楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その1・網干港~JR網干)

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播電鉄道はかつて網干港から山陽本線網干駅、龍野を経て新宮町へ向かっていた私鉄(車両は路面電車のようなスタイルですが、ほぼ専用軌道だったようです。)で、1909(明治42)年に開業しましたが、1934(昭和9)年に廃線となりました。今回む~さん一家ではその痕跡を実際にたどってみます。
※播電鉄道については多くのサイトで廃線跡が紹介されています。このブログはこれらの記事を参考に現地を訪れ取材したものです。

今回のウォーキング起点は山陽網干駅。駅を出たら左へ。一旦港のほうに向かいます。
東雲橋から運河のような網干川を望むと、かつて港町として賑わった雰囲気がまだ残っているようです。播電鉄道の前身「龍野電気鉄道」起点「網干港」駅はこの橋のたもとにありました。写真左側の川べりには貨物駅の設備があったようです。
東雲橋から北方向へ向かう道が線路跡。ゆるやかに右カーブし、現在の国道250号と交差します。
東雲橋北交差点付近にある「ことぶき食堂」。建て替えられていたとしても、当時から駅前食堂だったとすれば興味深いですね。
国道250号線を横断する「山電網干駅前」交差点。播電「余子浜」停留所は交差点南側にあったようです。当時まだ山陽電車が存在していなかったため、接続を考慮する位置ではありませんでした。
次の「津ノ宮」は魚吹八幡神社の玄関口である現在の宮内交差点付近にあったそうです。線路はここで道路を横断して東側に移っていたそうですが、何となくこの先でちょっとそれらしき雰囲気がするものの、実際はまったく痕跡が残っていません。
この付近にある水路を跨ぐ古い橋。相当古い時代のものではありますが、明治時代かと言われるとそこまで古くはないかも、と思ったりします。
その次の停留所「坂出」。付近には鉄道の痕跡を示すものは何もありませんが、消防車庫の上に火の見やぐらが建つ、いかにも鉄道模型ジオラマに出て来そうな建築物がありました。
「和久」停留所から現在の道路を離れ、線路は左に逸れていたようですが、今となってはさっぱり分かりません。廃止から90年近く経つ以上、無理もないですね。
その後、播電鉄道は築堤を上がって山陽本線を乗り越えます。一度廃止になって痕跡を消した鉄道ですが、再び廃線跡を利用して山陽本線を越える道路が建設中。歴史は繰り返すといったところでしょうか。
JR網干駅。播電鉄道はここを越えて龍野方面へまっすぐ向かいますが、途中の「糸井」から網干駅の北側に乗り入れる支線がありました。しかし、播電鉄道、この時代の鉄道にしては珍しく標準軌(1435㎜)を採用していたため狭軌(1067㎜)の国鉄とは乗入れ出来ず、貨物は積み替えが必要でした。これがのちにこの鉄道の命運を左右することになります。

以下、続きます。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その4)

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その3から続きます。ようやく終点有馬駅へ向かいます。

途中、線路の跡は病院にさえぎられますが、その後は比較的分かりやすい道のりとなります。徐々に高度も上がります。写真手前が有馬方、病院は三田方です。
廃線跡は住宅地を抜け、さらにまっすぐ進みますが阪神高速北神戸線と交差する付近で少し途切れます。
この先の廃線跡は山の中ということもあり、しっかり残っていたのですが、その路盤は2013年に開通した有馬山口線バイパスに利用され、道路になりました。写真で阪急バスが向かう先にある橋は有馬線の十八丁川橋梁が架かっていたところで、石積みの橋脚が残っていたのですが現在は撤去されています。一般道ですが自動車専用。歩くのは非常に危険です。む~パパも残念ながら途中で引き返しました。
ここには長らく残っていた橋脚を取り壊すにあたり、これを記録する立て看板があります。橋脚に使われていた石は、モニュメントとしてこの付近の地面に敷きつめられていました。
橋脚は無くなりましたが、有馬方の橋台は今も残されています。
この先、バイパスを歩けないためよく分からないところもあるのですが、廃線跡はやや高度を下げ(実際は下がっていないのかも知れませんが)、終点有馬駅跡に至ります。戦後まで駅そのものは残っていたようで、神戸市ホームページによると
神戸市:昭和36年-No.08 土砂に埋もれた旧国鉄有馬駅(北区有馬町) (kobe.lg.jp)
と、1961(昭和36)年にまだ駅舎が残っていたことが分かります。以前は病院があったように思いますが、現状空き地です。
有馬川に架かる乙倉橋。国鉄有馬駅正面に架かる橋です。今でも駅前広場がそこに広がっているような雰囲気ですね。この角度から撮った国鉄有馬駅の写真はネットでも見ることができます。右側の木造建築は駅前旅館のような感じもしますが、当時の写真では平屋の建物が写っており、いつから建っているのかはっきりしません。
この乙倉橋には、有馬駅や当時の列車の写真が欄干に掛かっており、鉄道の記憶を今に伝えています。これによると乙倉橋は当初木橋で、1928(昭和3)年に鉄筋コンクリートの橋に架け替えられたそうです。
乙倉橋。1995(平成7)年の阪神大震災で大きな被害を受け改修されたそうですが、石積みの橋脚など、多くは当時の姿を留めているものと思われます。

