楽しいむ〜さん一家

【山陽タクシー】意外に貴重な”私鉄系タクシー”伝統カラー

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最近、かつて派手なカラーリングが魅力だった東京のタクシーが黒や濃紺になっていくのを残念に思っているむ~パパではありますが、よく考えると山陽タクシーのような「私鉄系伝統カラー」をまとったタクシーって意外に少ないのでは?とふと思い、今まで撮りためたタクシーの写真を掘り返してみました。

まずはわれらが山陽タクシー。白+青の伝統色は40系クラウンではすでに確認されていますので、50年以上はこの塗装であろうと思われます。由来は不明ですが電車の旧塗装をイメージしたものでしょう。車種はトヨタ・クラウンコンフォートデラックス TSS10型(2012.5.26 明石駅)
続いては阪神電鉄系の阪神タクシー。青緑と青灰色のツートンカラーはこちらも伝統色ですが、同社ホームページによると一色塗りだった時代もあるようです。今のようなツートンカラーになった時期は不明ですが、50年くらいはこの色であったと思われます。電車ともバスとも違う独特な色使いですが、マニア的にはこれぞ阪神タクシーという感じではあります。車種はトヨタ・クラウンコンフォートスタンダード TSS10型(2023.12.17 武庫川駅)
こちらは神戸電鉄系の神鉄交通。山陽タクシーとは青と白の塗り分けが反対ですが、青は鈍い感じの青緑色です。増備の進むJPN TAXIは黒色で、このツートンカラーは数台を残すのみとみられています。車種はトヨタ・クラウンコンフォートスタンダード YXS10型(2011.10.2 鈴蘭台)
神鉄交通のトヨタ・JPN TAXI和(なごみ) NTP10型。今のところツートンカラー車は確認されていません。(2022.1.9 鈴蘭台駅)
阪急電鉄系の阪急タクシー。かつては上半分が黒、下半分がオレンジの奇抜な色彩でしたが、黒一色になって久しく、ひらがなで書かれた所属営業所が阪急らしさを醸し出しています。トヨタ・JPN TAXI和 NTP10型(2022.2.6 中山駅)

近鉄系の近鉄タクシー。小型車枠の車両はブルーですが中型車枠は黒で、このブルーが伝統色と言えるかどうかは微妙なところです。トヨタ・コンフォートTSS11型(2012.4.29 奈良・若草山付近)
私鉄系タクシー伝統色の牙城と言えば名鉄系の名鉄タクシー。鉄道やバスは赤がイメージカラーですが、タクシーはなぜか緑色。菱形の行灯とともに長く続いています。トヨタ・クラウンコンフォートスタンダードYXS10型(2012.9.15 近鉄四日市駅)
名鉄タクシーの場合、JPN TAXIでも伝統色を貫いており、山陽タクシー同様強いこだわりを感じます。トヨタ・JPN TAXI匠(たくみ)NTP10型(2023.3.7 名鉄名古屋駅)
阪神タクシーのツートンカラーと色違いと言える西鉄系の西鉄タクシー。同社系列のトラックと同じ色使いです。トヨタ・コンフォートTSS11型(2017.3.9 姪浜駅)
最近トミカも発売された小田急電鉄系の小田急交通。かつてのロマンスカーと同じ灰色とオレンジのツートンカラー。電車に合わせたカラー採用は珍しいですが、これもかなり前からの伝統色です。(2019.8.31 渋谷駅)
京王電鉄系の京王自動車。京王電鉄・バスと同じカラーリングで活躍しています。かつてはオレンジと黄色のツートンカラーでしたが、CI導入を機に現在のものへ変わっています。そう言う意味では伝統色とは言えませんね。トヨタ・クラウンコンフォートTSS10型(2018.8.14 東京都内)
京浜急行電鉄系の京急交通。こちらも電車と同じ赤に白帯です。背景は旧京急本社。日産セドリックY31型カスタム(2018.8.14 泉岳寺)
地方にも私鉄系伝統色をまとうタクシーが。島根・一畑電鉄系の一畑タクシーグループ(双葉タクシー)。こちらは白と赤のツートンカラーが長く続いています。日産セドリックY31型オリジナル(2015.3.14 松江駅)
福井・京福タクシー。鉄道・バスと同じ白にあずき色の帯を巻いています。いかにも私鉄系らしいカラーリングです。(2012.6.2 福井駅)

