楽しいむ〜さん一家

【うめだ阪急百貨店】鉄道模型フェスティバル2023

投稿日:


毎年恒例の「鉄道模型フェスティバル」が今年も阪急百貨店うめだ本店で開催されています。鉄道模型に特化した百貨店催事は神戸でもありましたが、次第に無くなり現在はこれが唯一だと思われます。
9階催事会場は大賑わい!阪急ファンが大勢来場されていました。

ここ数年は阪急各線を特集されておられるようで、む~パパ、毎年参戦していますが「楽しいむ~さん一家」での最近のバックナンバーは以下のとおり。(各記事にリンクしています)
【うめだ阪急百貨店】鉄道模型フェスティバル2022(テーマは宝塚線)
【阪急百貨店うめだ本店】鉄道模型フェスティバル2021(テーマは神戸線)

今年のテーマは「京都線」。神戸線・宝塚線とは異なり、京阪電鉄が建設した新京阪鉄道を前身とする阪急京都線。ナンバー「1504」部分をカットした車体の一部は100形(新京阪の車両として製作)のもので、ナンバー書体が本来の阪急電車とは異なっています。
多数のファンが製作した珠玉の80分の1(いわゆるHOゲージ)模型群。京都線で活躍した車両たちを再現しています。写真はデロと言われた北大阪電鉄由来の小型車と、国鉄特急「つばめ」を追い抜いたという伝説を持つ名車100形。「デイ100」とも「P-6」とも言われ京都線を代表する名車でした。
この模型は金属製のものもありますが、車体から完全に自作となると紙で作られる方もかなりおられます。凄腕モデラーともなると、手で持ち上げないと紙とは分からないくらいの「金属感」を再現されます。恐るべし職人技ですね。
縮尺150分の1(Nゲージ)では、毎年素晴らしいジオラマが登場します。今年の新作はポスターを飾った桂川橋梁。市販品をほとんど使用せず、レーザーカッターを駆使した紙工作で構築した鉄橋の完成度は素晴らしいものです。一昨年は王子公園駅、昨年は能勢電鉄平野駅を製作された女性モデラーの手になるものです。
桂川の河川敷では少年野球でしょうか?試合が開かれています。模型ではありますが、リアルな生活感が再現されていて、しばし時を忘れそうです。今回は橋梁部分にマイクが仕掛けられており、ジオラマの前にしゃがむと走行音がスピーカーから聞こえてくる仕組みまでありました。
製作記はYouTubeで公開→ おばちゃんモデラー@アコモのジオラマ製作記 ぜひご覧ください。
こちらも実物配線と同じにすることにこだわったプラレール。神戸線、宝塚線に続き今年はもちろん京都線。もうここまで来れば、いつかは広い体育館かどこかで阪急全線を再現できそうですね(笑)。
鉄道模型各メーカーも阪急電車や新製品の紹介に余念がありません。残念ながら阪神電車や山陽電車の模型は新作がなかったこともあって、今年はありませんでした。でも、グッズコーナーには現在発売中の山陽電車グッズがいろいろと販売されていましたのでご安心を!

会期は8月7日(月)まで。ぜひ足をお運びください。


【新快速】さよなら117系電車(その2)

投稿日:


「新快速」として専用設計された国鉄117系電車。7月21日に近郊型電車としての定期運用に終止符を打ちました。今回はその足跡を少し追ってみました。(その1はこちら

1979年。今から43年前の川崎重工(現:川崎車両 ※ちなみに川崎重工になる前は川崎車「」でした。)で完成間近の117系の量産先行車である第1編成。立っているのはむ~さんパパ(当時8歳)。周囲では同じく完成間近の103系や113系(115系?)の姿が見えます。ちなみに山陽電車3050形のアルミカーがここで生まれるのはこの2年後です。
※注意:現在この場所での撮影は禁じられています。当時は自由に撮影できましたし、守衛さんが撮影してくれたりもしました。
上写真の117系部分を大きくしてみました。先頭はトイレが付いたクハ116-1です。愛称募集で「シティライナー」と命名されました。
写真が鮮明ではありませんが、117系登場前の新快速に使用されていた153系急行型電車(写真の最後尾はクハ165)。「新快速」は1970(昭和45)年に登場し、当時は113系電車を使用していましたが、新幹線が岡山まで開通した1972(昭和47)年に余剰となった153系が使用されるようになりました。この車両は専用カラーとなり「ブルーライナー」と呼ばれました。白い部分は山陽電車3619号の「ホワイトエンジェル」と同じ灰色9号と呼ばれる塗色です。わずか8年あまりの活躍でしたが「新快速」と言えばブルーライナーを思い浮かべる人はむ~パパを含め、かなり多いと思われます。(1975年 鷹取)
1936(昭和11年)、関西地区にデビューした急行電車(急電:現在の快速にあたるものですが、当時の停車駅数から考えると現在の新快速に近い列車です。急行料金は不要でした。)用のモハ52形。写真は翌1937(昭和12)年に登場した2次車。117系の塗装はこの急電をオマージュしたものです。戦後、80系電車が同じアイボリーとブラウンのツートンカラーで復活しましたが、ほどなく湘南色となり「快速」となって現在に至ります。(2012.3.3 リニア鉄道博物館)
「関西急電の復活」であった117系は、しかし京阪神のスターとしての活躍は意外に短いものでした。1992年には一部が岡山に転出し快速「サンライナー」として活路を見出すこととなります。
(1993年8月 岡山駅)
「サンライナー」に入らなかった中間車の一部は、湘南色に塗装され115系に編入されたものも登場。このモハ115-3501は元モハ117-17で山陽本線などのローカル輸送に従事、2016年に岡山で生涯を閉じました。(1993年8月 岡山駅)
関西に残った車両もクロスシートが一部撤去された300番台となったり、後に一色塗りとなり・・・、と、どんどん落ちぶれて行く様はファンとして辛いものがありました。クハ117-306(元クハ117-6)
(2017.11.5 京都駅)

山陽電車の好敵手というより阪急・京阪のロマンスカーと対抗した名車117系。ついに過去帳入りしました。

【新快速】さよなら117系電車(その1)

投稿日:


国鉄時代の1979(昭和54)年、並行する私鉄に対抗するため関西の新快速向けに専用設計された国鉄117系電車。山陽電車にとって手強いライバルとして並走した盟友であり、未だに国鉄最高の一般型電車との呼び声高い車両ですが、関西を去って長く住み慣れた岡山で今年7月21日をもって姿を消すことになりました。44年前の登場時からその姿を知るむ~パパ。最後の姿を捉えるべく出動しました。

最後に残ったのは4両編成が3本。日祝は夕方に岡山~糸崎を往復し、その後岡山~播州赤穂を往復するだけの運用でした。む~パパ、この趣味の大先輩と、とりあえず撮って乗るという目的で山陽本線をあちこち回った結果、実は何の変哲もない場所で下って来る117系を撮影しました。この日は1986年に増備された100番台。側面窓が1段下降窓となり外観の完成度は高かったのですが、む~パパ的には武骨な2段窓の0番台が好みではありました。(2023.7.16 山陽本線 里庄~笠岡)

笠岡で1本後の電車で西へ向かい、糸崎で折り返す117系に尾道駅から乗り込みました。車内外は名残を惜しむファンが大勢。む~パパ、通路を歩いて来る会社の後輩を見つけ声を掛けると、なんと彼は下って来る117系を尾道大橋から俯瞰撮影し、尾道駅まで戻って来てこの列車に飛び乗ったとのこと。いやはや、若い人はお元気なことで・・・。落ち着いたブラウンの転換クロスシートが並ぶ室内。蛍光灯もカバー付きで、阪急6300系や京阪3000系といったロマンスカーを意識したものであることは言うまでもありません。

車端部壁の木目柄は当時の国鉄車両としては非常に高級感がありました。写真の100番台は若干この茶色が明るい感じです。

この日はなかなか撮れなかった湘南色の115系も押さえることができ、かなり満足していたのですが・・・。(2023.7.16 山陽本線 里庄~笠岡)
翌日、再び岡山入り。同じ下り列車を「ニワナカ(庭瀬~中庄)」で撮影しました。今度は2段窓の0番台。今や1編成だけ残る貴重な存在です。(2023.7.17 山陽本線 庭瀬~中庄)

7月21日をもって本来の「近郊型電車」としての117系は姿を消しますが、117系自体は「WEST EXPRESS 銀河」として残ります。(2022.9.3 米子)

次回は少し懐かしい写真をお目にかけます。

【山陽バス】高架下にあった垂水駅ターミナル(その2)

投稿日:


垂水駅高架下にあったバスターミナル。好評だったので続編として内部風景をご紹介します。懐かしいと思われる方も多いことでしょう。撮影は新ターミナル移転直前の2002(平成14)年1月です。
(その1はこちら

