楽しいむ〜さん一家

【丹波篠山】北大阪急行の保存車両に会いに行く

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北大阪急行電鉄の新線部分を乗りに行った縁で、ふと同社の保存車両を見に行きたくなり、兵庫県は丹波篠山市に行って来ました。

篠山から能勢へ向かう国道173号を少し行くと「小倉商事グループ」の保養所があります。小倉商事は引退した鉄道車両を引き取り解体・リサイクルする会社で、山陽電車の車両が最後の時を迎えるのもこの会社となります。かつては各社の車庫等で解体されていた廃車車両ですが、環境意識の高まりもあり、こうした専門の会社に引き取られるのが一般的になっています。
正面に鎮座しているのは北大阪急行8000形8005号。1986(昭和61)年に初登場、初めて「ポールスター」の愛称が付いた車両です。阪急系のためか車内は阪急電車と同じ木目の壁とオリーブグリーンのシートを備えていました。隣の車両とを仕切る妻引戸が自動化されたのは阪急電車より早かったはずで、む~パパ、初めて乗ったとき取っ手に手をかけたら2枚の扉が同時に開いたのに驚いた記憶があります。9000形の登場で引退は進んでいますが、今も現役の車両があります。1987年度鉄道友の会「ローレル賞」受賞車。(2024.3.24 敷地外より撮影)
こちらには北大阪急行2000形2002号。1969(昭和44)年、同社開業に当たって製造された車両で、当時の大阪市営地下鉄(現大阪メトロ)30系と同じ仕様ながら、側窓回りなど各部が丸みを帯びたデザインとなっています。マルーンの帯が阪急系であることを示しています。(2024.3.24 敷地外より撮影)
2002号の連結面側。車体はステンレス製です。当時の大阪市30系と言えばベンチのような硬い簡素なシートが思い出されますが、北急は阪急と同じモケットを使用していたため地下鉄車両とは座り心地が大きく違っていました。(2024.3.24 敷地外より撮影)
このほか、敷地内には京阪5000系の車体をカットした箱のような物体がいくつも置かれており、聞くところによるとロッジとして使われている、とのことです。(2024.3.24 敷地外より撮影)
む~パパ、撮っていました!1982年、現役時代の北大阪急行2000形。御堂筋線梅田駅ですが、ホームが拡張されたため写真の線路の場所はホームになっています。当時の終点「あびこ」行きも懐かしいですね。

【3/23開業】北大阪急行新線部分に乗る!(後編)

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それでは箕面萱野駅を出発し、隣の新駅、箕面船場阪大前駅に行ってみましょう。

箕面船場阪大前駅のホーム。こちらは地下駅。壁の意匠が凝っていますね。近代的でシャープな印象です。
改札を出て駅構内と思しき場所を出ると、そこは一転、ちょっと駅とは思えない温かい色調の空間に出ます。
出たとたんにカフェがあったり・・・。吹き抜けの空間は劇場や美術館によくあるロビーのような雰囲気。鉄道を示すピクトグラムでさえ、何かデザインの一部のような・・・。
そして、ここから5階分ぶち抜きの長大エスカレーターが地上へと誘います。
地上に出ると正面に見えるのが箕面市立文化芸術劇場。写真左に少し写っているのが大阪大学箕面キャンパス。不思議な駅構内は文化・芸術・教育研究施設のエントランスとしての役割を担っているのですね。
駅の地上部分と言っても良いのでしょうか。大屋根がいくつも重なる屋外アートの様相を示しています。周辺はマンションがいくつも建設中。言わば都心の新駅完成により生まれる巨大な需要を取り込むために、新しい街が生まれつつあります。
こちらも列はあったのですが、あちこち見て回っているうちに短くなっていたので、普通乗車券を購入。とりあえず開業日ということで画像で記録・・・。
駅構内の自販機ではタオルや鉄道コレクションといった、北大阪急行のオリジナル鉄道グッズも販売されていました。

【3/23開業】北大阪急行新線部分に乗る!(前編)

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先日3月23日、北大阪急行電鉄千里中央駅から箕面萱野駅までの新線が開業、む~さん&む~パパ、早速初日に乗車してきましたのでレポートします。関西の鉄道としては久しぶりの新しい路線であり、明るい話題でもありますので、取り上げてみました。

