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【北条鉄道】クラウドファンディングが成功したキハ40

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神戸電鉄・JR加古川線の粟生(あお)駅から北条町を結ぶ北条鉄道。旧国鉄線を引き継いで運行する第3セクター方式の鉄道です。いささか旧聞ではありますが、今年から4両目の車両としてJR東日本から譲り受けたキハ40形気動車が営業運転に投入され、人気を集めています。

網引駅を出発したキハ40形。1977(昭和52)年から1982(昭和57)年にかけて888両が製造され、北海道から九州まで全国に配置されていたキハ40系列ですが、国鉄分割民営化から35年経ち引退が進んでいます。このほど北条鉄道に来た535号は500番台と言われる寒地向け車両で、青森県と秋田県の海岸線を沿って走る五能線で活躍していたものです。今回補修費を集めるためクラウドファンディングを実施したところ、目標額を大きく上回ったとのことで、美しい姿がよみがえりました。(2022.4.30 網引~田原)
キハ40形は国鉄時代に当時老朽化が進んでいたキハ10系気動車を置き換える目的で製造されたもので、元々はこの写真のような朱色(首都圏色と呼ばれていました)でした。写真は暖地向けの2000番台(2002号)ですが側窓部分は更新工事が行われたため原型ではありません。(2018.6.27 広島駅)
現在、登場時のキハ40形の姿を最も残すのがJR四国の運行するもので、トイレは撤去されていますがエンジンは当時のままです。キハ40 2110号(2020.8.2 徳島駅)

網引駅を後にするキハ40。レールバスとは違う重厚感がありますね。ローカルムード満点です。

昔の雰囲気をそのまま残す北条鉄道。先日ご紹介した高砂線とともに加古川線の支線として建設されたものですが、同じ支線であった鍛冶屋線、三木線(のちの三木鉄道)が廃止された現在、支線では唯一残された存在です。今回キハ40形には乗車しなかったので、是非実際に乗車してからまたリポートしたいと思います。

【2015年】3000号前面帯復元工事

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今日は廃線跡を歩くシリーズを少しだけお休みして、3000号前面帯復元工事の写真を公開します。

今は思い出となった3000号。非冷房時代、側面のうろこ模様を消された際、前面帯がニューアルミカーと同じ太い幅のものに変更されました。車番も帯の上に変更されています。
(2015.10.18 霞ヶ丘~舞子公園)

2015年の鉄道フェスティバルに合わせ、3000号の前面帯を登場時の太さに戻す工事が行われました。

作業は東二見車両工場の一角で行われました。シール式の帯をはがすだけでは跡が残ってしまうので、全体を磨く作業が行われています。(2015.10.20 写真提供:山陽電気鉄道)
シールをはがすと、元の帯跡がはっきりと残っていました。職人さんが丁寧に磨き上げていきます。アルミ地肌の銀色が輝きます。話に聞いたところでは鉄道関係ではなく、川崎重工の船の職人さんが来られて作業されたそうです。(2015.10.20 写真提供:山陽電気鉄道)
貫通扉の左側。上の穴8つが太い帯になった後の車番位置、下の穴8つが元の車番位置。登場時は方向幕が無く貫通扉に車番が付いていました。(2015.10.20 写真提供:山陽電気鉄道)
復元工事が完成した3000号。かつての姿がよみがえった瞬間です。(2015.10.23 写真提供:山陽電気鉄道)
3000号は完成していましたが、姫路側3600号はまだ未完成。この姿で鉄道フェスティバルの展示となりました。(2015.10.23 写真提供:山陽電気鉄道)

つい最近と思っていた3000号の復元も、今から思えば7年前のこと。こうした記録も大切にしたいものですね。

【高砂線廃線跡を歩く④】高砂港へ向かう

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今回は高砂港までの線路跡を歩いてみましょう。

山陽電車の高砂駅。特急停車駅で現在は高砂市の代表駅とも言える存在。
山陽電車の向かいにある店舗群の裏手。駐輪場に転用された部分は高砂線の廃線跡。山陽電車の高砂駅(当時は電鉄高砂駅)最寄りの高砂北口駅は左側の建物に沿ってあり、ホームと上屋だけの無人駅でした。
カーブを曲がり南へ向かいます。平坦で歩きやすい遊歩道になっています。
カーブの先で西へ分岐する線路跡があります。これは国鉄高砂工場はじめ周辺の工場へ延びていた引込線の跡。腕木式信号機など鉄道の名残を示すものが保存されていました。
現在の高砂と言えばあまりにも有名な「梅が枝湯」。高砂線の敷地に沿っており、ここから南側に国鉄高砂駅のヤードが広がっていました。
高砂駅跡にある車輪を使用したオブジェ。尾上駅跡にあるものと似ていますね。現在の商店街の正面付近に駅舎がありました。
高砂駅から線路はまだ南へ続いていました。堀川を渡る道路橋が正面に見えます。
「工」の文字は国鉄用地の証。今でもあちこちに残っています。
線路跡をたどると海に出ました。高砂港駅です。元々線路が敷いてあるだけの広い空間。廃線後もしばらくそのままだったようですが、現在は線路は撤去され建物も建ち当時の面影はなくなっています。鉄道が物流の中心を担っていた時代、船から直接貨物を受け渡ししていたのですね。

