楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】伊丹の軍用線跡を歩く(前編)

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伊丹には軍用線が2つあり、いずれもJR福知山線(宝塚線)中山寺駅から分岐していました。一つは「野里兵器廠専用線」、もう一つが「獣医資材支廠長尾分廠専用線」です。今回はこれらの路線をご紹介しますが、取材時期の関係で状況に変化があり後日別途再訪しています。どちらも他の方がブログ等で紹介されており、それらを参考に現地を歩いていることをご承知おきください。

降り立ったのは阪急宝塚線、中山観音駅。少し南にJR中山寺駅があります。
こちらJR福知山線(宝塚線)中山寺駅。住宅地にある静かな駅です。
中山寺駅南側を大阪駅方面へ歩くと、ほどなく右側へ分かれる道が現れます。これが軍用線の跡で、さらに先で2つに分かれていました。
線路に沿って進むと、廃線跡は右のほうへ分かれていきます。現在は道路になっています。
さらに先へ進むと、この写真のあたりでまっすぐ南へ向かう獣医資材支廠長尾分廠専用線と、東へ向かう野里兵器廠専用線に分かれていました。以前は東へ向かう線路跡もはっきり残っていたのですが、現在は区画整理により住宅や工場等が建ち並び、その跡をたどることは出来ません。写真でまっすぐ奥へ延びている道路は獣医資材支廠長尾分廠へ向かう廃線跡です。
住宅地を貫く廃線跡。完全に生活道路になっており、ここに線路があったことを示すものは何も残っていません。
団地の入口として獣医資材支廠長尾分廠の正門門柱が残されていました。ちなみに獣医資材とは軍馬用の医薬品、蹄鉄、蹄釘等の備品のことだそうです。
門柱の脇にある解説文。1942(昭和17)年に設置されたとありますが、鉄道が敷かれたのは1945(昭和20)年のことだそうで、残務整理ののち1946(昭和21)年には閉鎖されていますので、鉄道が存在したのはわずか1年あまりのことだったことが分かります。

次回は野里兵器廠専用線を歩きます。

トミカを塗り替えて山陽タクシーを作る(後編)

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ちょっと時間がかかってしまったので、お忘れの方はこちら。
前編 中編

下地処理に失敗してもう一度「はじめに戻る」状態となったトミカ塗り替え。ようやく前回のところまで漕ぎ着けました。

特注のデカールは左右それぞれ作っていて、左側面は「山陽」ですが右側面は「陽山」なのです。とにかく小さいのでデカールを水に漬けると、どっちがどっちか分からなくなるのでルーペは欠かせません。今回、車体色を見直し、上半分はクレオスの「グランプリホワイト」、下半分はカインズのアクリルスプレー「ブルー」を使ってみました。前回に比べると上半分はやや白く、下半分は鈍い感じになり、色味は実物に近づいたと思います。
側面標記以外は自家製です。前回はタトゥーシールを使用しましたが、今回は単純な透明シール用紙を使ってみました。
結果としては行灯はシールのほうが良いようですが、車体本体はタトゥーシールのほうが薄くてなじみやすいのではないかと思いました。行灯は未だに旧シンボルマークを掲出しています。
実車は窓下と雨どいが銀色ですが、トミカはモールドでも表現されておらずフリーハンドで描くのはむ~パパの技術では難しいので、銀色のテープを細く切って貼ることにしました。雨どいは手持ちの部材では再現が難しいので省略することにしました。
組み立て前の部品。シートはタクシーらしく白く塗ってシーツが掛かっている感じにしてみました。ガラスパーツのルームミラーも黒く塗ってみました。大体右上のトミカ・リミテッドに合わせた感じにしています。
難関なのが開閉式の後ろドア。手順としては車体にガラスを入れ、シート部分が付いた内装を入れてから、ドアを外側からこじ入れるようにして取り付けます。要領よく取り付けないとせっかくの塗装がはがれたり表面を傷めることになりますので注意が必要です。
というわけで、ひとまず完成としました。実車は側面にドアモールが付いています。別パーツ化したかったのですが、うまい手が思いつかなかったので今回は見送っています。
後ろから。前回のほうが塗り分けはうまかったかな、と反省しています。
今回で「トミカを塗り替えて山陽タクシーを作る」が完結するかと思ったら、JPN TAXIが入庫してきました。次は第2章「JPN TAXI編」をお送りすることになりそう(笑)です。

