楽しいむ〜さん一家

【大天守完成】姫路城をわが手に(その3)

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あけましておめでとうございます。本年も「楽しいむ~さん一家」をよろしくお願いいたします。

というわけで、新年最初は「姫路城ペーパークラフト」その後の進捗状況をお知らせします。
今までの工作は以下のとおり。(リンク先へ飛びます)
姫路城をわが手に(その1)
姫路城をわが手に(その2)

徐々に「城っぽく」なってきました。上から2層目には南北があり、上に開けられた細い窓が左寄りになっているのが南側(正面)のようです。一応実物の写真で確認しておきました。
ここまで来ると間違えないとは思いますが、念のため裏面に「北」「南」と方角を記入。
ここで恐らく最大の難関と思われる、大きな千鳥破風と唐破風の付いた屋根部分(右)を上から3層目までと接合する作業を行います。簡単そうに見えて意外にやっかいな作業です。
3層にまたがる大きな破風が付くと、ますます「姫路城」らしくなります。こちらは南側(正面)。千鳥破風と唐破風がバランス良く配置され、築城者の絶妙なセンスを感じさせます。
ここまでの組立は、基本的に上から下へと同じ作業の繰り返しです。しかし、紙の厚さを考慮しない設計と思われるため、相変わらず製作には結構苦労させられます。特に入母屋破風部分は壁に表示された「のりしろ」に破風部分を接着するのが至難の業。今回は無理やり接着しましたが、もう少し何らかの工夫が必要かと思われます。あとは石垣。
最下層(1層目)と石垣は一体パーツで、くみ上げた天守を接続すれば、ようやく姫路城の雄姿が再現できました。
北側。唐破風とそれに伴う意匠がなく、デザイン上あくまで正面ではないことが分かります。入母屋破風に引っ張られて最下層の屋根がゆがんでいます。仕上がりは悪くなりますが、破風を屋根から切り離して接着したほうが良いと思います。
少し視点を下げれば、紙で作られたとは思えない迫力を感じます。実際に作ってみると、姫路城が実際にどのような構成で作られているかが分かります。

ここで終了であれば良いのですが、実は完成したのは「大天守」のみ。実際にはご存知のとおり小天守を周囲に巡らした連立式でして、12枚ある展開図はようやく6枚を使ったところです。まだ半分か~。

着工以来10年。以下、まだまだ続きます・・・。

【祝 世界遺産登録30周年】姫路城をわが手に(その2)

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本年2023年12月11日、姫路城が日本初の世界文化遺産に登録されて30周年となりました。江戸時代より現存する12箇所の天守閣のうち、もっとも大規模で美しい姿を保つのが姫路城だということは異論のないところでしょう。む~パパ、実は現存する12城は全て訪問し城内に足を踏み入れましたが、弘前城では雪に埋もれ遭難しそうになり(そもそも天守に入れる季節ではなく・・・)、宇和島城は2度も訪れたのにいずれも時間切れで天守に登城できなかったという苦い思い出があり、未だこれら天守には強い執着があるという「城マニア」の端くれではありますが、それはともかく。

世界遺産登録30周年、おめでとうございます!

2014年4月24日ですので、ほぼ10年前の記事「姫路城をわが手に(その1)」を読者のみなさまは覚えておられるでしょうか?Canonのホームページで公開されているペーパークラフトを組み立てるという企画だったのですが、「その1」だけで中断していました。「知らなかった」と言う方は以下のリンク先をたどってみてください。

リンク先 → 姫路城をわが手に(その1)

リンク先 → キヤノンペーパークラフト

このころは「楽しいむ~さん一家」も開設したところで、いろんな企画を立ち上げる時期でもあったのですが、確かに中断しているのは反省すべきところ。世界遺産登録30周年で再開することにしました。

キヤノンの組立説明図によると、唐破風を作る前に両屋根を貼り合わせることになっていました。いきなりのミス!でも大勢に変化はないような・・・。写真は最上部屋根に妻面を接続しているところです。