こう見ると私鉄系伝統カラーは意外に少ないことが分かります。む~パパとて全国くまなく行脚したわけではないので、ここには紹介し切れていない私鉄系伝統カラーがまだまだあるかも知れません。情報がありましたらお寄せください。

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その3)

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甲子園口駅で国鉄(現JR)東海道線に接続した阪神武庫川線ですが、ここで終わりではなく東海道線に沿って西ノ宮(現西宮)まで実際に線路が敷かれていました。

今回は線路に沿って西宮まで歩いてみましょう。

甲子園口駅の少し西側にある通路。線路の北側に出るためのものです。高さが低いので反対側に行くにはかがんで通過しないといけません。写真は南側。
北側は煉瓦造りの丸い出入口となっています。東海道線の大阪~神戸間は、日本で初めて鉄道が通った1872(明治5)年に遅れること2年の1874(明治7)年に開業した日本で2番目に古い鉄道路線で、この通路も同時代(明治29年の複線化時のものという情報があります)のきわめて古いものと考えられます。今年はこの区間開業150年記念の年にあたります。
この通路は北から入ると途中でコンクリート造りの四角いものに変わります。元々の通路は煉瓦の部分で、四角い部分は阪神武庫川線の築堤を付け足した際に延長されたものと言われています。(写真は南側から撮影)※大正15年という説もあります。
そこから線路際を西宮方向に歩くと、他の方のブログにも紹介されていますが阪神電鉄の用地杭が建っています。現在も阪神電鉄の土地かどうか定かではありませんが、阪神の路線がここまで来ていた証ではあります。
蒸気機関車の給水塔を模したモニュメント。タンクを支える足の部分を利用しているようです。
モニュメントに取り付けられたプレート。当時この区間は電化されており、周辺に蒸気機関車運用のための設備はなかったことから、新たに給水塔が建てられたようです。
当時も国鉄は複々線だったはずです。4本の線路の南側(写真では右側)に阪神武庫川線の狭軌線路が通っていたのですが、現状からは想像もつきませんね。
散策途中で見かけた使われていない鉄橋。武庫川線の遺構かと思いましたが、鉄橋の銘板には昭和29年とあり、当時のものではありませんでした。が、武庫川線を用いた貨物輸送は昭和33年頃まであったといいますので、この鉄橋が使用されたことがあるのかも知れません。単にアサヒビール専用線のものだったかも知れませんが・・・。
現在のJR西宮駅。貨物専用とは言え、阪神電車の路線がここまで延びていたというのは興味深いことですね。

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その1)
【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その2)

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その2)

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前回(その1)の続き。武庫大橋から北側の廃線跡を歩きましょう。その前に、む~パパが前回歩いた1982(昭和57)年の2年前、1980(昭和55)年の廃線跡を記録したブログをご紹介いただきました。管理人さまに許可を得てリンクを貼っています。2年違いですが旧武庫大橋駅に杭が打たれていたり、変化があります。
↓ リンク先
阪神武庫川線廃線区間の記録: 国鉄・私鉄の思い出 (seesaa.net)

