楽しいむ〜さん一家

【1983年】旧シンボルマーク誕生

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明石~姫路間開業100周年を記念し、復活した旧シンボルマーク。ファンからは「太陽マーク」とも呼ばれ親しまれていましたが、このマークはいつ登場したのでしょうか?山陽電車所蔵の写真から当時を振り返ります。

3050形アルミカーに取り付けられたシンボルマーク。ニューアルミカーは、あまりにも自然な感じなのと、鋼製車がまだツートンカラーだったときから付いていたので、最初から付いているものと思われがちですが、必ずしもそうではありません。(2006.12.5 東二見車庫)

「山陽電気鉄道100年史」によると、このシンボルマークは山陽電車創立50周年(宇治川電気から分離して現在の山陽電車が成立したのは1933〈昭和8〉年)を記念し社員に対する公募により、1983(昭和58)年5月に制定されたと記載されています。3050形アルミカーは1981(昭和56)年から毎年1~2編成製造されています。少なくとも1981年製3068号と1982年製3070号にはシンボルマークが無かったことになります。

3050形アルミカーのうち無塗装で登場した2本目3070号。写真は新造当時の姿で1982(昭和57)年6月、西代の側線に搬入された直後に撮影されたと思われます。もちろん側面にシンボルマークはありません。
こちらが3本目、1983(昭和58)年6月に竣工した3072号。同時に4本目となる3100号も仲間入りしました。すでにシンボルマークが制定されていますが、この写真を見る限りまだ車両には付いていなかったことが分かります。
【3619号】ホワイトエンジェルの39年 | 楽しいむ〜さん一家 (blog-sanyo-railway.com)
でもご紹介しましたが、3619号も当初はシンボルマークが付いていませんでした。時期的にこの2編成がシンボルマーク無しで営業運行に就いていたかどうかは、ちょっと定かではありません。
1983年頃に撮影されたと思われる写真(写真提供:アルプス銀水さま)。シンボルマーク取付けにあたり、色や大きさを検討していたようです。紺色のものがあるのは、当時はまだ鋼製車がツートンカラーだったので、そちらのイメージなのだろうと思います。
山陽電車だけでなく、阪急電車の「H」マークや、神戸電鉄の「K」マークも実寸(?)で作り、参考としていたことが分かります。なかなか面白い写真ですね。(写真提供:アルプス銀水さま)

む~パパ、暑くて外で立ちんぼできず、まだ旧シンボルマーク車両を撮影できていません。もう少し涼しくなったら出掛けようと思います。

【831号】最後まで東二見に残った820形

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山陽電車820形は1948(昭和23)年、我が国戦後初のロマンスカーとして登場しました。形式としては800形だったようで、中途半端な820から車番が始まっているのは運輸省から割当てを受けたモハ63形(63800~63819)が下3桁(800~819)を使い元は800形と称されていたので、その続番であるというのが通説です。しかし、近年の研究によるとモハ63800~63819は正式に「800形」と呼ばれたことはなく、あくまで「モハ63800形」であり、ゆえに「いわゆる820形が本当の意味での800形である」という最初の話に戻るわけですが、そもそも国への届出上は「クモハ3000」など単体のものだけであって、「3000系」という呼び方は会社内や鉄道ファンの間で呼び慣わされているに過ぎない、実ははあやふやなものなのです。

が、まあそれはともかく。
820形はトップナンバー「820-821」が東二見車両工場に保存されていましたが、老朽化のため解体されたというお話は、以前ここ(←リンク先へ飛びます)でしました。実際にはこの他にも残された車両がありました。

ラストナンバー編成である830-831号のうち830号は、西代本社にあった教習所の教材として使用されていました。青一色の車体が新鮮で、車庫が西代から東須磨に移った後もしばらく置いてありました。車籍は無かったため本線走行はできなかったものと思われます。いつのまにか解体されてしまいました。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
東二見車両工場に鎮座していた256号(左)と831号(右)の車体。830号と820-821号解体で、820形はすべて失われたと思われた中で、人知れずひっそりと残っていたのがこの831号でした。820形のうち最後の4両(828~831)は1973(昭和48)年に廃車となっています。相方の830号が教習車となり、この831号は車体のみが活用されたようです。皮肉なことに831号が800形(820形・850形)で最後まで生き残ることになりました。(1997年頃 写真所蔵:山陽電気鉄道)

その後、東二見車両工場敷地の一角はセブンイレブンとなり、831号はあえなく解体、831号のあった場所に256号が移動して据えられています。両方とも解体されると思われましたが、256号は何とか生き残りました。