沿線工場へ引き込まれていた線路もたくさんありました。可能な限り追ってみます。

【高砂線廃線跡を歩く③】加古川駅まで

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山陽電車の北側へ出た高砂線跡は、道路となって加古川駅を目指します。ここはひたすらウォーキング。写真正面の高架道路は明姫幹線、高架下に見える緑は鶴林寺です。
鶴林寺。兵庫県の建築物では最古となる太子堂や、折衷様建築の代表作とも言われる本堂が国宝に指定される古刹。お寺の真横に高砂線「鶴林寺駅」がありました。
鶴林寺駅。ローカル線らしい無人駅でした。1984年(提供:山陽電鉄OB)
1979~1983年の航空写真(出典:国土地理院「地理院地図」)
鶴林寺駅は鶴林寺の門前にあります。高砂線はこの先で別府港から来る別府鉄道野口線と、野口駅で接続していました。
現在の鶴林寺付近(出典:国土地理院「地理院地図」)
高砂線の跡地は道路に、別府鉄道跡地は遊歩道「松風こみち」となってます。野口駅跡は少し広いスペースや緑地になっています。40年経ち宅地化が進んでいるのが分かります。

別府鉄道の跡地「松風こみち」の終点。高砂線との合流点にあたります。

そのまま進むと加古川市役所のそばを通り、JR山陽本線(神戸線)にぶつかります。高砂線は当時地平にあった山陽本線を築堤で乗り越え、北側から加古川線に合流する形でした。
1979~1983年の加古川駅付近(出典:国土地理院「地理院地図」)
加古川駅を出た加古川線から、高砂線、軍用線(旧陸軍神野弾薬庫線)が分かれています。軍用線については以前ご紹介しました。
【加古川】旧陸軍神野弾薬庫線を歩く・前編【廃線跡】 | 楽しいむ〜さん一家 (blog-sanyo-railway.com)
【加古川】旧陸軍神野弾薬庫線を歩く・後編【廃線跡】 | 楽しいむ〜さん一家 (blog-sanyo-railway.com)
比較的最近の加古川駅付近(国土地理院「地理院地図」)
山陽本線が高架化され、高砂線の築堤が消滅しています。「比較的最近」と書いたのは、この写真ではまだはっきりしている高砂線跡がここ数年で急速に宅地化し、現地を歩いても分かりにくくなったためです。
上写真の中央部。今も廃線跡がはっきり残る区画。公園なのか細長い土地が広がります。前後の区画はすでに家が建ち並んでいます。
加古川線も高架化され当時の面影を失っていますが、このコンクリート壁は高砂線の遺構と思われます。

次回からは高砂港方面を探索します。お楽しみに。

【高砂線廃線跡を歩く②】山陽電車との並走区間

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加古川を渡った高砂線は、しばらく山陽電車に沿って東へ進みます。

奥が山陽電車。手前に現在も高砂線の築堤がきれいに残っています。近年フェンスが出来、立ち入れなくなりました。
現在も残る架道橋。この角度から見ると今にも列車が走って来そうです。
枕木も残っています。煉瓦を積み上げた橋脚。日本では標準的な「イギリス積み」です。
桜の季節に。山陽電車に並行して残る廃線跡。(尾上の松~高砂間)
線路跡は山陽電車の加古川県道踏切より東側からは道路に転用されています。写真は旧国鉄尾上駅付近を東側から。右に山陽電車の築堤が見えます。
山陽電車は尾上の松駅東方で築堤を上り高砂線を越えます。元々尾上の松駅はこの築堤上にあり、国鉄尾上駅と連絡していました。写真は高砂線廃線跡との交差部。単線だったため2車線の道路がここだけくびれており、車がすれ違うことは出来ません。
1984年の同場所(山陽電車OB提供)。300形普通列車が通過しています。奥に見えるのは国鉄尾上駅。線路はありませんが、今もそれほど変わらない雰囲気です。
国鉄尾上駅跡モニュメント。写真から見ると山陽電車の築堤にくっついて線路の東側にホームがあったようですね。

このまま加古川駅へ向かって北上します。(つづく)