武庫大橋西詰。以前は阪神国道線(路面電車)が走っていました。武庫川線は国道線と交差し、北へ向かいますが、旅客営業はここまで。これより北側は国鉄による貨物輸送のみだったとのことです。
武庫大橋から北側は廃線跡が今もそのまま残っています。フェンスに囲まれた不思議な空間が堤防の脇に続いています。昔は線路も残っていたとのことですが現在は何もありません。
その先は右側の堤防に線路が敷かれていたそうですが、盛土もされてさすがに線路跡という雰囲気はなくなっています。
南へカメラを向けています。左が武庫川。堤防より1段下の空間(写真中央)が廃線跡だそうで、かつては線路が残っていたそうです。
この先は国鉄(JR)線に接続するため左へカーブします。写真のマンションは線路跡のカーブ上に沿って建っています。かつては阪神電鉄系の会社が事務所を構えていたそうです。
マンション敷地の延長上にある築堤。国鉄(JR)へ合流するような構造になっています。
この先はJR甲子園口駅構内になりますが、何やら怪しげな構造物が残っています。恐らく阪神武庫川線の甲子園口駅関連遺構と思われます。
この遺構を西側から。この一角だけが妙に怪しい雰囲気です。
怪しい構造物の延長線上にある駐輪場。ここは阪神武庫川線の甲子園口駅建設予定地だったそうで、最近発見された図面によると国鉄への貨物線とは分岐してホームが設けられる予定だったようです。実際は旅客電車が走ることはなく、貨物列車がここから東海道本線と並走し西ノ宮(現西宮)へ向かっていました。
現在のJR甲子園口駅(南口)。それなりに商業集積のある中間駅ですが、もし阪神電車の支線が接続していたら、少しは街の姿も変わっていたかも知れませんね。
「その1」~「その2」のルート。(Google Mapより)


【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その1)

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5000系・5030系の直通特急が行き交い、山陽電車沿線のようではありますが・・・。
ここは阪神電車武庫川駅。阪神電車には川の上にホームが設けられている駅がいくつかありますが、川幅の広い武庫川を横切り、その両岸に改札口がある武庫川駅はそうした駅の代表格と言えましょう。冬のやわらかい日差しが川面に反射して・・・、にしても、寒い!

武庫川駅からは短い支線「武庫川線」が走っています。む~パパが小さい頃は2つ先の洲先駅まででしたが1984(昭和59)年に武庫川団地駅まで延長され、現在の営業キロは1.7㎞。編成ごとに違うカラフルな色に塗られた5500系が専属で活躍しています。写真は本線改札内から見た武庫川線のホーム。中間改札が設けられていますね。

今回この武庫川線の「廃線部分」を歩いてみます。武庫川線は浜手にあった軍需工場(川西航空機→現在の新明和工業)への従業員輸送および資材搬入のために建設されたもので、1943(昭和18)年に武庫川~洲先間が、その後武庫川駅より北側の路線が国鉄(現JR)甲子園口駅を経て西ノ宮(現西宮)駅まで建設されました。途中、阪神国道(現国道2号線)との交差部には武庫大橋駅が設けられ、阪神電車はここまで運行されていました。国鉄からは資材運搬のため貨物列車が乗り入れており、武庫大橋駅以南は狭軌と標準軌両方の列車が入れる3線軌条となっていました。

さて、武庫川駅から北側を見てみます。堤防に沿って線路が北上しています。左側から合流するのは阪神本線との連絡線で、車両を本線から出し入れするためのもの。む~パパ、小さいころから何やら怪しげな線路が北へと続いているのを見て「いつかは歩いてみたい」と思っていまして、まだ武庫大橋駅のホームが残っていたころに行ったことはあるのですが、久しぶり(40年以上ぶり!)の再訪となります。
※あらかじめお断りしておきます。この廃線跡については多くの方がブログ等で紹介されています。今回の記事はこれらを参考にさせていただき、実際に歩いてみたものです。

線路が敷かれている部分は、現在も引上げ線として必要な長さのみのようです。昔はもう少し短かったような気もしますが、気のせいかも知れません。
さて、ここからは廃線跡の探索です。いきなり現れる遺構。線路は無いのに道路下を潜れるようになっています。む~パパが前回歩いたとき、洲先駅より南は3線軌条が残っていたのですが、武庫川駅以北は線路があったのは覚えているものの、詳しい記憶はありません。写真を撮っていなかったことが悔やまれます。この先に見える家は線路跡に建っているものです。