不要不急と判断され、戦時中に休止となった国鉄有馬線。現在は沿線に新しい住宅地もあり、鉄道として残していればそれなりに発展したのかも知れませんが、どうなっていたのかは誰にも分かりません。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その3)

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→その2から
さてさて、む~パパ。前回で国鉄有馬線の築堤を見つけたのに、その後どこを通っていたのか見失ってしまいました。と言うのはちょうど廃線跡の真上に中国道西宮北ICが出来てしまったからなのです。

1960年代の現西宮北IC付近。廃線跡がはっきり残っているのが分かります。(写真:国土地理院)
こんな感じで山を切り通して横断し、現在の西宮市山口町に至っていました。(写真:国土地理院)
現在の同じ場所。西宮北ICが中央部に出来たため、廃線跡が消えてしまいました。(出典:国土地理院)
丹念に探せば何かあるのかも知れませんが、本来の目的であるウォーキングを逸脱してしまいそうです。(写真:国土地理院)
2回目は神戸電鉄田尾寺駅で下車し、中国道で途切れた(上写真の下部分)ところから歩き始めることにしました。
ちょっと季節感がまるで違う写真で歩いた日がバレてしまうのですが「有馬口」駅があった付近。国鉄有馬線は公智神社の前を通過していました。
神様の前を素通りするわけにはいきません。もちろん御朱印をいただきました。

公智神社の前にかかる「駅前橋」。廃線跡ファンには有名な橋で、かつて鉄道があった歴史を今に伝えています。

む~パパ、なんとなく駅前橋のあたりに有馬口駅があったに違いないと思っていたのですが、その後新たな情報提供があり、公智神社より北側の土地に駅や鉄道施設があったとのこと。(出典:Google)
なるほど。本線から三田寄りに向けて側線があったそうで、確かにそれらしい形の土地が残っています。(出典:Google)
この先は橋梁部を除いて廃線跡は道路に転用され、有馬温泉へ向け続いていきます。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その2)

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その1はこちら

さて、その後長尾川北岸を走った国鉄有馬線は、長尾川を渡って現在の神鉄道場駅の真横にやって来ます。

手前が有馬方、奥が三田方。長尾川を渡る橋梁の痕跡はありませんが、廃線跡が比較的分かりやすい形で残っています。
神鉄道場駅付近の航空写真。(出典:国土地理院)
神鉄道場駅は三田線開業の1928(昭和3)年、道場川原駅として開業したもので国鉄有馬線に近接していましたが、国鉄側に駅はなく八多川を渡った先にあった新道場駅との連絡はしていなかったものと思われます。(出典:国土地理院)

神鉄道場駅舎から撮影した有馬線跡。堀割に線路が通っていた痕跡がはっきりと分かります。

有馬線開通当時は神戸電鉄が存在しておらず周囲には何もなかったので、駅(新道場駅)は八多川を渡って道場の町外れに設けられていました。有馬方には現在も橋台が残されています。
小さな溝を跨ぐ橋台。この辺りは大きな開発が進まなかったためか、現在でも痕跡が見られます。
この先、写真の部分で廃線跡は一旦途切れ田畑に転用されていますが、しばらくすると復活します。
ここからは築堤が現れ徐々に高度を上げていきます。「旧国鉄用地」と書かれた看板がありました。1943(昭和18)年に休止されたまま放棄され事実上廃止となった後、土地は民間などに払い下げられたようです。
はっきりと鉄道らしさの残る築堤。写真中央には朽ちつつも跨道橋が残されているのが分かります。
少し近付いてみました。どうもこの先は立入禁止のようですので、ここまで。石積みが見えます。

この先は分かりにくくなります。もう少し続けます。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その1)