最上部の屋根が完成しました。

完成した屋根に妻・側板を取り付けます。上から順番に組み立て下へ向かうようです。
細部パーツの切り出し。まずはハサミの入りやすいところから切り抜きます。ハサミ使用では無理をしないことです。
ハサミの入らない小さな部品はカッターナイフが登場します。こんな感じで仕上げてゆきます。
上から2層目の下にある「入母屋破風」。4か所もあるのか~。先は長いです。
入母屋破風を一つ組んでみました。屋根に独立してくっついた破風が「千鳥破風」なのですが、隣の屋根と一体になってこちらへ生えているようなタイプは「入母屋破風」と言うらしい・・・。にしても、このペーパークラフト、正確に切り出すのはもちろんですが遊びがほぼ無いので、よほどきちんと組まないと上手に出来ません。また、上から下への階層がそれぞれバラバラなので、少しでもミスがあると真っ直ぐ建つかどうかも怪しい状況・・・。

もう少し進展したら続きを書きます。不定期連載になりますが。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その4・終点新宮町へ)

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すこし間が空きましたが、播電鉄道跡をたどるウォーキングは終点「新宮町」を目指します。過去の記事は以下のとおり。
 その1
 その2
 その3

ネットで紹介されている記事によると八重垣病院裏手の用水路をまたぐ石積みは播電鉄道の橋台だそうです。すぐそばを出雲街道が通っています。
橋台を過ぎると線路跡は道路に転用され、まっすぐ北を目指します。

廃線跡は現在の国道179号線に沿った道路となって北上しますが、ハリマ木材工業に突き当り突然途切れてしまいます。この場所が播電鉄道の終点、新宮町駅があった場所です。

ハリマ木材工業に掲げられたプレート。廃線跡は今も「電車道」と呼ばれていると書かれていますね。
播電鉄道「新宮町駅」は出雲街道のすぐ西側にあり、駅前と考えられる場所は街道筋にあったのでしょう。付近は現在も古くからの風情ある町並みが残されています。写真は街道がクランクする箇所にある旧家。城下町と同じ防御上の工夫なのでしょうか。
街道筋にある戦前からあると思われる近代建築。播電鉄道の新宮町駅は集落の南端に位置しています。対して姫新線の播磨新宮駅は集落北端に設置されているようです。

同じく出雲街道に面した和菓子店「櫻屋」。なにやらホーロー看板のようなものがたくさん架かっていますが・・・。

懐かしいホーロー看板。ここまで並んでいるとなると、このお店のオーナーが集めたものかな、と思ってしまいます。
今回のゴール、姫新線播磨新宮駅。さすがに全線を1日で歩くのは無理があったので本竜野駅で南北2回に分けてみました。ただ歩くだけであれば1日でも踏破可能だと思われますが、あちこち寄り道したので予想以上に時間がかかりました。
日も傾いた播磨新宮駅。新型気動車がカッコ良いです。む~パパのシルエットがホームに伸びていますね。
いやはや、お疲れさまでした~。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その2・JR網干~JR本竜野)

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その1より
山陽本線を乗り越えた播電鉄道の本線は龍野・新宮町へ向かいますが、ここ「糸井」駅から山陽本線の網干駅への支線がありました。醤油やそうめんを国鉄に積み替え全国へ発送する必要があったためです。

ウイング神姫バス「糸井」。播電「糸井」もこのあたりだったと思われます。
ここから山陽本線へ向かう線路跡は道路や宅地になっていますが、小さな用水に橋台が残っています。明確に鉄道跡と判断できる数少ない遺構です。
廃線跡を転用した道路。突き当りに見えるのがJR山陽本線。播電鉄道はこの先でJRに並行し、網干駅北側に駅設備を設けていました。
JR網干駅。アーバンネットワークの西端駅です。この辺りは播電鉄道の駅や引込線があったと思われますが、痕跡は全くありません。ホーム石垣が残っているそうですが、今回は発見できませんでした。播電鉄道と国鉄は線路の幅が違うため、貨車をそのまま乗入れさせることが出来ず、中身を積み替える必要がありました。これがのちに姫新線(当時は姫津線)の開業を招くこととなります。
この後、線路跡は道路を離れて進みますが現在痕跡をたどるのは困難です。写真右の建物から延びる境界線は鉄道敷地との境界でしょうか。ちょっと分かりかねる、というのが本当のところです。
本社と車庫のあった「鵤(いかるが)」駅跡。写真は検車設備の跡だそうで、奥には階段も残されているそうですが私有地ということもあり、立ち入ることはできません(公道から撮影)。隣接する民家は鵤駅ホームを土台としているそうですが、はっきりと痕跡を認めることは不可能です。