北大阪急行の新しいターミナル駅となった箕面萱野駅。千里中央駅から箕面船場阪大前駅までは地下駅なのですが、線路はそこから地上へと姿を現し高架駅となって到着します。あいにくの空模様でしたが、真新しい駅と見慣れぬ周囲の風景にワクワクしますね。電車は来年に迫った関西万博ラッピングをまとった大阪メトロの30000系。
箕面萱野駅のホーム。天井部分などに木材が使用されており、無機質な感じを和らげる演出がなされています。こうしたデザインは今の流行りでもありますね。
大阪メトロの「エンジョイエコカード」で乗り越してみました。ちなみにエンジョイエコカードは、土日祝の利用であれば620円(平日は820円)で大阪メトロ・シティバスが1日乗り放題。観光や買い物にとってもお得です。山陽沿線からも梅田・難波の2wayアクセスで本当に便利になったものです。
さて、駅の外に出て開業当日の切符を買いたいと思ったのですが、同じことを考える方は多いようで、ご覧のとおりの長蛇の列。購入はあきらめ駅周囲の状況を見てみましょう。
駅前にはQ’sモールが同日オープン。一部の店舗は出入口を制限するほどのお客さまが詰めかけ、大賑わい。む~パパ、実は開業初日のこういう華やいだ雰囲気が好きなので、つい来てしまったというのが本当のところです。
アドバルーンの実物を見たのも久しぶりかも・・・。今回の開業により箕面市としても2本目の鉄道路線が通じたことになります。
そして今回、北大阪急行線と乗り入れの御堂筋線で長年親しまれた「千里中央行き」が消滅しました。写真は懐かしい10系。(2013.4.29 緑地公園)

では次回、隣の箕面船場阪大前駅に行ってみましょう。

【みき歴史資料館】播磨の鉄道写真展開催中

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三木市の市立みき歴史資料館で「播磨の鉄道風景」と題した企画展が開催されています。
みき歴史資料館 企画展「播磨の鉄道風景~過ぎ去った時間を再現する~」 – 三木市ホームページ (miki.lg.jp)
「三木市在住の鉄道写真家、神澤誠一氏が高度経済成長期(昭和30年~同40年代)に撮影された播磨地域の鉄道写真をとおし、当時の鉄道風景や鉄道にまつわる体験談などを紹介します。(三木市ホームページより)」とあるように、まだ蒸気機関車が多数活躍していた播磨地方の鉄道写真が多く展示されています。あまり雑誌等で見たことのない貴重な写真のように思われます。

みき歴史資料館正面。三木城二の丸に建っています。外に出るのも危険な暑さの中、冷房の効いた施設はありがたいです。
二の丸遺跡の案内板。この地はのちに三木町立実科高等女学校(のち三木高等女学校を経て現在は三木高等学校。少し離れたところに移転しています。)が建っており、最近まで古い木造校舎が一部残っていましたが、現在は恐らく学校施設だったと思われる1棟(堀光美術館・別館)を残して取り壊されています。
国鉄三木駅の駅名標が出迎えてくれます。この写真展、規模は小さいものですが、高砂線の加古川橋梁では山陽電車の線路と並走する蒸気機関車の姿が捉えられており、なかなか見ごたえがありました。(著作権の問題と、実際に足を運んでいただくという観点から、写真自体は紹介しません。)
夏休みということもあって、鉄道模型の公開運転会が行われていました。ここは地元ということもあり、神戸電鉄や神戸市営地下鉄の車両と共に、山陽電車や阪神・阪急の車両も数多く展示されていました。
【おことわり】鉄道模型の展示・公開運転会は8/20で終了しています。

写真展の会期は9月24日㈰まで。入場無料。神戸電鉄粟生線三木上の丸駅から徒歩5分。近くには金物資料館や堀光美術館があります。

【山陽バス】発見!最後の前後扉車【いすゞKC-LV280L】

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ある日のむ~パパ、とある山中をドライブしていたところ、突然前方に・・・。

あれ?これは山陽バスではないでしょうか。もちろん山陽バスのカラーがいすゞキュービックバスのカタログカラーだということはよく知られた事実ですが、この車両の時代はすでにメーカー標準色自体が変わっていますので、わざわざ山陽バスと同じ色に塗る必然性がありません。つまり、これは元山陽バスだと考えるのが自然でしょう。正面の山陽社章が入る部分には純正の「ISUZU」プレートが付いています。自家用バスとして登録されていましたので、詳しい撮影場所は伏せておきます。
(撮影:2023.8.11)
後ろから。自家用のためナンバーは伏せておきます。屋根の通風器(ラインデリア)配置やマーカーランプはいかにも山陽バスらしい仕様。型式はいすゞKC-LV280Lです。1995年から2000年にかけて導入されましたが、写真のような前後扉車は1999年が最後となります。実は毎年仕様が変化したので、この写真が登場時の仕様を保っているのであれば、ある程度元の年式が推定可能です。
(撮影:2023.8.11)

