楽しいむ〜さん一家

【みき歴史資料館】播磨の鉄道写真展開催中

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三木市の市立みき歴史資料館で「播磨の鉄道風景」と題した企画展が開催されています。
みき歴史資料館 企画展「播磨の鉄道風景~過ぎ去った時間を再現する~」 – 三木市ホームページ (miki.lg.jp)
「三木市在住の鉄道写真家、神澤誠一氏が高度経済成長期(昭和30年~同40年代)に撮影された播磨地域の鉄道写真をとおし、当時の鉄道風景や鉄道にまつわる体験談などを紹介します。(三木市ホームページより)」とあるように、まだ蒸気機関車が多数活躍していた播磨地方の鉄道写真が多く展示されています。あまり雑誌等で見たことのない貴重な写真のように思われます。

みき歴史資料館正面。三木城二の丸に建っています。外に出るのも危険な暑さの中、冷房の効いた施設はありがたいです。
二の丸遺跡の案内板。この地はのちに三木町立実科高等女学校(のち三木高等女学校を経て現在は三木高等学校。少し離れたところに移転しています。)が建っており、最近まで古い木造校舎が一部残っていましたが、現在は恐らく学校施設だったと思われる1棟(堀光美術館・別館)を残して取り壊されています。
国鉄三木駅の駅名標が出迎えてくれます。この写真展、規模は小さいものですが、高砂線の加古川橋梁では山陽電車の線路と並走する蒸気機関車の姿が捉えられており、なかなか見ごたえがありました。(著作権の問題と、実際に足を運んでいただくという観点から、写真自体は紹介しません。)
夏休みということもあって、鉄道模型の公開運転会が行われていました。ここは地元ということもあり、神戸電鉄や神戸市営地下鉄の車両と共に、山陽電車や阪神・阪急の車両も数多く展示されていました。
【おことわり】鉄道模型の展示・公開運転会は8/20で終了しています。

写真展の会期は9月24日㈰まで。入場無料。神戸電鉄粟生線三木上の丸駅から徒歩5分。近くには金物資料館や堀光美術館があります。

【新快速】さよなら117系電車(その2)

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「新快速」として専用設計された国鉄117系電車。7月21日に近郊型電車としての定期運用に終止符を打ちました。今回はその足跡を少し追ってみました。(その1はこちら

1979年。今から43年前の川崎重工(現:川崎車両 ※ちなみに川崎重工になる前は川崎車「」でした。)で完成間近の117系の量産先行車である第1編成。立っているのはむ~さんパパ(当時8歳)。周囲では同じく完成間近の103系や113系(115系?)の姿が見えます。ちなみに山陽電車3050形のアルミカーがここで生まれるのはこの2年後です。
※注意:現在この場所での撮影は禁じられています。当時は自由に撮影できましたし、守衛さんが撮影してくれたりもしました。
上写真の117系部分を大きくしてみました。先頭はトイレが付いたクハ116-1です。愛称募集で「シティライナー」と命名されました。
写真が鮮明ではありませんが、117系登場前の新快速に使用されていた153系急行型電車(写真の最後尾はクハ165)。「新快速」は1970(昭和45)年に登場し、当時は113系電車を使用していましたが、新幹線が岡山まで開通した1972(昭和47)年に余剰となった153系が使用されるようになりました。この車両は専用カラーとなり「ブルーライナー」と呼ばれました。白い部分は山陽電車3619号の「ホワイトエンジェル」と同じ灰色9号と呼ばれる塗色です。わずか8年あまりの活躍でしたが「新快速」と言えばブルーライナーを思い浮かべる人はむ~パパを含め、かなり多いと思われます。(1975年 鷹取)
1936(昭和11年)、関西地区にデビューした急行電車(急電:現在の快速にあたるものですが、当時の停車駅数から考えると現在の新快速に近い列車です。急行料金は不要でした。)用のモハ52形。写真は翌1937(昭和12)年に登場した2次車。117系の塗装はこの急電をオマージュしたものです。戦後、80系電車が同じアイボリーとブラウンのツートンカラーで復活しましたが、ほどなく湘南色となり「快速」となって現在に至ります。(2012.3.3 リニア鉄道博物館)
「関西急電の復活」であった117系は、しかし京阪神のスターとしての活躍は意外に短いものでした。1992年には一部が岡山に転出し快速「サンライナー」として活路を見出すこととなります。
(1993年8月 岡山駅)
「サンライナー」に入らなかった中間車の一部は、湘南色に塗装され115系に編入されたものも登場。このモハ115-3501は元モハ117-17で山陽本線などのローカル輸送に従事、2016年に岡山で生涯を閉じました。(1993年8月 岡山駅)
関西に残った車両もクロスシートが一部撤去された300番台となったり、後に一色塗りとなり・・・、と、どんどん落ちぶれて行く様はファンとして辛いものがありました。クハ117-306(元クハ117-6)
(2017.11.5 京都駅)