播電鉄道では鵤駅に隣接する太子山に遊園地を建設し旅客誘致に努めたとされていますが、今はD51のある静かな公園となっており当時の賑わいを感じさせるものは残っていません。太子山公園のD51は以前 こちら でご紹介しました。

この先も廃線跡は道路や田畑、民家に転用されており、まっすぐたどるのは難しいです。
林田川。播電鉄道はこのあたりで川を渡っていたようですが、河川改修もあり橋台等は残されておらず、鉄道の痕跡は全くありません。
播電龍野駅跡付近。龍野駅は新宮町へ向かう中間駅ではなく揖保川に向いた終端駅のスタイルをしており、新宮町へ向かうにはここで一旦向きを変える必要がありました。現在は全く痕跡はなく比較的新しい住宅が立ち並ぶ区画となっています。
姫新線本竜野駅。播電龍野駅より東寄りにあり全く接続していませんでした。姫路へダイレクトにつながる鉄道の開通により、播電鉄道はその存在意義を失うこととなります。当時としては先進的な標準軌の軌道も国鉄と直通できなければ貨物受け渡しに手間がかかります。そもそも播電の路線自体、揖保川水運の代わりとして網干港から船へ積み出す意図が大きかったと思われ、物流が急速に鉄道輸送へ取って代わられることを予想できなかったのかも知れません。

続きます。次回から新宮を目指す路線を歩いてみましょう。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その1・網干港~JR網干)

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播電鉄道はかつて網干港から山陽本線網干駅、龍野を経て新宮町へ向かっていた私鉄(車両は路面電車のようなスタイルですが、ほぼ専用軌道だったようです。)で、1909(明治42)年に開業しましたが、1934(昭和9)年に廃線となりました。今回む~さん一家ではその痕跡を実際にたどってみます。
※播電鉄道については多くのサイトで廃線跡が紹介されています。このブログはこれらの記事を参考に現地を訪れ取材したものです。

今回のウォーキング起点は山陽網干駅。駅を出たら左へ。一旦港のほうに向かいます。
東雲橋から運河のような網干川を望むと、かつて港町として賑わった雰囲気がまだ残っているようです。播電鉄道の前身「龍野電気鉄道」起点「網干港」駅はこの橋のたもとにありました。写真左側の川べりには貨物駅の設備があったようです。
東雲橋から北方向へ向かう道が線路跡。ゆるやかに右カーブし、現在の国道250号と交差します。
東雲橋北交差点付近にある「ことぶき食堂」。建て替えられていたとしても、当時から駅前食堂だったとすれば興味深いですね。
国道250号線を横断する「山電網干駅前」交差点。播電「余子浜」停留所は交差点南側にあったようです。当時まだ山陽電車が存在していなかったため、接続を考慮する位置ではありませんでした。
次の「津ノ宮」は魚吹八幡神社の玄関口である現在の宮内交差点付近にあったそうです。線路はここで道路を横断して東側に移っていたそうですが、何となくこの先でちょっとそれらしき雰囲気がするものの、実際はまったく痕跡が残っていません。
この付近にある水路を跨ぐ古い橋。相当古い時代のものではありますが、明治時代かと言われるとそこまで古くはないかも、と思ったりします。
その次の停留所「坂出」。付近には鉄道の痕跡を示すものは何もありませんが、消防車庫の上に火の見やぐらが建つ、いかにも鉄道模型ジオラマに出て来そうな建築物がありました。
「和久」停留所から現在の道路を離れ、線路は左に逸れていたようですが、今となってはさっぱり分かりません。廃止から90年近く経つ以上、無理もないですね。
その後、播電鉄道は築堤を上がって山陽本線を乗り越えます。一度廃止になって痕跡を消した鉄道ですが、再び廃線跡を利用して山陽本線を越える道路が建設中。歴史は繰り返すといったところでしょうか。
JR網干駅。播電鉄道はここを越えて龍野方面へまっすぐ向かいますが、途中の「糸井」から網干駅の北側に乗り入れる支線がありました。しかし、播電鉄道、この時代の鉄道にしては珍しく標準軌(1435㎜)を採用していたため狭軌(1067㎜)の国鉄とは乗入れ出来ず、貨物は積み替えが必要でした。これがのちにこの鉄道の命運を左右することになります。