そのポイントは後面に付く「乗降中」ランプ。これはオージ製ですね。

こちら、1999年式の1989号。「乗降中」表示灯は1998年式のワンステップバス(1885・1886・2813・2814・3844・3845)以降に投入された車両へ設置されました。当初はこの写真のような縦長で厚みのあるゴールドキング製?が採用されていました。(1999年 学園都市駅)

しかしこの表示灯、内部にものすごくホコリがたまるので、のち密閉式のオージ製に変更されます。ややこしい話なのですが1998年式観光マスクの1887・1888号に試験採用されたあと、1999年式のうち1993~1995号、山陽バス最後の前後扉車で本採用されました。今回発見した自家用バスはこの3両のうちいずれかと思われます。写真は1994号納車直後の貴重な姿。(1999年12月 垂水営業所)
山陽バス最後の前後扉車1994号納車直後の姿。当時は方向幕を装備していました。前後に方向幕が設置されているのは、当時名谷線に前乗り先払い路線があったためで、どちらの路線にも使用できるようになっていました。「入口」「出口」の表示もプレート式で、裏返すと入口と出口が入れ替わります。また、この3両から初めて側面に山陽電車のシンボルマーク(旧デザイン)が付きました。
(1999年12月 垂水営業所)

この後、方向幕はLED表示に変更されます。シンボルマーク変更後、1995号の姿。すでに入口は後ろに統一されていますが、「入口」「出口」表示はプレート式のままですね。いつの間にか広告枠が取り外されています。(2007.12.29 垂水営業所)

1993号。山陽バス発足後の姿。「入口」「出口」プレートが外され、ステッカーに変わっています。関西人には見慣れた前後扉のバス。山陽バスに投入されたのはこの3両が最後となりました。
(2011.6.19 学園都市駅)

今回発見した元山陽バスは、最後の前後扉車3両のうちの1両と思われます。山陽バスの車両は引退後第2の職場を求めて各地へ散っていますので、旅先で機会があれば会いに行きたいと思います。

【新快速】さよなら117系電車(その2)

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「新快速」として専用設計された国鉄117系電車。7月21日に近郊型電車としての定期運用に終止符を打ちました。今回はその足跡を少し追ってみました。(その1はこちら

1979年。今から43年前の川崎重工(現:川崎車両 ※ちなみに川崎重工になる前は川崎車「」でした。)で完成間近の117系の量産先行車である第1編成。立っているのはむ~さんパパ(当時8歳)。周囲では同じく完成間近の103系や113系(115系?)の姿が見えます。ちなみに山陽電車3050形のアルミカーがここで生まれるのはこの2年後です。
※注意:現在この場所での撮影は禁じられています。当時は自由に撮影できましたし、守衛さんが撮影してくれたりもしました。
上写真の117系部分を大きくしてみました。先頭はトイレが付いたクハ116-1です。愛称募集で「シティライナー」と命名されました。
写真が鮮明ではありませんが、117系登場前の新快速に使用されていた153系急行型電車(写真の最後尾はクハ165)。「新快速」は1970(昭和45)年に登場し、当時は113系電車を使用していましたが、新幹線が岡山まで開通した1972(昭和47)年に余剰となった153系が使用されるようになりました。この車両は専用カラーとなり「ブルーライナー」と呼ばれました。白い部分は山陽電車3619号の「ホワイトエンジェル」と同じ灰色9号と呼ばれる塗色です。わずか8年あまりの活躍でしたが「新快速」と言えばブルーライナーを思い浮かべる人はむ~パパを含め、かなり多いと思われます。(1975年 鷹取)
1936(昭和11年)、関西地区にデビューした急行電車(急電:現在の快速にあたるものですが、当時の停車駅数から考えると現在の新快速に近い列車です。急行料金は不要でした。)用のモハ52形。写真は翌1937(昭和12)年に登場した2次車。117系の塗装はこの急電をオマージュしたものです。戦後、80系電車が同じアイボリーとブラウンのツートンカラーで復活しましたが、ほどなく湘南色となり「快速」となって現在に至ります。(2012.3.3 リニア鉄道博物館)
「関西急電の復活」であった117系は、しかし京阪神のスターとしての活躍は意外に短いものでした。1992年には一部が岡山に転出し快速「サンライナー」として活路を見出すこととなります。
(1993年8月 岡山駅)
「サンライナー」に入らなかった中間車の一部は、湘南色に塗装され115系に編入されたものも登場。このモハ115-3501は元モハ117-17で山陽本線などのローカル輸送に従事、2016年に岡山で生涯を閉じました。(1993年8月 岡山駅)
関西に残った車両もクロスシートが一部撤去された300番台となったり、後に一色塗りとなり・・・、と、どんどん落ちぶれて行く様はファンとして辛いものがありました。クハ117-306(元クハ117-6)
(2017.11.5 京都駅)

