、しばらく山陽電車に沿って東へ進みます。

奥が山陽電車。手前に現在も高砂線の築堤がきれいに残っています。近年フェンスが出来、立ち入れなくなりました。
現在も残る架道橋。この角度から見ると今にも列車が走って来そうです。
枕木も残っています。煉瓦を積み上げた橋脚。日本では標準的な「イギリス積み」です。
桜の季節に。山陽電車に並行して残る廃線跡。(尾上の松~高砂間)
線路跡は山陽電車の加古川県道踏切より東側からは道路に転用されています。写真は旧国鉄尾上駅付近を東側から。右に山陽電車の築堤が見えます。
山陽電車は尾上の松駅東方で築堤を上り高砂線を越えます。元々尾上の松駅はこの築堤上にあり、国鉄尾上駅と連絡していました。写真は高砂線廃線跡との交差部。単線だったため2車線の道路がここだけくびれており、車がすれ違うことは出来ません。
1984年の同場所(山陽電車OB提供)。300形普通列車が通過しています。奥に見えるのは国鉄尾上駅。線路はありませんが、今もそれほど変わらない雰囲気です。
国鉄尾上駅跡モニュメント。写真から見ると山陽電車の築堤にくっついて線路の東側にホームがあったようですね。

このまま加古川駅へ向かって北上します。(つづく)

【高砂線廃線跡を歩く①】第二加古川橋梁付近

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国鉄(現JR)加古川駅と高砂港を結び、周辺工場への引込線を多数有していた国鉄高砂線。1984(昭和59)年12月に廃止となってすでに37年以上経ちますが、現在でも鉄道の痕跡が数多く残り、廃線跡ウォークが楽しめる路線です。今回は数回に分け、あちこち歩いてみました。まずは加古川から。

現在の山陽電車加古川橋梁。高砂方から見たおなじみの撮影スポット(夏場はこの写真と反対側から日が当たりますので注意)。下流側に国鉄高砂線の橋梁(第二加古川橋梁)が架けられていました。2018年2月撮影。

山陽電車OBの方より提供された写真。高砂線が廃止となった1984(昭和59)年に撮影されたと思われるもので、山陽電車の隣を単線で渡っていました。この鉄橋は完全に撤去されており、現在では想像しにくい風景です。山陽電車のアルミカー3068号と赤いディーゼルカーが、並んでやって来るのが見えます。
もう1枚の写真にディーゼルカーがはっきり写っていたので、その部分だけ拡大してみました。先頭はキハ30系列のうち最も数が少なかった片運転台・トイレ無しのキハ36です。正面さん板に「36 42」と書かれているのが分かります。2両目はキハ20で「バス窓」と呼ばれた上部がHゴム支持の初期型。いずれも加古川気動車区に所属、沿線の鉄道ファンにはおなじみの存在でした。
高砂北口駅(山陽電車の高砂駅最寄り)へ向かう同じ列車。キハ20のほうは何番か分かりませんでした。現在廃線跡は遊歩道になっており、桜がたくさん植えられていますが、この当時は何もない殺風景な場所だったことが分かります。左の建物は三菱製紙。正面の太陽神戸銀行はそのまま三井住友銀行となりましたが、隣の姫路信用金庫は建て替えられたようです。手前の黄色い看板には山陽交通社の文字が見えます。
上写真の列車が向かう先に見える建物は現在も残っています。カーブした線路跡は駐輪場に転用されています。
加古川を渡る鉄橋は姿を消していますが、堤防横の道路を越える架道橋はそのまま残され、現在は遊歩道の一部となっています。写真手前が旧高砂線、奥が山陽電車。
現在も「朝日町架道橋」のプレートが付いていました。加古川起点5398.69mとあります。昭和55年竣工とありますので、鉄道橋としてはわずか4年10か月しか使われなかったことになります。

さて、次回はここから加古川駅方面へ歩いてみましょう。