以下、続きます。

【書写山圓教寺】釈迦三尊像と四天王像を一挙公開(9/30まで)

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摩尼殿で如意輪観音を拝観したら、さらに奥へ進んでいきます。すると突然視界が開け、広場を取り囲むように巨大な建築物が現れます。

映画や大河ドラマ撮影でも使われ「西の比叡山」こと圓教寺の寺格を今に伝える威容を誇るのは、北側の大講堂、南側の常行三昧堂(常行堂)、それをつなぐ形で立つ食堂(じきどう)。合わせて三之堂(みつのどう)と呼ばれます。
大講堂には釈迦三尊像が安置されているのですが、実は元々その周囲には四天王像が配置されていました。これが言わば釈迦三尊のフルセット。三之堂は落雷と火災で2度失われ、現存するのは室町時代の建物ですが、この像はいずれも圓教寺草創期897年の作だそうです。四天王像は1933(昭和8)年に摩尼殿再建に合わせてそちらへ移されていたのですが、90年ぶりに元の位置に戻り公開されました。
手前が持国天、奥が多聞天。左は釈迦三尊の左脇侍、文殊菩薩。

四天王とは持国天・増長天・広目天・多聞天で、順に東・南・西・北を守護する神様です。仏様ではなくて神様なのは、元々インド古来の神様が仏教に取り入れられたものだからです。これらの像は一般的には「仏像」に含まれますが、天の住人ということで「天部」、その像は「天部像」というのが正しい言い方でしょう。

増長天
広目天
本尊となる釈迦三尊像は中央の釈迦如来、脇侍として右側の文殊菩薩、左側の普賢菩薩を配した一般的な形式となっています。(脇侍とされる仏像についてはいくつかのバリエーションがあるようです。)
今回も撮影自由。こう言われてしまうと信仰というかお祈りの対象というより、美術品のような感覚になるのも事実で、いろんな角度で撮影を楽しんでしまいました。
こちらも兵庫デスティネーションキャンペーンの一環としてのイベントで、9月30日までの期間限定で特別ご朱印を授与しています。こちらでもいただいてしまいました。
使っていた石上神宮の朱印帳がそろそろ満杯になりそうだったので、ついでに買ってしまいました。表紙に摩尼殿が描かれています。長田神社の禰宜さまと朱印帳のお話になって、次は長田さんで買うかなと思っていたのですが、ちょっと間に合わなさそうだったので・・・。次のは買います。すみません。
さて、いつもはロープウェイ山頂駅から徒歩で参拝しているのですが、この日はバス(有料)に乗ってしまいました。いや、これが結構なアップダウンを繰り返すアクロバティックな山道でして、乗る価値あり。4輪駆動の三菱ローザでしたが、もう1台日産シビリアンもいました。

【書写山圓教寺】奥秘仏如意輪観音御開帳(9/30まで)

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「秘仏」日頃は公開されない仏像。書写山圓教寺で2006年に厨子の中から発見され、9月30日までの期間限定で開帳されている摩尼殿(まにでん)の「如意輪観音像」を拝観してきました。このイベントは山陽電車も参加している「兵庫デスティネーションキャンペーン」の一環です。