バスのりば側からの写真。2系統清水が丘行きにお客さまが乗車中。タクシーはその外側に並んでいます。
バス着車位置ごとにのりばが設定されていました。1系統が先頭で最も西寄りにあり、2・3系統が2番目、4・5系統が3番目でした。順番にベンチに座って並ぶようになっていましたが、この写真の少し前まで仕切らた柵に沿って並ぶようになっており、ベンチはありませんでした。
2・3系統のりば部分にあった案内所。回数券自動販売機が設置されており係員もいました。
乗車扱い中の3系統ゴルフ場行き。1997年のワンマン化前は車掌が乗務しており、都市部の車掌乗務は珍しいということで話題になっていました。写真の3847号はワンマン化後に投入された前中扉車です。
4・5系統のりば。柵に立ったまま並んでいた時代が長かったのですが、ベンチが同じ配置で並んでいます。すでに「お知らせ」としてターミナルの場所が変更される旨の立看板が設置されています。
壁に埋め込まれた電照式の案内板。5系統はかなり後から追加されたため、上から貼るステッカーで対応しています。
垂水駅のバスのりばで多くの方が思い出されるのが「山陽そば」。1系統のりばの後ろにありました。お出汁の匂いに引き寄せられ、バス待ちの間にちょっと一杯、食べられた方は多いのではないでしょうか。お隣はケンタッキーがお店を出していました。夜行の高速バスも発着しており、東京(立川)の表記も見えますね。左側の白い空間はすでに廃止となっていた熊本行きの表記を消した跡です。

懐かしい高架下のバスのりば。遠い記憶のかなたになってしまいましたが、まだまだ覚えられている方も多いのではないかと思います。

【山陽バス】高架下にあった垂水駅ターミナル(その1)

投稿日:


山陽バスといえば、山陽電車垂水駅の高架下から出発していくイメージが強かったむ~パパ。先日世間話をしていて、周囲は「そんなん知らん」という人間が大多数だという事実を知らされ大きなショックを受けています。思えば今の垂水駅西口ターミナル開設が2002(平成14年)2月だといいますから、21年も前のお話。知らない人がいても不思議ではありません。いや~、そんなものなのですね~。

現在の垂水駅北側。タクシーが並ぶおなじみの風景ですが、写真の奥、すこし高架下に凹んだ部分があるのがお分かりでしょうか。現在はタクシーが2列に並んでいる場所ですが、ここに垂水駅バスターミナルがありました。
2002(平成14)年1月。現在地に移設直前の山陽バス垂水駅ターミナル。現在と比較すると山陽電車のホームにエレベーターが設置されたり東口(当時はありませんでした。)が開設されたりした関係で、元のターミナルが一部埋められているのが分かります。当時は前から3つのりばがあり、先頭から1系統、2・3系統、4・5系統となっていました。
垂水駅へ到着した4系統のバス。路面表記でも分かりますが、道路上で停車しお客さまを歩道へ降ろしていました。現在でも道路が狭く感じますが、写真のようにバスが停車すると片側通行となってしまいます。
このターミナルは1967(昭和42)年、山陽垂水駅(当時は電鉄垂水駅)の高架化で「たるせん」と共に誕生しました。写真は開業当時のもの。停車するのはいすゞBX型ボンネットバス。霞ヶ丘へ回るのは歴史ある伝統の路線です。(写真提供:山陽電気鉄道OB)
高架下のターミナルには案内所のほか、「山陽そば」も店を構えていました。
センターラインを越えのりばへ向かう1系統のバス。1997年のワンマン化までは霞ヶ丘へ回る1系統は車体幅の広い「大型ショート」と呼ばれる車両を使用していましたが、ワンマン化以降は中型車を使用しています。
バスターミナルを東側から。2または3系統のバスと4系統のバスが停車しています。山陽タクシーは今もおなじみのツートンカラー。白いタクシーは今は無き垂水タクシーの車両です。懐かしいキュービックバスが多数活躍していますね。タクシーも現在と外観は同じクラウン・コンフォートですが、写真の頃は3Yエンジン搭載のYXS10型で、現在のTSS10型より非力でした。
現在の山陽バスターミナル跡。バスやタクシーに一般車が入り乱れるカオスの様相を呈していた垂水駅ですが、現在は少し寂しい空間になっています。

思えばバス・タクシーとも当時の車両は全て入れ替わり、時代が変わったことを実感します。