楽しいむ〜さん一家

【未成線】阪急新大阪連絡線を歩く(淡路編)

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前編では将来実現しそうな十三から新大阪駅への連絡線構想をご紹介しましたが、今回は恐らく実現しないであろう淡路までの計画路線(免許も失効しているとのこと)を歩いてみました。

新大阪駅は伊丹空港進入路の真下にあるようで、飛行機が間近に。全日空の新鋭機、ボーイング787-8”ドリームライナー”が降りてきました。
前回最後の写真で新大阪から先の線路予定地に阪急ビルが建ってしまっていますが、その続き。この踏切は京都方面と神戸方面を大阪駅を経由せず(つまり淀川を渡らず)結ぶ短絡線で、途中に宮原車庫があり貨物列車や回送の特急列車などが頻繁に通ります。写真で暗く写っているところはJR在来線の新大阪駅ホーム。写真中央の建物(JRの設備でしょう)が阪急線路予定地に建っています。

さて、ここからJR在来線の向こう側に回るのが意外に大変だったりしますが・・・。

新大阪駅正面。背景に建っている灰色と黒のビルは新大阪阪急ビルで、まさに淡路駅へ向かう予定線の上に細長く建っています。
さてさて、再び北側に戻りましょう。新幹線に沿って京都方を見てみると、阪急予定線の有名な遺構があります。写真中央に注目!新幹線高架を斜めにくぐるための空間が用意されています。
近くまで来てみました。十三方と同じく橋脚が斜めに建っていてその両側が線路用地です。当然ですが複線の線路がくぐれるようになっているのがよく分かります。JR在来線をまたぐわけですから阪急電車が通っていたとしても必然的に高架になっていたはずです。しかし、ここを走り抜ける阪急電車の姿を見ることはもうないでしょう。
淡路へ向かう連絡線の用地。十三方面とは異なり淡路方面は用地買収が進んでいなかったそうですが、新幹線をくぐってしばらくは線路用地が残されています。今もまだ使われずに放置されているようです。
淡路方から振り返ると、新幹線をくぐって線路用地が延びている様子がよく分かります。実際に阪急電車が走っていたなら日常風景になったのでしょうが、そうはならず、都会の片隅に遺跡として取り残された寂しさを感じます。この「夢の跡」感がまさに未成線の魅力と言えるでしょう。
この先、線路用地はお約束とも言える駐車場として利用されていますが、ここで住宅地に行き当たり消えてしまいます。この後も団地の駐車場や空き地が散見されますが、線路用地として継続したものはなく、用地確保はあまりなされないまま現在に至っていると思われます。
ここまで来ると阪急淡路駅は目と鼻の先。現在高架化工事が進捗しており、京都本線と千里線を分ける2階建ての構造物が徐々に形を成しつつあります。京浜急行電鉄の蒲田駅を彷彿とさせる巨大な高架に圧倒されます。
2層のホームが姿を現しつつある淡路駅を出発する「雅洛」。新大阪連絡線の建設にはこの淡路駅と十三駅の高架化が要件だったと言い、当時はまだそこまでの大工事は不可能だと考えられていたようです。淡路駅の高架化工事が最盛期を迎えた今、消えてしまった連絡線のことを思い出す関係者もたくさんおられることでしょう。まことに感慨深いものがあります。

【未成線】阪急新大阪連絡線を歩く(十三編)

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東海道新幹線開業のころ、阪急電車に新大阪駅を建設し各線から連絡線を敷くという計画がありました。概要はご存じの方も多いことと思いますが、む~パパ、この計画線上を今回のウォーキングコースに選び、実際に現地を確認してみました。