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関西の奥座敷・有馬温泉への鉄道路線は、現在神戸市内からアプローチする神戸電鉄有馬線(当時は神戸有馬電気鉄道)が唯一の足です。この路線は1928(昭和3)年に開業した関西圏としては比較的新しい路線。実は最初に有馬温泉へ到達した鉄道は1915(大正4)年に開業した有馬鉄道(開業当初より国が借り上げて運行)です。1919(大正8)年に国有化され有馬線(当時は「有馬軽便線」)となったこの路線は、三田駅から分岐する12㎞あまりの支線でした。戦時中の1943(昭和18)年に休止となりそのまま現在に至りますが、80年が経つ今日も鉄道の痕跡を多く残す「ハイキングが楽しい」路線として有名です。む~パパ、今回は思ったよりボリュームが大きかったので2回に分けて歩いてみました。
※有馬線跡はかなり有名で、数多くのサイトで紹介されています。今回「楽しいむ~さん一家」ではこれらのサイトを参考にした上で実際に現地を訪問し、この記事を執筆しています。

1回目のウォーキング起点は神戸電鉄三田駅。JR福知山線三田駅に接続しています。現在は新開地駅からの直通運転となっていますが、神鉄の有馬線は湊川~有馬温泉であり、有馬口~三田間は三田線となります。
現在の有馬線跡付近。(出典:国土地理院)
有馬線は三田駅から大阪方面へしばらく走ったあと、上図の位置で分岐していました。分岐までの線路跡は福知山線の複線化用地として利用されています。現在も線路跡がはっきり残っていることが分かります。(出典:国土地理院)
上写真で有馬線跡が途切れる部分がありますが、1960年代の航空写真を見るとつながっていることが分かります。(出典:国土地理院)
福知山線(写真の左側)と分かれていく部分。現在も線路跡ははっきり残っていまして、現代的な使い道と言えるソーラーパネルに覆われています。
道路をまたいで畑を突っ切る有馬線跡。ここも鉄道の痕跡がはっきりと残っています。有馬線はこのまま武庫川を越えていました。
農業用水を超える箇所。簡単な構築物ではありますが、はっきりとした鉄道遺跡です。
武庫川を渡る橋梁はありませんが、渡った先の線路跡は道路に転用されていました。
その後、上写真のとおり農地に転用され線路跡は一旦途切れますが、突然田んぼの真ん中に不自然な区画が現れます。このカーブに沿って有馬線が敷かれていたと思われます。三田駅の次となる塩田駅はこのあたりにあったようです。
この後の痕跡としては、農家の庭先にある台形の土地があり、十数メートルだけ残っていますが、明らかに土盛の路盤と考えられます。

以下、続きます。

【廃線跡】能勢電鉄川西国鉄前~川西能勢口間を歩く

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川西能勢口を起点に阪急電車の支線のような感じで延びている能勢電鉄。実はトンネルありニュータウンあり、沿線風景の変化に富んだ魅力的な路線なのですが、それはともかく。現在起点となっている川西能勢口から距離にして744m、すぐ近くにあるJR(当時は国鉄)川西池田駅とを結ぶ路線がかつてありました。路線としては妙見線なのですが、む~パパがその存在を知った頃は、川西国鉄前~川西能勢口間に朝夕だけ小さな電車が行き来する完全な盲腸線でした。今回は1981年12月19日に廃止となった、この廃線跡を歩いてみました。

JR福知山線(宝塚線)川西池田駅。川西・池田が合わさった駅名ですが、川西は兵庫県、池田は大阪府ですので2府県にまたがっています。これは全国的に珍しいのではないでしょうか。川西か池田かどっちやねん!と言いたところですが、駅自体は兵庫県川西市に所在します。
能勢電鉄川西国鉄前駅付近。正面に見える薄くJRマークの入ったクリーム色の建物が川西池田駅の橋上駅舎です。能勢電鉄の駅は川西池田駅から少し宝塚寄りに歩いた場所にありました。写真の手前に延びる道が廃線跡です。(国鉄の橋上駅舎化前は200mくらい宝塚寄りにあったとのことですので、最初は真ん前だったと考えられます。)
川西国鉄前駅。ホームだけがある簡素な構造です。背景の四角い建物が2枚目の写真にもある川西池田駅の駅舎。電車は51形。クリームと青のツートンカラーは現在も5100系リバイバルカラーとして走っています。(写真:山陽電車OB提供)
ゆるやかにSカーブを描く廃線跡。正面奥の壁のように見えるのが阪急宝塚線の線路です。
阪急電車に向け右へカーブする廃線跡。この後左へカーブして阪急電車をくぐります。
能勢電鉄が阪急電車をくぐっていた場所。阪急電車は高架化され能勢電鉄廃線跡は道路になり、風景は一変しました。
上写真と同じ場所。阪急電車をくぐる能勢電鉄の電車。変化が激しすぎて同じ場所とは思えません。
(写真:山陽電車OB提供)
北側に抜けました。今度は右にカーブします。
ここに電車が走っていたことを示すモニュメント。
川西能勢口駅が地上にあった頃、ここへ川西国鉄前からレールがつながっていました。高架化で大手私鉄らしい近代的な駅へ変貌。今となってはここに1両の小さな電車が発着していたとは思えません。