山陽電車の好敵手というより阪急・京阪のロマンスカーと対抗した名車117系。ついに過去帳入りしました。

【新快速】さよなら117系電車(その1)

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国鉄時代の1979(昭和54)年、並行する私鉄に対抗するため関西の新快速向けに専用設計された国鉄117系電車。山陽電車にとって手強いライバルとして並走した盟友であり、未だに国鉄最高の一般型電車との呼び声高い車両ですが、関西を去って長く住み慣れた岡山で今年7月21日をもって姿を消すことになりました。44年前の登場時からその姿を知るむ~パパ。最後の姿を捉えるべく出動しました。

最後に残ったのは4両編成が3本。日祝は夕方に岡山~糸崎を往復し、その後岡山~播州赤穂を往復するだけの運用でした。む~パパ、この趣味の大先輩と、とりあえず撮って乗るという目的で山陽本線をあちこち回った結果、実は何の変哲もない場所で下って来る117系を撮影しました。この日は1986年に増備された100番台。側面窓が1段下降窓となり外観の完成度は高かったのですが、む~パパ的には武骨な2段窓の0番台が好みではありました。(2023.7.16 山陽本線 里庄~笠岡)

笠岡で1本後の電車で西へ向かい、糸崎で折り返す117系に尾道駅から乗り込みました。車内外は名残を惜しむファンが大勢。む~パパ、通路を歩いて来る会社の後輩を見つけ声を掛けると、なんと彼は下って来る117系を尾道大橋から俯瞰撮影し、尾道駅まで戻って来てこの列車に飛び乗ったとのこと。いやはや、若い人はお元気なことで・・・。落ち着いたブラウンの転換クロスシートが並ぶ室内。蛍光灯もカバー付きで、阪急6300系や京阪3000系といったロマンスカーを意識したものであることは言うまでもありません。

車端部壁の木目柄は当時の国鉄車両としては非常に高級感がありました。写真の100番台は若干この茶色が明るい感じです。

この日はなかなか撮れなかった湘南色の115系も押さえることができ、かなり満足していたのですが・・・。(2023.7.16 山陽本線 里庄~笠岡)
翌日、再び岡山入り。同じ下り列車を「ニワナカ(庭瀬~中庄)」で撮影しました。今度は2段窓の0番台。今や1編成だけ残る貴重な存在です。(2023.7.17 山陽本線 庭瀬~中庄)

7月21日をもって本来の「近郊型電車」としての117系は姿を消しますが、117系自体は「WEST EXPRESS 銀河」として残ります。(2022.9.3 米子)

次回は少し懐かしい写真をお目にかけます。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その4)

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その3から続きます。ようやく終点有馬駅へ向かいます。

途中、線路の跡は病院にさえぎられますが、その後は比較的分かりやすい道のりとなります。徐々に高度も上がります。写真手前が有馬方、病院は三田方です。
廃線跡は住宅地を抜け、さらにまっすぐ進みますが阪神高速北神戸線と交差する付近で少し途切れます。
この先の廃線跡は山の中ということもあり、しっかり残っていたのですが、その路盤は2013年に開通した有馬山口線バイパスに利用され、道路になりました。写真で阪急バスが向かう先にある橋は有馬線の十八丁川橋梁が架かっていたところで、石積みの橋脚が残っていたのですが現在は撤去されています。一般道ですが自動車専用。歩くのは非常に危険です。む~パパも残念ながら途中で引き返しました。
ここには長らく残っていた橋脚を取り壊すにあたり、これを記録する立て看板があります。橋脚に使われていた石は、モニュメントとしてこの付近の地面に敷きつめられていました。
橋脚は無くなりましたが、有馬方の橋台は今も残されています。
この先、バイパスを歩けないためよく分からないところもあるのですが、廃線跡はやや高度を下げ(実際は下がっていないのかも知れませんが)、終点有馬駅跡に至ります。戦後まで駅そのものは残っていたようで、神戸市ホームページによると
神戸市:昭和36年-No.08 土砂に埋もれた旧国鉄有馬駅(北区有馬町) (kobe.lg.jp)
と、1961(昭和36)年にまだ駅舎が残っていたことが分かります。以前は病院があったように思いますが、現状空き地です。
有馬川に架かる乙倉橋。国鉄有馬駅正面に架かる橋です。今でも駅前広場がそこに広がっているような雰囲気ですね。この角度から撮った国鉄有馬駅の写真はネットでも見ることができます。右側の木造建築は駅前旅館のような感じもしますが、当時の写真では平屋の建物が写っており、いつから建っているのかはっきりしません。
この乙倉橋には、有馬駅や当時の列車の写真が欄干に掛かっており、鉄道の記憶を今に伝えています。これによると乙倉橋は当初木橋で、1928(昭和3)年に鉄筋コンクリートの橋に架け替えられたそうです。
乙倉橋。1995(平成7)年の阪神大震災で大きな被害を受け改修されたそうですが、石積みの橋脚など、多くは当時の姿を留めているものと思われます。