【廃線跡】尼崎港線を歩く(後編)

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中編より続きます。終点尼崎港駅から先へ延びていた専用線跡を歩いてみました。

左側が尼崎港駅跡。現在は「南城内緑地」と呼ばれています。その名の示すとおり、ここは尼崎城の中で、この人工的な水路は外堀です。右側の土地は築地町といい、江戸時代に小さな2つの島を埋め立てて町にしたもので中国街道も通っていました。
江戸時代の絵図。中央に描かれた区画に「築地町」の文字が見えます(築地町は寛文4(1664)年に完成)。その上部が尼崎港駅のあった部分で南浜と言います。家老5名の屋敷が並び五軒屋敷(ちょうど5つの区画がありますね)と呼ばれていました。上写真はこの絵図の築地町左上の角付近から撮影したもので、当時の区画がそのまま残っています。
※画像は「寛文十年頃尼崎城下絵図」尼崎市公式ホームページより転載
尼崎港駅のある南浜より西へ向けて線路はまだ延びていました。すでに鉄橋は失われていますが。橋台だけが残っています。
ほんのわずかですが、西側の橋台に切り取られた線路が・・・。
廃線跡は「中在家緑地」となって西へ続いていました。
緑地をしばらく歩くと、廃線跡は左右に分岐します。右がAGC(旭硝子)尼崎工場へ、左が日本製鉄(当時は住友金属)尼崎製造所へ向かいます。
AGCへ向かう線路跡は、線路を取り払っただけで細長い空き地として残っている部分があり、今にも貨物列車がやって来そうな雰囲気を残しています。
線路跡をたどるとAGCの工場に吸い込まれます。列車の通過に合わせて開閉していたであろう門扉が今も残っています。
一方、日本製鉄へ延びる線路は痕跡がほとんど残っていません。これは橋台でしょうか???位置的に線路跡のようではありますが・・・。
その向かい側の工場敷地にはいかにも「後から塀を作りました」的な白い壁がありますが、ここを線路が通っていたのでしょうか?この先は工場敷地内となり、どうなっているのかさっぱり分かりませんでした。
尼崎港線から来る線路は無くなってしまいましたが、ここ日本製鉄尼崎製造所には構内輸送用の線路が敷かれており、一部が公道を横断しています。小さな機関車が貨車を牽いて行き来する姿を見ることが出来るそうで、実は隠れた人気スポット。この日は場所だけ確認して阪神尼崎駅まで歩きましたが、また次の機会に取材したいと思います。

【廃線跡】尼崎港線を歩く(中編)

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前編より続きます。

線路跡を使った道路をしばらく歩くと、何となくそれらしい雰囲気が。道路は狭くなり、線路用地は工場や住宅などに転用されていることが分かりますが、時おり怪しげな空き地に出会います。
さらに進むと、天神橋緑地。廃線跡をそのまま公園(と言うには狭いので名前のとおり「緑地」なのかも)にしたものです。
車止め標識の形をしたモニュメント。足元にレールを表現したレンガが敷いてあり、かつて鉄道が存在したことを示しています。
「金楽寺駅」があった付近に、旧国鉄の用地杭がありました。以前高砂線跡を歩いた時にもご紹介しましたね。尼崎港線跡でも複数確認できました。
廃線跡は国道2号線を越え南下。線路跡には住宅が建ち並んでいますが、こうして見ると廃線跡の両側は比較的古い住宅がありますが、中央の1列だけが新しい家です。線路敷地幅だけの細長い区画が続いています。
しばらく進むと廃線跡(写真の歩道左側)は大物駅付近で阪神電車と交差します。走ってきたのは山陽電車5000系の直通特急。阪神大阪梅田までラストスパート!
阪神電車の大物変電所。どうやら尼崎港線の跡地に建っているようです。
阪神本線・なんば線をくぐると、右側に阪神尼崎車庫と工場が広がっています。最後の青胴車5025号が休んでいました。
この先に転用されず線路跡をはっきり残す区画がありました。
古いレールを使用した柵がいかにも線路際という感じですね。近代的な阪神電車の車庫前にこんなローカル線が走っていたのは驚きです。
終点尼崎港駅付近。このあたり、東西にヤードが広がっていました。現在は公園になっています。ただ、線路はここで終わりではなく、この先の工場まで敷かれていました。

次回はその専用線跡をたどりましょう。