川西能勢口駅から川西池田駅までは、歩いても数分の距離。川西能勢口駅の高架化を考えれば残すのは難しかった区間と言えます。

Google Mapより

【廃線跡】旧兵電明石駅付近で古レール現る!

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1月末、yahooニュースに以下の記事が載りました。(リンク先へ飛びます)
フェリーに乗れずぶらぶらしていたら…世紀の大発見!? 更地に古いレールが→戦前に栄えた駅の痕跡か
どうやら旧兵庫電気軌道(現在は山陽電車の明石以東)明石駅の遺構が見つかったというもの。昨年このあたりはこのブログでもご紹介していますので、調べてみることにしました。

元記事(リンク先へ飛びます)【廃線跡】兵庫電気軌道時代の明石駅を探す

現在の山陽電車明石駅。旧神戸姫路電気鉄道(神姫電鉄)明石駅の位置にあります(高架化の際JR線にくっつけたので、正確には元より北側ではあります。)。旧兵庫電気軌道は現在の国道2号上にあった「明石駅前」を経由し、播淡汽船明石港の前に「明石駅」を設け、淡路連絡の便を図っていました。詳しくは以前の記事(上記リンク先)をご覧ください。
前回とは反対側から撮った写真を。本来はこのカーブが線路のカーブを残していると思われます。この先は明石城の堀になっており、堀もここでクランク状になっていました。堀を埋め立てて線路を敷いたとの話です。現在の国道2号線はまだありませんでした。
(再掲です)江戸時代初期の地図に線路を落とし込んだものですが、現在も基本的に町割りは変わっていません。
このあたりにはわずかではありますが古い商家建築が残っています。戦前から建っているものと思います。
道路部分が旧線路で、浜国道手前で終わっていました。その先に播淡汽船(現:ジェノバライン)の乗り場があります。今回線路が出てきたのは、写真中央左の工事現場です。
この辺まで来ると見えるのですが・・・。
確かに古レールが顔を出しています。見えているのはこの一つだけで、他にあるかどうかは分かりません。レールに詳しくはないのですが、現在の鉄道に使われているものより細く貧弱な印象です。むしろ当時路面電車として開業した兵庫電気軌道にふさわしいかも知れません。

ここ旧明石駅が開業したのが1917(大正6)年。廃止が1931(昭和6)年ですのでわずか14年しか存在しなかったわけです。兵庫電気軌道は路面電車区間が多かったので溝付きレールが使われていて、この形のレールではなかったと思いますが、明石駅周辺の「堀を埋めた」上に敷かれていたレールは専用軌道だったかも知れないので、路面電車用ではなく写真のような普通のレールになっていたのかも知れません。構内の写真でも出てくれば良いのですが・・・。

む~パパとしては、これが兵庫電気軌道のレールであるというのは、少~し無理があるのではないかという印象を持っております。

【廃線跡】国鉄鷹取駅南専用線を歩く

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む~パパ、かつて東須磨に住んでいたので鷹取駅から南へ伸びる引込線の存在は知っていました。特に浜側の道路は踏切が2か所あり、一度も貨車の通過シーンを見たことはないのですが子供心にワクワクしたものです。廃止になって40年、廃線跡はどうなっているのでしょうか。