神戸線・宝塚線・京都線が集まり、多くの人たちでいつも賑やかな十三駅。まずは用地買収が進んでいたという十三駅~新大阪駅の区間を歩いてみます。
十三駅の北端に来てみました。右に京都線、左に宝塚線が分かれていきます。十三と新大阪を結ぶ路線は宝塚線から分岐する計画でした。
宝塚線の線路に沿って歩いて行くと、現在は高架化された同線の脇に大阪神鉄豊中タクシーがありました。タクシー車庫は阪急電車の線路用地と思われます。
その後も線路に沿って阪急管理地が続いています。
阪急宝塚線はこの先でJRの宮原を通る連絡線(写真ではサンダーバードが走っている部分)と新幹線の間を通って宝塚へ向かいます。直角に交わっていないので、新幹線の高架橋が阪急電車の線路に合わせて少し斜めに建っているのがお分かりいただけるかと思います。
そのすぐ新大阪駅寄りを見ると、こちらも高架橋が2本、線路と直角ではなく斜めに建っています。おまけにここの1スパンは橋げた自体が少し薄くなっています。阪急電車はここを通って新大阪駅へ向かう予定で、山陽新幹線がこれを考慮して空間を用意していたことが分かります。
同じ場所を反対側から。中央部が阪急新大阪連絡線の予定線が通る部分、奥が阪急宝塚線です。
この後は新幹線に沿って駐車場が続いていますが、これが線路用地で、新幹線ホーム増設のため高架が少し用地を侵食していますが、かなり広い幅で新大阪駅へ向かいます。
新大阪駅に着きました。相変わらず駐車場ですが、この付近は幅が広いので、高架上で複数のホームを作り4本くらい線路が入れるように計画されていたのではないでしょうか。
右側は新幹線ホームが増設されて少し削られていますが、阪急電車新大阪駅の構造物が現存します。大阪市営地下鉄御堂筋線の新大阪駅をまたぐ形になっていて、新幹線と同じ高さになっています。十三から来る線路はここまでで現在も免許があるそうですが、この先は京都線の淡路駅と結ぶ計画でした。こちらの免許は失効しており写真のように線路用地上に「新大阪阪急ビル」が建てられているため、高架での延長は不可能だと思われますが、十三と新大阪駅を結ぶ路線は梅北開発と合わせ動き出す可能性があり、今後とも目が離せません。

次回は淡路へ向かう連絡線を探索します。

ミニ鉄道フェスタinメリケンパーク2022

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秋晴れに恵まれた26日(土)、神戸メリケンパークでカワサキワールドが主催する「ミニ鉄道フェスタ」が開かれました。ここでいう「ミニ鉄道」とは人が乗れる鉄道模型のことで、このイベント、コロナ禍でしばらくお休みでしたが昨年より復活し、以前より参加車両も増えパワーアップしています。
「ミニ鉄道フェスタ in 神戸メリケンパーク2022(11月26日、27日)」開催のお知らせ / カワサキワールド (khi.co.jp)
世の中には「人の乗れる鉄道模型」の愛好家がこれだけ存在しているのか!と驚かされるほど大量の車両が集結。む~パパ、以前も来たことがあるのですが、感覚として車両数は倍以上に膨れ上がっています。
四国に特急が登場して50周年となるのを記念し、登場時の装飾を付けた「しおかぜ」号。ちなみに一般参加者は神戸海洋博物館の入場券を購入し、ミニ鉄道の乗車証を交付されれば誰でも乗車できます。
何と言っても人気の地元車両。こちらは山陽電車6000系。残念ながらこの日は動いていませんでしたが、27日(日)は走らせる!とオーナーからお約束いただきました。
ミニ鉄道の真骨頂と言える「ミニSL」。ライブスチームと呼ばれる蒸気機関車の模型は、本当に石炭をくべ蒸気で走る本物。神戸市立科学技術高校OBが走らせる国鉄9600形。実習で製作したといいます。

む~パパ、実はこういうイベントでは参加者にお友だちがたくさんいるので、あちこちでじっくり模型を見学させていただきました。こちら九州から参加の国鉄C57形。門デフがカッコいい~!ほとんどを自作されたという、信じられない労作です。単に小さいだけでホンモノの蒸気機関車です。

ミニ鉄道フェスタ2022。明日11月27日(日)も開催されます。是非行ってみてください!

【資料】山陽5000系を模型目線で見る!①

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電車の模型も大好きなむ~パパ。先日とある鉄道模型の集まりで、お友だちに真ちゅう板から切り抜いて山陽5000系の模型を自作している製作途中の車体を見せてもらいました。いや、それがまたよく出来ていまして、恐らくそのうちコンテストで賞を取って雑誌に掲載されるのでしょうが、このブログに載せる許可を得ていないので、また今度ということで。さて、今回はこういった模型を作る方々に必要だろうと思われる目線で、写真を何点か出してみます。出し惜しみするつもりは無いのですが、少しずつということで。今回は山陽電車を代表する5000系の神戸寄り先頭車5000号をご紹介しましょう。