山陽電車の好敵手というより阪急・京阪のロマンスカーと対抗した名車117系。ついに過去帳入りしました。

【新快速】さよなら117系電車(その1)

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国鉄時代の1979(昭和54)年、並行する私鉄に対抗するため関西の新快速向けに専用設計された国鉄117系電車。山陽電車にとって手強いライバルとして並走した盟友であり、未だに国鉄最高の一般型電車との呼び声高い車両ですが、関西を去って長く住み慣れた岡山で今年7月21日をもって姿を消すことになりました。44年前の登場時からその姿を知るむ~パパ。最後の姿を捉えるべく出動しました。

最後に残ったのは4両編成が3本。日祝は夕方に岡山~糸崎を往復し、その後岡山~播州赤穂を往復するだけの運用でした。む~パパ、この趣味の大先輩と、とりあえず撮って乗るという目的で山陽本線をあちこち回った結果、実は何の変哲もない場所で下って来る117系を撮影しました。この日は1986年に増備された100番台。側面窓が1段下降窓となり外観の完成度は高かったのですが、む~パパ的には武骨な2段窓の0番台が好みではありました。(2023.7.16 山陽本線 里庄~笠岡)

笠岡で1本後の電車で西へ向かい、糸崎で折り返す117系に尾道駅から乗り込みました。車内外は名残を惜しむファンが大勢。む~パパ、通路を歩いて来る会社の後輩を見つけ声を掛けると、なんと彼は下って来る117系を尾道大橋から俯瞰撮影し、尾道駅まで戻って来てこの列車に飛び乗ったとのこと。いやはや、若い人はお元気なことで・・・。落ち着いたブラウンの転換クロスシートが並ぶ室内。蛍光灯もカバー付きで、阪急6300系や京阪3000系といったロマンスカーを意識したものであることは言うまでもありません。

車端部壁の木目柄は当時の国鉄車両としては非常に高級感がありました。写真の100番台は若干この茶色が明るい感じです。

この日はなかなか撮れなかった湘南色の115系も押さえることができ、かなり満足していたのですが・・・。(2023.7.16 山陽本線 里庄~笠岡)
翌日、再び岡山入り。同じ下り列車を「ニワナカ(庭瀬~中庄)」で撮影しました。今度は2段窓の0番台。今や1編成だけ残る貴重な存在です。(2023.7.17 山陽本線 庭瀬~中庄)

7月21日をもって本来の「近郊型電車」としての117系は姿を消しますが、117系自体は「WEST EXPRESS 銀河」として残ります。(2022.9.3 米子)

次回は少し懐かしい写真をお目にかけます。

【高砂線廃線跡を歩く⑤】三菱製紙専用線

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4回にわたってご紹介した国鉄高砂線跡。工業地帯を走る路線のため、沿線各工場へ専用の線路が敷かれており、その痕跡もあります。今回はその線路跡を歩くことにします。

2012年の高砂駅付近航空写真(出典:国土地理院)。中央やや上にあるのが山陽電車の高砂駅です。上から見ると駅のすぐ南側で東から来る線路跡(高砂線)と西から来る線路跡(専用線)が交わっているのがお分かりいただけるかと思います。

