楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】赤穂鉄道跡を歩く(その2)

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その1 から続きます。千種川を渡る現在の高雄橋から見下ろすと、川の中に橋脚の台座が残っているのが分かります。赤穂鉄道の廃線後も道路橋として使用されていた鉄橋がここに架かっていました。
橋は架け替えられましたが、旧道にあたる廃線跡には旧高雄橋の親柱がひっそりと残っていました。
左が現在の高雄橋。右が廃線跡を使用した旧高雄橋へ通じる旧道です。
根木駅跡。有年駅から6.5㎞。田舎道をひたすら歩きます。
途中、がけ崩れがあって廃線跡は通行止めになったまま放置されているようです。(写真左側・有年方向を撮影)
目坂駅跡。有年駅から7.6㎞地点。廃線跡らしい雰囲気は感じられません。

田園地帯を歩いていると、遠くに日野ポンチョが。調べてみると東備西播定住自立圏圏域バス「ていじゅうろう」と言うそうです。途中で青いのも見ましたが、こちらは赤穂市内循環バス「ゆらのすけ」とのこと。

正直この辺で歩くのはかなり疲れてきまして・・・。果たして播州赤穂までたどり着けるでしょうか!?

【廃線跡】赤穂鉄道跡を歩く(その1)

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さて、今回は姫路駅からJR山陽本線に乗り継ぎ。黄色の113系に乗って西へ向かうことしばし、む~パパ、ここ有年(うね)駅に降り立ちました。メタボ解消のため赤穂鉄道跡を歩こうと思います。

1921(大正10)年と言いますから今から約100年前、有年駅と播州赤穂を結ぶ「赤穂鉄道」が開業しました。山陽本線が赤穂を通過しなかったことから特産物である塩を輸送することを目的としたもので、軌間762㎜の軽便鉄道でした。1950(昭和25)年、国鉄赤穂線開業により代替廃止されましたが、営業成績は安定していたと言います。山陽電車も網干から岡山への延長計画を持っていましたが、これも赤穂線開業により消えてしまいました。今回は70年以上前に消えた鉄道跡をたどります。

有年駅前。以前は地平の木造駅舎で駅前にはタクシーがいたと記憶しますが、現在は橋上駅舎に建て替わっておりタクシーもいませんでした。駅前に残っている古い建物は旧日通事務所でしょうか?新旧のギャップが面白いです。

有年駅前には旧西国街道に沿った形で小規模な集落が広がっており、数棟ですが古い建築物を認めることが出来ました。この街道、少し西に行くと現在の国道2号線に取り込まれていました。

右が西国街道(国道2号線)で、西方向へ向かって撮影しています。有年駅から分かれた赤穂鉄道はここで街道を横切って南側に出ます。小川の左側にある平らな部分が廃線跡です。
その後、廃線跡は集落に入りますが矢野川と千種川の合流点近くに出て来ます。
なんとなく鉄道廃線跡の感じがしてくる地点。左にゆったりとカーブしているのが廃線跡。周囲より1段高い山すそを進んでいきます。
廃線跡を進んでいくと、標柱が。「富原停車場跡」とあります。有年駅から2.3㎞。最初の駅です。当時も無人駅だったようで、乗客がいるときだけ列車が停車していたそうです。バスのようですね。このように全駅の駅跡標柱が設置されており、廃線跡をたどる人たちの利便を図っています。
千種川に沿って似たような風景が続きます。この写真は真殿駅跡(有年駅から3.8㎞)。乗客の乗り降り用の駅ではなく、機関車の給水や石炭を積み込む設備があったとか。運行上の拠点駅だったのでしょうか・・・。

しばらく歩くと森の出口が見えてきました。急に開けたところに出ます。

周世停車場跡。廃線跡はこのまま右にカーブして新幹線をくぐっていますが、もちろん赤穂鉄道運行時に新幹線はありません。有年駅から5.7㎞地点。
長らく沿っていた千種川を渡ります。現在の道路橋の左側に鉄道橋が架かっていたようで、現在も橋脚の跡が残っていました。

以下、続きます。

【東垂水】山陽電車がJRを越えていた場所はここ!

