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【東須磨】鷹取工場で整備されたSLたち②~太子山公園のD51

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東須磨駅も最寄りだった旧国鉄鷹取工場で整備された保存機関車。今回は第2回として太子山公園(兵庫県太子町)のD51を紹介します。

JR網干駅より北へ約2㎞。太子町役場にほど近い太子山公園。網干(山陽網干駅より南側)と播磨新宮を結んだ播電鉄道が遊園地を経営していた場所です。近隣には同鉄道の車庫跡があり、ピットの跡が残されているそうですが、それはまたの機会に取材するとして・・・。この公園にD51が保存されています。
立派な屋根の下で保存されるD51 345号。
4つの動輪が「D」の証。定期的に手入れされているようで、今にも走り出しそうです。
キャブ(運転室)。丸い旋回窓が取り付けられているところから見て、厳しい冬を越してきた機関車であることが分かります。そう、この345号機は1940(昭和15)年に日立製作所(山口県)で製造され仙台に配置された後、戦後は主に北海道で活躍した機関車なのです。1976(昭和51)年、追分で廃車となり、保存のため鷹取工場で整備されました。
鷹取工場構内で。恐らく同工場に入場したのは初めてではないでしょうか。撮影日時不明ですが、廃車・保存時期から見て1976(昭和51)年と思われます。

鷹取機関区に隣接する留置線で。短い排煙板(デフレクタ)や装備から北国のD51であることが分かりますが、縁もゆかりもない太子町に保存されたとはいえ現在も大切にされており、幸せな余生を送っていると思われます。

国鉄マンの手により美しく整備され送り出されたSLたち。現在の姿を追います。

【3619号】ホワイトエンジェルの39年

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6000系の18本目となる6017号が東二見に搬入され、まもなく運転開始が見込まれます。となると入れ替わりとして動向が気になる「ホワイトエンジェル」こと3619号。今回は突如真っ白になって登場した1983(昭和58年)の写真を交え、この車両を少しご紹介しましょう。

検査直後の3619号。現在と同じ姿です。(2012.8.13 東二見車庫)写真:山陽電気鉄道

3619号は3000系3次車後期型(3619~3622)に分類されます。昭和50年代には3018号4両編成の3号車に組み込まれ、3018-3019-3619-3609として活躍していました。3000系が3両編成から4両編成になる過渡期には、このように先頭車が中間に入る編成が見られましたが3619号は最後まで中間に残り目立つ存在でした。のち3018号は3連化。編成から外れた3619号は冷房改造されるまで休車状態だったようです。

1983(昭和58)年、3619号は冷房改造されるとともに新造されたアルミカー3100-3101号に合わせた白い塗装となりました。写真はまもなく搬入される3100-3100号を出迎えるため、東二見から送り込まれたと思われる3619号。3050形アルミカー4両編成に引っ張られて西代までやって来ました。すでに車庫は東須磨に移転後で建物は無く、このように数本の線路が敷かれている状態。県立スポーツ会館(震災で被災後、解体)、地上にある西代駅舎、教習車830号の姿が見えます。(写真:山陽電気鉄道)
同じ日の別角度からの写真。3619号は同時に登場した3622号までの4両とも当時はウイングバネ式のKW-2台車を履いて登場したようですが、この4両分の台車は当初から3000系アルミカー3000~3003号と交換するため電動化できる設計だったらしく、数年のうちに交換されこの写真のように軸ハリ式のOK台車となっています。む~パパも3619~3622号はOK台車を履いていた印象が強いです。(写真:山陽電気鉄道)
3619号に取り付けられた電気連結器付き回り子式密着連結器。どこまで具体的に構想されていたのか不明ですが、3100-3101号は3000系4連に増結し6連を組めるようになっていました。3101号には簡易運転台があり(準備工事のみ)、本線上で増結解放するつもりだったと考えられます。3619号はそれまでの準備のため対応した連結器を取り付けていましたが、現在は他車と同じ棒状連結器となっています。(写真:山陽電気鉄道)
3100-3101号と組む際、不足する空気を補うため3619号にはコンプレッサーが取り付けられました。山陽電車ではおなじみのC-1000やHB-2000ではなく、C-2000Mと呼ばれるもので270形初期車から流用されたものと考えられます。写真の時期に山陽電車で実装されたこのコンプレッサーは1台だけでした。(2006.12.5 東二見車庫)写真:山陽電気鉄道

のち、3050形のコンプレッサー更新により捻出されたHB-2000に交換されています。(2012.8.13 東二見車庫)写真:山陽電気鉄道

3619号の活躍も、もうあと少しと考えられます。機会があれば今後も古い写真を公開しましょう。

【西新町】明石車庫・車両工場跡地は今

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西新町駅
近代的な高架駅・西新町。かつてここに山陽電車の車庫と車両工場がありました。1968(昭和43)年、東二見に移転後、敷地の大部分はマンションに、残りは保守基地や資材置き場などになっていましたが高架化、保守基地の中八木への移転、病院の建設など、以前の風景を想像しにくくなってきました。今回は昔の写真を交えて車庫・工場のあった時代を思い起こしてみましょう。
Google Mapより現在の西新町駅付近。駅の北側の「ふくやま病院」とマンション「明石ハウス」が位置する三角形の土地が元々車庫・工場のあった部分です。
国土地理院地図より1961(昭和36)年の西新町駅付近。車庫・工場に通じるたくさんの線路が敷かれているのが分かります。周囲はまだ田畑が目立ちますが、東側はすでに宅地化が進んでいますね。
山陽電鉄OBが撮影された写真より。明石車庫。はっきりと撮影年代を特定できないのですが、中央に見えるのは820形828号。一番右は200形206号。820形がまだ前面非貫通であることや現在東二見で保存されている206号が現役でいることから昭和30年代半ば(1960~63年頃)と思われます。
山陽電鉄OBが撮影された同じような角度の写真はもう1枚あり、こちらは手前に本線が写っています。上の写真より時間が経っていまして、820形や850形がすでに前面貫通化されていたり、300形や2700形といった5000系登場まで走っていた車両が顔を揃えていますので、東二見移転直前と思われます。右から2番目はすでに現役を退き入換車になっている206号の姿があります。
現在の同じ場所を上の車庫写真とほぼ同じ角度で撮ってみました。少し引き気味ですが雰囲気は伝わると思います。本線から扇型に広がる土地だけが車庫だったことを物語っています。
ふくやま病院の西側にあるマンション。車庫・工場の敷地をなぞるように建てられています。
車庫敷地西端側。昔の航空写真によると西端には建物があり、西代や飾磨のように電車が並んでいる姿は道路側から見えなかったと思われます。
空爆犠牲者の碑。1945(昭和20)年6月9日の空襲の際、明石車庫・工場が被弾し社員31名が亡くなられたことが記されています。む~パパの叔父は近くの川崎重工明石工場に動員され働いていましたが、爆弾の破片が頭のすぐそばを飛んだと話していました。(6月9日の攻撃では川崎重工の被害はほとんどありませんでしたが、明石公園周辺と市内西部が被害を受けたとのことです。)日本が平和であるのも、失われた多くの尊い命の上に成り立っているものと感謝しなければなりません。