5000系トップナンバー5000号の顔。3000系の流れを組みながら新しい感じに仕上がっています。1986(昭和61)年に登場し今年で36年になりますが、む~パパ的にはデザインが陳腐にならず、うまく6000系に引き継がれ、工業デザインとしては非常に成功した部類ではないかと思います。
(2014.6.15 大塩駅)
こちらも同じ5000号ですが、1次車にあたる7編成(5000~5012)は開口部の少ないスカートを付けていました。これは当時3両編成を2本つないで6両編成にする構想があり、密着連結器と電気連結器を装備して任意に増結・解放できるよう準備されていたためエアホースなどをつなぐ必要がなく、このような形状になっていたそうです。3両編成を2本つなぐという発想は6000系で本格化しましたが、電気連結器を用いて簡単に増結・解放するという形にはなっていません。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)
5000号を山側から。旧タイプのスカートを付けていた頃。この編成は側面の方向幕がLED化されているほか、側面の窓柱が黒く塗装されており外観上の特徴となっています。また、この方向から見ると先頭部のスカートすぐ横に阪神線内用の列車選別装置が取り付けられていますが、もちろん登場時にはなく、直通特急の予備車として整備された際に取り付けられたものです。このような形で1両ずつ撮影したものを「形式写真」と言い、鉄道写真のひとつのジャンルです。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)
同じ5000号を浜側から。3000系と同じく乗務員室は運転席側が広いため、左右非対称の側面デザインとなっています。このため乗務員扉(側開戸)の位置が山側とは異なっていますが、これは国鉄(JR)車両によく見られるものの、私鉄車両では数少ない作例と思われます。3000系の運転台部分が当時の国鉄車両を参考に製作されたため、これを5000系も引き継いでいるものと考えられます。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)
模型ファンには必須の床下機器配置。こちらは山側。ブレーキ制御箱やコンプレッサーなど、いわゆる空気系の機器が配置されています。5000系は3000系と同じく1号車に補助機器が、2号車に制御器があり2両で1ユニットとなっているため、電動車ですが5000号が単独で走ることは出来ません。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)

こちらは浜側。SIV(静止型インバータ)やバッテリーなど電気系機器はこちらに配置されています。ちなみにSIV起動装置(SIVの右側)は交換され新しい形になっていますので、登場時の5000系を再現したい模型ファンには注意が必要です。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)
(参考)5022号の浜側床下。5000号もSIV起動装置は登場当時この形でした。機器配置が時代を経て変化しているのが分かります。(2004.1.23 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)

いかがでしたか?2号車以降も次の機会にご紹介しましょう!

【廃線跡】赤穂鉄道跡を歩く(その3)

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その2から続きます。目坂駅跡から道なりに進むと、あっさり坂越駅跡に着きます。有年駅から9.4㎞地点。現在のJR坂越駅とは位置が異なります。かつては直営のバスがここから坂越港へ向かっていたそうです。
ようやくJR赤穂線の線路が近寄って来ました。何とか帰れそうです。
赤穂鉄道の橋台と言われている遺構。線路はここで水路を越えていたそうです。上に継ぎ足してある部分はともかく、下半分は鉄道遺構だと思われます。
真ん中の道が廃線跡のごとき写真ですが、線路は右側のこんもりした部分を通っていたそうです。
砂子駅跡。有年駅から10.2㎞。平坦な道ではありますが10㎞を超えてくると足にこたえます。日頃の運動不足が・・・。
これ以降は赤穂市街地に入ります。線路跡は道路に取り込まれ、痕跡をたどることは難しくなります。終点の播州赤穂も現在のJR播州赤穂駅とは全く違う場所にあります。有年駅から12.7㎞。ようやく完歩しました。かなり日も傾いてきました。
現在の赤穂鉄道播州赤穂駅跡付近には、神姫バス(ウイング神姫)の営業所と・・・、
山陽百貨店赤穂ショップがありました。唐突に、やや強引に山陽電鉄グループのお店をご紹介したところで、今回のウォーキングもそろそろお終い。
む~パパ的には終点に着いた気分だったので、そこからJR播州赤穂駅までの遠かったこと!いつの間にやら建て替わっている駅舎に驚きましたが、2000年に建ったとのことで、もう20年以上前・・・。白状しますと大抵クルマで来ていましたので、駅に来たのは本当に久しぶりだったのです。いかんいかん、もっと電車に乗らないと。家に帰って見てみると、この日の歩数は28,923歩。よく歩きました。