姫路駅から書写山ロープウェイのりばまでは神姫バス。今話題の燃料電池バス、トヨタ「SORA」も投入されています。
ロープウェイで山頂へ。現在の搬器は2018年大阪車両製です。
西国三十三か所第27番札所でもある圓教寺。規模の大きな建物が多いですが、まず最初に目に入るのがこの摩尼殿です。大正時代に焼失したため現在の建物は1933(昭和8)年に再建されたもので、崖を利用して見上げるような建て方になっています。位置付けとしては本堂となります。
紅葉の季節には非常に多くの参拝者があふれますが、酷暑のためか参拝者は少なくゆったりと回れます。観光で来られた外国人の姿を多く見かけました。
さて、今回のミッションはこれ。秘仏如意輪観音の御開帳。前回が2006年といいますから17年も前のことになります。む~パパ、書写山には何度か来ていますが、ご尊顔を拝見するのはこれが初めて。
いよいよ内陣へ。天井の美しい彩色に心を奪われます。今回は内陣も本尊も自由に撮影OKです。
秘仏「如意輪観音像」。開祖性空上人が彫った本尊は室町時代に焼失しましたが、これは当時の本尊と同じ木で彫られたものだそうで、鎌倉時代に作られたようです。厨子に納められているのが2006年に発見され、今回の開帳はそれ以来となります。以後公開されるかどうかは未定とのこと。ひょっとしたらもう一生見ることはないかも知れません。穏やかで端正なお顔が魅力的ですね。
実物は厨子に納められていたことからお分かりのように、小さな像です。長い間誰にも知らずに収められていたためか彩色もよく残っており、非常に保存状態が良いです。
奥秘仏御開帳の特別御朱印。もちろんいただきました~。

朝夕は少し涼しくなりました。御開帳は9月30日までで、次回はいつになるか分かりませんので、この機会にぜひご参拝を。ちなみに摩尼殿のご本尊である如意輪観音像も、本来は毎年1月18日のみ御開帳の秘仏なのですが、この期間は毎日近くで拝観することが出来ます。

【3072号】復活!ホワイトエンジェル(その2)

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リニューアル工事で「ホワイトエンジェル」となった3072号。今回は車内など細部に迫ってみましょう。(その1はこちら

塗装されていますが、見た感じあまりイメージは変わりません。実際3050形のニューアルミカーは登場時む~パパの通っていた東須磨小学校では「白い新車が走っている」と話題になったくらいで、銀色というイメージはありませんでした。今回、行先表示と標識灯はLED化されましたが、不思議なことに前照灯はそのままですね。(2023.9.2 大塩)
側面行先表示もLED化されました。基本的には6000系のものがベースとなっていると思われますが、サイズが小さいので収めるのに苦労したのでは?(2023.9.2 大塩)
交換されたユニットサッシ部分の枠は塗装されずに結構目立っています。む~パパ的にはなかなかセンスのあるやり方だなと感心。3000系リフレッシュ車とは違い黒くしなかったのも好印象。横桟は黒でも良かったかも知れませんが、これはこれでシャープな印象を与えます。(2023.9.2 大塩)
6000系に準じた見付けとなった車内。以前のFRP形材も当時は新しい感じでしたが、ユニットバスのようでもありました。どちらかと言えば工法は従来のものに戻ったわけですが、明るい感じになりましたね。(2023.9.2 大塩)
車端部。従来のリフレッシュ車と同じく窓の大きな側開戸に変更されています。非常通報装置は乗務員と通話できるタイプに変わっていました。(2023.9.2 大塩~的形)
鋼製車同様、車端部の客窓は固定化されていますが、カーテンレールが中央にあるため大きな窓という感じがしません。これは6000系も同じですが・・・。(2023.9.2 大塩)
今回リフレッシュ工事を担当したのは「JR西日本テクノス」。もちろんJR西日本グループですが、旧社名は「関西交通機械」と言い、国鉄時代から駅務機器や車両の冷房改造などを担当していた歴史ある会社です。(2023.9.2 大塩)

今後、同じ仕様で他のアルミカーに波及していくのか、注目されるところですね。

【資料】山陽5000系を模型目線で見る!①

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電車の模型も大好きなむ~パパ。先日とある鉄道模型の集まりで、お友だちに真ちゅう板から切り抜いて山陽5000系の模型を自作している製作途中の車体を見せてもらいました。いや、それがまたよく出来ていまして、恐らくそのうちコンテストで賞を取って雑誌に掲載されるのでしょうが、このブログに載せる許可を得ていないので、また今度ということで。さて、今回はこういった模型を作る方々に必要だろうと思われる目線で、写真を何点か出してみます。出し惜しみするつもりは無いのですが、少しずつということで。今回は山陽電車を代表する5000系の神戸寄り先頭車5000号をご紹介しましょう。