1974~1978年の航空写真より。専用線は鷹取駅の少し西から分岐し、国道2号線をまたいだところで二股に分かれ、それぞれ石油貯蔵施設に伸びていました。写真で示した山陽電車の線路は東須磨~月見山間です。名門国鉄鷹取工場も今はありません。(出典:国土地理院)
前掲の航空写真で山陽本線から分岐していた部分。当時どうなっていたか記憶が定かではないのですが、現在でもスッパリ切られているのが分かります。ここから築堤となって地平に降りてきたものでしょう。写真右側が鷹取駅方向。
分岐した線路は右へカーブし南へ向かいます。道路との交差部。「C」の看板がある部分が廃線跡。かつての踏切が道路より少し高くなっているのが分かります。
この元踏切から南側の廃線跡を見ると、カーブに沿って細長いマンションが建っています。マンションも微妙にカーブしているのが面白いですね。いかにも「廃線跡」です。
元の踏切部分が盛り上がった道路。廃線時に平坦にすれば良さそうなものですが・・・。ちょっとした地形の変化が鉄道の痕跡を今に伝えています。
この踏切跡の近くに「関西ノート」がありました。神戸っ子なら小学生の時にみんな使ったあの「神戸ノート」は、ここで作られているんですね!ちなみにむ~パパのときはB5版でしたが、む~さんやた~さんはA4版を使っていました。教科別の色や写真に使われた神戸の風景、未だに内輪で盛り上がる話の種になっています。
国道2号線との交差部。写真は南側から撮影。横断歩道部分が廃線跡。線路敷地の幅で建物が建っています。上を走るのは阪神高速道路。
航空写真で二股に分かれているところ。左側すなわち東側の廃線跡はそのまま歩道となって続きますが、西側は建物が建っていて分かりにくくなっています。
ここに来て、まさしく「鉄道用地」らしい細長い空き地が残っていました。この先は不自然に広い歩道となっています。
かつて線路は道路を渡って貯蔵施設へ延びていました。タンク貨車が行列していたはずです。
西側のもう1本はパチンコ店などが建ち線路跡に沿って歩くことが難しいのですが、踏切の跡が盛り上がった道路になって残っていたりして、探索すると面白いものです。

いかがでしたか?廃線跡探索はこれからも続きます。

【廃線跡】赤穂鉄道跡を歩く(その3)

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その2から続きます。目坂駅跡から道なりに進むと、あっさり坂越駅跡に着きます。有年駅から9.4㎞地点。現在のJR坂越駅とは位置が異なります。かつては直営のバスがここから坂越港へ向かっていたそうです。
ようやくJR赤穂線の線路が近寄って来ました。何とか帰れそうです。
赤穂鉄道の橋台と言われている遺構。線路はここで水路を越えていたそうです。上に継ぎ足してある部分はともかく、下半分は鉄道遺構だと思われます。
真ん中の道が廃線跡のごとき写真ですが、線路は右側のこんもりした部分を通っていたそうです。
砂子駅跡。有年駅から10.2㎞。平坦な道ではありますが10㎞を超えてくると足にこたえます。日頃の運動不足が・・・。
これ以降は赤穂市街地に入ります。線路跡は道路に取り込まれ、痕跡をたどることは難しくなります。終点の播州赤穂も現在のJR播州赤穂駅とは全く違う場所にあります。有年駅から12.7㎞。ようやく完歩しました。かなり日も傾いてきました。
現在の赤穂鉄道播州赤穂駅跡付近には、神姫バス(ウイング神姫)の営業所と・・・、
山陽百貨店赤穂ショップがありました。唐突に、やや強引に山陽電鉄グループのお店をご紹介したところで、今回のウォーキングもそろそろお終い。
む~パパ的には終点に着いた気分だったので、そこからJR播州赤穂駅までの遠かったこと!いつの間にやら建て替わっている駅舎に驚きましたが、2000年に建ったとのことで、もう20年以上前・・・。白状しますと大抵クルマで来ていましたので、駅に来たのは本当に久しぶりだったのです。いかんいかん、もっと電車に乗らないと。家に帰って見てみると、この日の歩数は28,923歩。よく歩きました。

【廃線跡】赤穂鉄道跡を歩く(その2)

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その1 から続きます。千種川を渡る現在の高雄橋から見下ろすと、川の中に橋脚の台座が残っているのが分かります。赤穂鉄道の廃線後も道路橋として使用されていた鉄橋がここに架かっていました。
橋は架け替えられましたが、旧道にあたる廃線跡には旧高雄橋の親柱がひっそりと残っていました。
左が現在の高雄橋。右が廃線跡を使用した旧高雄橋へ通じる旧道です。
根木駅跡。有年駅から6.5㎞。田舎道をひたすら歩きます。
途中、がけ崩れがあって廃線跡は通行止めになったまま放置されているようです。(写真左側・有年方向を撮影)
目坂駅跡。有年駅から7.6㎞地点。廃線跡らしい雰囲気は感じられません。

田園地帯を歩いていると、遠くに日野ポンチョが。調べてみると東備西播定住自立圏圏域バス「ていじゅうろう」と言うそうです。途中で青いのも見ましたが、こちらは赤穂市内循環バス「ゆらのすけ」とのこと。

正直この辺で歩くのはかなり疲れてきまして・・・。果たして播州赤穂までたどり着けるでしょうか!?