不要不急と判断され、戦時中に休止となった国鉄有馬線。現在は沿線に新しい住宅地もあり、鉄道として残していればそれなりに発展したのかも知れませんが、どうなっていたのかは誰にも分かりません。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その3)

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→その2から
さてさて、む~パパ。前回で国鉄有馬線の築堤を見つけたのに、その後どこを通っていたのか見失ってしまいました。と言うのはちょうど廃線跡の真上に中国道西宮北ICが出来てしまったからなのです。

1960年代の現西宮北IC付近。廃線跡がはっきり残っているのが分かります。(写真:国土地理院)
こんな感じで山を切り通して横断し、現在の西宮市山口町に至っていました。(写真:国土地理院)
現在の同じ場所。西宮北ICが中央部に出来たため、廃線跡が消えてしまいました。(出典:国土地理院)
丹念に探せば何かあるのかも知れませんが、本来の目的であるウォーキングを逸脱してしまいそうです。(写真:国土地理院)
2回目は神戸電鉄田尾寺駅で下車し、中国道で途切れた(上写真の下部分)ところから歩き始めることにしました。
ちょっと季節感がまるで違う写真で歩いた日がバレてしまうのですが「有馬口」駅があった付近。国鉄有馬線は公智神社の前を通過していました。
神様の前を素通りするわけにはいきません。もちろん御朱印をいただきました。

公智神社の前にかかる「駅前橋」。廃線跡ファンには有名な橋で、かつて鉄道があった歴史を今に伝えています。

む~パパ、なんとなく駅前橋のあたりに有馬口駅があったに違いないと思っていたのですが、その後新たな情報提供があり、公智神社より北側の土地に駅や鉄道施設があったとのこと。(出典:Google)
なるほど。本線から三田寄りに向けて側線があったそうで、確かにそれらしい形の土地が残っています。(出典:Google)
この先は橋梁部を除いて廃線跡は道路に転用され、有馬温泉へ向け続いていきます。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その2)

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その1はこちら

さて、その後長尾川北岸を走った国鉄有馬線は、長尾川を渡って現在の神鉄道場駅の真横にやって来ます。

手前が有馬方、奥が三田方。長尾川を渡る橋梁の痕跡はありませんが、廃線跡が比較的分かりやすい形で残っています。
神鉄道場駅付近の航空写真。(出典:国土地理院)
神鉄道場駅は三田線開業の1928(昭和3)年、道場川原駅として開業したもので国鉄有馬線に近接していましたが、国鉄側に駅はなく八多川を渡った先にあった新道場駅との連絡はしていなかったものと思われます。(出典:国土地理院)

神鉄道場駅舎から撮影した有馬線跡。堀割に線路が通っていた痕跡がはっきりと分かります。

有馬線開通当時は神戸電鉄が存在しておらず周囲には何もなかったので、駅(新道場駅)は八多川を渡って道場の町外れに設けられていました。有馬方には現在も橋台が残されています。
小さな溝を跨ぐ橋台。この辺りは大きな開発が進まなかったためか、現在でも痕跡が見られます。
この先、写真の部分で廃線跡は一旦途切れ田畑に転用されていますが、しばらくすると復活します。
ここからは築堤が現れ徐々に高度を上げていきます。「旧国鉄用地」と書かれた看板がありました。1943(昭和18)年に休止されたまま放棄され事実上廃止となった後、土地は民間などに払い下げられたようです。
はっきりと鉄道らしさの残る築堤。写真中央には朽ちつつも跨道橋が残されているのが分かります。
少し近付いてみました。どうもこの先は立入禁止のようですので、ここまで。石積みが見えます。

この先は分かりにくくなります。もう少し続けます。