5000系トップナンバー5000号の顔。3000系の流れを組みながら新しい感じに仕上がっています。1986(昭和61)年に登場し今年で36年になりますが、む~パパ的にはデザインが陳腐にならず、うまく6000系に引き継がれ、工業デザインとしては非常に成功した部類ではないかと思います。
(2014.6.15 大塩駅)
こちらも同じ5000号ですが、1次車にあたる7編成(5000~5012)は開口部の少ないスカートを付けていました。これは当時3両編成を2本つないで6両編成にする構想があり、密着連結器と電気連結器を装備して任意に増結・解放できるよう準備されていたためエアホースなどをつなぐ必要がなく、このような形状になっていたそうです。3両編成を2本つなぐという発想は6000系で本格化しましたが、電気連結器を用いて簡単に増結・解放するという形にはなっていません。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)
5000号を山側から。旧タイプのスカートを付けていた頃。この編成は側面の方向幕がLED化されているほか、側面の窓柱が黒く塗装されており外観上の特徴となっています。また、この方向から見ると先頭部のスカートすぐ横に阪神線内用の列車選別装置が取り付けられていますが、もちろん登場時にはなく、直通特急の予備車として整備された際に取り付けられたものです。このような形で1両ずつ撮影したものを「形式写真」と言い、鉄道写真のひとつのジャンルです。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)
同じ5000号を浜側から。3000系と同じく乗務員室は運転席側が広いため、左右非対称の側面デザインとなっています。このため乗務員扉(側開戸)の位置が山側とは異なっていますが、これは国鉄(JR)車両によく見られるものの、私鉄車両では数少ない作例と思われます。3000系の運転台部分が当時の国鉄車両を参考に製作されたため、これを5000系も引き継いでいるものと考えられます。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)
模型ファンには必須の床下機器配置。こちらは山側。ブレーキ制御箱やコンプレッサーなど、いわゆる空気系の機器が配置されています。5000系は3000系と同じく1号車に補助機器が、2号車に制御器があり2両で1ユニットとなっているため、電動車ですが5000号が単独で走ることは出来ません。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)

こちらは浜側。SIV(静止型インバータ)やバッテリーなど電気系機器はこちらに配置されています。ちなみにSIV起動装置(SIVの右側)は交換され新しい形になっていますので、登場時の5000系を再現したい模型ファンには注意が必要です。
(2012.12.15 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)
(参考)5022号の浜側床下。5000号もSIV起動装置は登場当時この形でした。機器配置が時代を経て変化しているのが分かります。(2004.1.23 東二見車庫 撮影:山陽電気鉄道)

いかがでしたか?2号車以降も次の機会にご紹介しましょう!

【網干レトロ・モダン】久しぶりに街歩き(後編・山本家住宅)

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網干のもう一つのシンボルが興浜地区の中心にある旧山本家住宅。網干銀行頭取を務めた山本真蔵氏が建てた和洋折衷の建造物で、写真に見える望楼が存在感を示します。姫路市都市景観重要建築物第1号に指定。長らく非公開でしたが、現在は第1・第3日曜日に公開されています。(お一人300円の見学料が必要です。)
望楼部分。外からは分かりませんが、独立した塔のように建てられているのが分かります。
玄関を入ると、黒い外観とは対照的な明るい洋風の空間が広がっています。腰板は紅葉の木で統一されているとのこと。
天井にはめ込まれたステンドグラス。あちこちに凝った意匠が見られます。
洗面所の壁には京都から取り寄せたという貝合わせの貝が、数百枚埋め込まれています。一つ一つが美術工芸品!
望楼から西方向。ここに上らせてもらって、む~パパ、大興奮!
山本家のはす向かいにある魚屋さん。この2階部分は山本家の離れだったそうで、どうやったのかは分かりませんが、曳家で持って来たのでしょうか。にしても2階部分とは・・・。

いろいろと魅力的な建物です。是非ご訪問ください!