ここから先、堤防に沿った線路跡にきれいに住宅が建ち並んでいます。写真は比較的最近分譲された区画のようで、少し前の写真ではまだ姿が見えません。

ここから武庫大橋駅までの線路跡には隙間なく住宅が建ち並んでいます。川に沿ってカーブしている廃線跡がそのまま宅地となっています。以前歩いたときはまだ空き地で付近の方が畑などに使っており、少し掘り返せばレールが顔を出す状態でした。

国道2号線との交差部。武庫大橋駅があったところです。ここからはまだ北へ線路が続いていましたが、交差部は埋められ痕跡は無くなっていました。

武庫大橋駅跡。少し広くなっており、行き違いのできる駅構内の雰囲気をわずかに残しています。
1982年当時の武庫大橋駅跡。真ん中に立っているのは、かつてのむ~さんパパです。ホームがきちんと残っていましたが、レールは3線軌条ではありませんし標準軌のようです。国道下に北側へ抜ける開口部(前述のとおり今は埋まっています)が見えます。このとき撮った写真はこの1枚のみ。もっとあちこち撮っていればと悔やまれます・・・。

※追加情報がありました。かつてはここから北側に狭軌の線路が残っていて、国道2号をくぐるところに境目があり、線路が食い違っていたそうです。謎は深まります。

次回は武庫大橋駅以北を訪ねます。

【大天守完成】姫路城をわが手に(その3)

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あけましておめでとうございます。本年も「楽しいむ~さん一家」をよろしくお願いいたします。

というわけで、新年最初は「姫路城ペーパークラフト」その後の進捗状況をお知らせします。
今までの工作は以下のとおり。(リンク先へ飛びます)
姫路城をわが手に(その1)
姫路城をわが手に(その2)

徐々に「城っぽく」なってきました。上から2層目には南北があり、上に開けられた細い窓が左寄りになっているのが南側(正面)のようです。一応実物の写真で確認しておきました。
ここまで来ると間違えないとは思いますが、念のため裏面に「北」「南」と方角を記入。
ここで恐らく最大の難関と思われる、大きな千鳥破風と唐破風の付いた屋根部分(右)を上から3層目までと接合する作業を行います。簡単そうに見えて意外にやっかいな作業です。
3層にまたがる大きな破風が付くと、ますます「姫路城」らしくなります。こちらは南側(正面)。千鳥破風と唐破風がバランス良く配置され、築城者の絶妙なセンスを感じさせます。
ここまでの組立は、基本的に上から下へと同じ作業の繰り返しです。しかし、紙の厚さを考慮しない設計と思われるため、相変わらず製作には結構苦労させられます。特に入母屋破風部分は壁に表示された「のりしろ」に破風部分を接着するのが至難の業。今回は無理やり接着しましたが、もう少し何らかの工夫が必要かと思われます。あとは石垣。
最下層(1層目)と石垣は一体パーツで、くみ上げた天守を接続すれば、ようやく姫路城の雄姿が再現できました。
北側。唐破風とそれに伴う意匠がなく、デザイン上あくまで正面ではないことが分かります。入母屋破風に引っ張られて最下層の屋根がゆがんでいます。仕上がりは悪くなりますが、破風を屋根から切り離して接着したほうが良いと思います。
少し視点を下げれば、紙で作られたとは思えない迫力を感じます。実際に作ってみると、姫路城が実際にどのような構成で作られているかが分かります。

ここで終了であれば良いのですが、実は完成したのは「大天守」のみ。実際にはご存知のとおり小天守を周囲に巡らした連立式でして、12枚ある展開図はようやく6枚を使ったところです。まだ半分か~。

着工以来10年。以下、まだまだ続きます・・・。