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先日の記事で「山陽電車がJRを越えていた場所」としてご紹介したJR列車線のなぞの石積み(これは前回記事で使用した写真の一部分を拡大したものです)。今回、新たな情報をいただいたので補足します。
今回、大先輩からいただいた写真。右端に見えるのが東垂水駅です。山陽電車が最上段、その下がJR列車線、手前の線路がJR電車線です。列車線のコンクリート擁壁の一区画だけがレンガ積みになっていますが、これこそが山陽電車の橋台を流用したものだそうです!ここを山陽電車が走っていた当時、列車線はありませんから、どうなっていたのか少し想像しにくいのですが・・・。
とすると、以前も書きましたがこのレンガ橋台から少し東寄りの、斜めのスロープ状になった石垣も遺構ではないかと勘繰りたくなりますね。ちょっと無理がありますが・・・。
JR(国鉄)線が複線時代にこの辺りを撮ったものはないかと探してみましたが、発見出来ませんでした。国鉄が鷹取~西明石間を複々線化したのは1965(昭和40)年で、同時に垂水駅が高架化されています。この写真は東垂水駅から東方を撮影したものですが複々線化直後のようで、すでに今と同じような風景です。撮影時期がはっきりしませんが、写っている2700形2702-2703は1964(昭和39)年製、手前のレールを用いた架線柱に1964(昭和39)年9月に塗装した旨記載があります。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
山陽電車を利用する、ほとんどの方が東垂水付近で見たことのある灯台。正確には平磯灯標というそうで、1893(明治26)年に完成。む~パパの記憶では昔は赤かったように思うのですが、そもそも最初は黒だったとのこと。貴重な近代化遺産ですね。

情報提供、ありがとうございました。

【鈴蘭台】神鉄トレインフェスティバル2022

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10月16日(日)神鉄トレインフェスティバルが開催されました。場所はいつもの鈴蘭台車両工場。今回は密を避けるため午前・午後に分けた事前応募制でした。
抽選当選者のみとは言え、開場前から多くのお客さまが・・・。ここ数年コロナ禍でこの種のイベントが軒並み中止になっていましたので、みなさま待ちわびた感じではなかったでしょうか。
門をくぐると各社の物販スペースが展開。我らが山陽電車も出店していました!
工場内にはいつものHOゲージに加え、初めてNゲージ展示も行われ、神戸電鉄を中心に阪急・阪神・そして山陽電車や神戸市営地下鉄といった神戸ゆかりの私鉄車両が大集結!

検車庫に保存される旧デ101号車。現在走行することは出来なくなっていますが、有志「デ101まもり隊」クラウドファンディングが成功して補修されました。入換車当時の外観ではありますが、今後営業車時代の姿に戻すべく引き続き活動されるとのことです。一般向けとしては初公開だったのでは?

そもそも検車庫自体初公開のような気もしますが、奥に止められた「のっぺらぼう」な車両は廃車になったデ1101号車を利用した「移動倉庫」だそうで、まず一般の人の目に触れるものではありません。
屋外展示は5000系「たのしーずん」。親子連れの記念撮影で賑わっていました。

このほか、別会場の見津車庫での電車撮影会もありましたが、む~パパ、よんどころない事情により参加できず少々残念でした。

さて、10月29日(土)は東二見車両工場で3年ぶりの「山陽鉄道フェスティバル」が開かれます。抽選制ということで、当選者はすでに発表されているようですね。当たった!という方はお楽しみに!

【東垂水】山陽電車がJRを越えていた場所を探す

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兵庫県最南端の駅として知る人ぞ知る東垂水駅。折しも阪神1000系の姫路行き直通特急が通過中。JRの列車線には貨物列車が走っています。
山陽電車・JRと並走する国道2号線(西国街道)。現在は埋め立てられていますが、む~パパ子供の頃は写真の古びた歩道の仕切り?から右側は海が広がっていました。実は「仕切り」に見えますが、かつては防波堤のてっぺんだったのです。

このあたり独特の風景。右から国道2号線、JR山陽本線の電車線、そして列車線、最上段が山陽電車の東垂水駅。狭い空間に主要交通が立体的に配置されています。

今では日常の風景ですが、このあたり、元々山陽電車は国道2号線(西国街道)上を走っている路面電車で、東垂水駅も現在地より西にあったといいます。隣の垂水駅は今より西にありましたがJR(当時は省線)より北側の現在線上にあり、実はこの写真のあたりで山陽電車はJRを乗り越えて山側に移っていたと言います。当時はJRも列車線が無く複線だったのと電化されていなかったとは言え、この高低差を駆け上っていたとは、にわかには信じがたいですね。

上写真の反対向き。左から国道2号線、JR電車線、JR列車線、山陽電車の順。以前から、山陽電車がJRを越えていた跡と言われているのが、写真中央のJR電車線に見える石垣とJR列車線の擁壁の下に少しレンガが現れている部分です。山陽電車がここを越えていたのは1932(昭和7)年までで、JR列車線はその頃ありませんでしたが、国道から山陽電車まで、この高低差を一気に越えていた風景、今のところむ~パパ、写真で見たことはありません。
山陽電車がJRを越えていたと言われている地点。不規則な石垣の形状がそれっぽいですが、昔の航空写真を見ても何か決め手に欠ける感じです。山陽電車の跡地と思われる場所はすでに民家が建っています。
現在線から。この少し西側へ登って来ていたと思われる旧線。ここから見ても国道2号線ははるか下のほうで、当時の光景を想像するのは難しいですね。現在は明石大橋+電車のビュースポットとなっています。

追加情報を募集中です。引き続き調査を継続したいと思います。