1961~1969年の同じ場所です(出典:国土地理院)。

山陽電車は現在のまま。黄色が国鉄高砂線。青が高砂線から分岐する専用線です。よく見ると現在でもはっきり痕跡を残している部分があります。
これは高砂線から分岐し三菱製紙高砂工場へ向かう専用線跡(上図では下の青線)。最近までサンモール駐車場へ向かう通路として使用されていました。いかにも線路跡らしいカーブを描いています。
サンモール跡地。建物の撤去が進み、寂しい雰囲気。再開発に期待したいところです。
専用線跡はサンモール跡を横切り、その先は三菱製紙専用の自転車・単車置き場として使われています。これはそのまま線路の跡です。
※すみません。こう書いていますが、本物の線路跡はこの北側を通っていたそうです。また写真撮り直しておきます。
ここを進めば三菱製紙の正門前。かつてここから線路が工場内まで延びていました。高速道路が整備されるまでは鉄道輸送が主力。工場内で貨車に積み込まれた製品は、高砂線を使って山陽本線に運ばれ、全国へ出荷されていました。
三菱製紙高砂工場内には近代的な施設もありますが、戦前から存在すると思われる建築物も多数残っているようで、機会があれば是非近くで見てみたいと、む~パパ、かねてより熱望しております。

【地上時代】垂水駅の今むかし

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山陽垂水は少しレトロな高架駅。カーブしたホームや上部がつながった屋根に何とも言えない「私鉄らしさ」を感じるのはむ~パパだけではないでしょう。
いつも多くの人でにぎわっている活気のある駅で、南側に隣接するJR垂水駅と合わせ神戸市西部の拠点駅と位置付けられます。
1965(昭和40)年頃と思われる垂水駅舎。1967(昭和42)年に高架化されますが、地上時代は須磨駅、明石駅などと同じ、追い越し設備を持つ2面4線の規模でした。(写真:山陽電鉄OB)

上写真の右につながるホーム部分。渡線道(構内踏切)で結ばれた上下ホーム。待ち合わせの1番線には2700形普通車。1964(昭和39)年製の2702-2703。2番線の特急は2000系ロマンスカー。前面窓がHゴム化された後の姿です。浜側(南側)の国鉄線はすでに高架化されています。(写真:山陽電鉄OB)

現在の垂水駅。地上時代と比較すると、山陽タクシー車両の背後にある古い茶色の建物が地上駅時代から存在していることが分かります。(2022.7.1撮影)
垂水駅に到着した250形(256-257)。張り上げ屋根と長い車体が整った印象の250形最終編成。高架上の国鉄電車は通勤車モハ72で、番号はモハ72578と読めます。(写真:山陽電鉄OB)
垂水駅付近。どうやら国鉄も上り線だけが高架化されていたようです。高槻行きの普通列車。最後尾に連結されているのは比較的原型を保つクハ68。戦前の関西国電を代表する「半流型」の美しい電車です。左には地上線の山陽電車線路が写っています。(写真:山陽電鉄OB)

地上時代の垂水駅。記録がなかなか出て来ないので、もしお持ちの方があれば見せていただければ幸いです。

【荒井駅】新しいものと古いもの【国鉄高砂工場】

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1月8日より使用が開始された荒井駅下り臨時改札口。賑わっている通勤時間帯の写真を撮りたいと思っているうちに時間が経ってしまい・・・。昼間の静かな時間帯に取材した写真だけ、とりあえずご紹介します。

屋根が延長された下りホーム。何やら立派な駅になってきましたね。ホーム中央部の南側にこのたび新設された臨時改札口があります。

利用は平日の7:15~9:00のみ。またICカード専用となっています。出口専用です。

前後2箇所の階段を降りると、山陽電車では初めてとなるICカード専用簡易改札機の姿が。

このような簡易改札機は地方では本線級の駅にも見られるポピュラーなもの。異なる鉄道が同じホームを使用している場合など、ホーム上に立っているのを見ることもあります。人呼んで「一反木綿」。

外側から見るとこんな感じ。横断歩道のない車道にいきなり出てしまうため、改札使用時にはガードマンが立っているということです。

さて、この新しい改札と対照的に古いものが荒井駅とその周辺に。

荒井駅の下をくぐる地下道の出入口。

この地下道にも改札口があります。改札機と精算機が設置されていますが券売機は無く、北側の駅本屋に行くよう案内されています。あくまで朝の通勤用としての色彩が強いですね。

いかにも古そうな地下道屋根。微妙なカーブの付いた怪しい意匠です。話によると戦時中の通勤客(現在も三菱重工の工場がありますが、戦時中はその西側に旧陸軍の兵器工場があり、多くの人が電車で通っていました。)をさばくため、旧陸軍によって作られたそうです。幅が広く、いかにも堅牢な地下道は空襲にも耐えられそうです。

駅から少し南側へ行くと川西倉庫の敷地内に旧国鉄の貨車が置かれています。白い帯が巻いてありますね。ワム60000形です。

元々国鉄吹田工場で使われていたようですが、その後高砂工場の配給用として使われていたようです。国鉄の高砂工場は先ほど記した旧陸軍の兵器工場が戦後鉄道車両の整備工場として払い下げられたもので、高砂線は工場への出入場線としても機能していました。この貨車は高砂線を使って駅から工場へと職員に必要な物品を運搬していたものでしょう。高砂線や高砂工場が廃止になったあと、どのような経緯で元あった線路のそばに鎮座しているのか分かりませんが、高砂工場の忘れ形見として、ある意味貴重な存在です。

通勤するみなさまで賑わう様子も記録したいものです。クリックにもご協力を!
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【3000系と同期】名残の103系を狙う!

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山陽電車とは全く関係ないのですが、京都鉄道博物館に行って来ました。


表に展示されている新幹線0系。0系自体は長らく製造されていましたが、ここに保存されているのは貴重なトップナンバー編成。引退して35年以上は経っているはずで、以前は大阪の交通科学博物館に展示されており、このほど京都に引っ越して来たもの。

この0系、山陽3000系と同じ1964(昭和39)年に登場、翌1965(昭和40)年度鉄道友の会「ブルーリボン賞」を受賞しました。同年に「ローレル賞」を受賞したのが山陽3000系というわけです。

さて、同じ場所に展示されている大阪環状線の電車。103系のトップナンバー、クハ103-1です。登場時は山手線で活躍、車体も「うぐいす色」でした。

この車両は山陽3000系と同じ1964(昭和39)年に量産が始まった通勤型電車で、日本で最も多く作られた電車です。旧国鉄時代、実に約3500両が首都圏や関西圏・中京圏等で活躍し、我が国の高度成長を支えました。地味ながら「名車」と言えるでしょう。

実は・・・、山陽3000系が「ローレル賞」を受賞したとは言え、鉄道友の会の会員投票ではこの103系の得票数のほうが多かった、らしいです。山陽電車に賞が回ってきたのは「地方私鉄としては意欲的な取り組みの車両」ということで特段の評価をされたんだとか。まあ、もらっちゃえば「勝ち」なんですけれども。

というわけで山陽3000系の「公式ライバル」である103系。すでにJR東日本では引退し、まとまって残るJR西日本でも今年中に主要線区からは引退するようです。

阪和線で最後の活躍を見せる103系。最後だと思うと炎天下でも「暑い」と言っている場合ではありません。ちなみに先頭に立つクハ103-148は1969(昭和44)年、神戸の川崎重工で生まれ、明石電車区に配置されました。同時期に生まれた山陽3000系と須磨~明石間で並走していたことでしょう。すでに新型車225系も投入されており、まもなく引退するものと思われます。(2016.8.6 浅香駅 大和川橋梁)


うぐいす色の関西線103系。最後尾のクハ103-198は1972(昭和47)年、明石電車区に登場。当時はブルー塗装で、こちらも山陽電車と並んで走った経験の持ち主。
(2016.8.6 天王寺駅)


順次3扉車323系に置き換わる大阪環状線の103系。オレンジ1色の電車が大阪の街を走るのも見納めになりそうです。最後尾のクハ103-841は1981(昭和56)年、森ノ宮電車区に登場、1年ほど明石電車区にいたことはあるのですが、現在は古巣に戻り最後の活躍中。
(2014.3.16 森ノ宮駅)

山陽電車3000系の同期。昭和の通勤輸送を支えた名車にも迫ります。
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