831号があった場所に移り現存する256号の車体。台車は東京メトロ(当時は営団地下鉄)に寄贈され、地下鉄博物館所蔵の「日本最初の地下鉄(東京地下鉄道1001号)」に取り付けられています。
その時の記事は→こちら

830-831号の現役時代。日本初の軸はり式台車OK-3を履いています。教習車になった後の姿と外観は変わりなく、最後まで前面の方向幕は取り付けられなかったと思われます。831号の台車は1973(昭和48)年の廃車時に失われたものと考えられますが、830号の台車は残り、現在も東二見車両工場と川崎車輌本社に1つずつ保存されています。(1968.5.17 東二見車庫 所蔵:山陽電鉄OB)

日本の鉄道史に名を残した貴重な車両ではありましたが、保存するのは難しかったでしょうね。



【3619号】ホワイトエンジェルの39年

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6000系の18本目となる6017号が東二見に搬入され、まもなく運転開始が見込まれます。となると入れ替わりとして動向が気になる「ホワイトエンジェル」こと3619号。今回は突如真っ白になって登場した1983(昭和58年)の写真を交え、この車両を少しご紹介しましょう。

検査直後の3619号。現在と同じ姿です。(2012.8.13 東二見車庫)写真:山陽電気鉄道

3619号は3000系3次車後期型(3619~3622)に分類されます。昭和50年代には3018号4両編成の3号車に組み込まれ、3018-3019-3619-3609として活躍していました。3000系が3両編成から4両編成になる過渡期には、このように先頭車が中間に入る編成が見られましたが3619号は最後まで中間に残り目立つ存在でした。のち3018号は3連化。編成から外れた3619号は冷房改造されるまで休車状態だったようです。

1983(昭和58)年、3619号は冷房改造されるとともに新造されたアルミカー3100-3101号に合わせた白い塗装となりました。写真はまもなく搬入される3100-3100号を出迎えるため、東二見から送り込まれたと思われる3619号。3050形アルミカー4両編成に引っ張られて西代までやって来ました。すでに車庫は東須磨に移転後で建物は無く、このように数本の線路が敷かれている状態。県立スポーツ会館(震災で被災後、解体)、地上にある西代駅舎、教習車830号の姿が見えます。(写真:山陽電気鉄道)
同じ日の別角度からの写真。3619号は同時に登場した3622号までの4両とも当時はウイングバネ式のKW-2台車を履いて登場したようですが、この4両分の台車は当初から3000系アルミカー3000~3003号と交換するため電動化できる設計だったらしく、数年のうちに交換されこの写真のように軸ハリ式のOK台車となっています。む~パパも3619~3622号はOK台車を履いていた印象が強いです。(写真:山陽電気鉄道)
3619号に取り付けられた電気連結器付き回り子式密着連結器。どこまで具体的に構想されていたのか不明ですが、3100-3101号は3000系4連に増結し6連を組めるようになっていました。3101号には簡易運転台があり(準備工事のみ)、本線上で増結解放するつもりだったと考えられます。3619号はそれまでの準備のため対応した連結器を取り付けていましたが、現在は他車と同じ棒状連結器となっています。(写真:山陽電気鉄道)
3100-3101号と組む際、不足する空気を補うため3619号にはコンプレッサーが取り付けられました。山陽電車ではおなじみのC-1000やHB-2000ではなく、C-2000Mと呼ばれるもので270形初期車から流用されたものと考えられます。写真の時期に山陽電車で実装されたこのコンプレッサーは1台だけでした。(2006.12.5 東二見車庫)写真:山陽電気鉄道

のち、3050形のコンプレッサー更新により捻出されたHB-2000に交換されています。(2012.8.13 東二見車庫)写真:山陽電気鉄道

3619号の活躍も、もうあと少しと考えられます。機会があれば今後も古い写真を公開しましょう。

【地下化】西代駅周辺の地上線路跡をたどる

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前回の続きです。(11/7 写真追加)

阪神淡路大震災まで板宿駅とともに地上にあった西代駅。現在の山陽電車の起点です。1968(昭和43)年の神戸高速鉄道開業以来、ここから地下の高速長田駅に向かっていましたが、それまでは長田駅を経て道路上を兵庫駅へ向かっていました。
地上線跡は道路となっています。写真は板宿側から西代駅方向です。正面に山陽電車を越えていた道路橋が見えます。この先で線路は急カーブで左に曲がり、すぐ西代駅がありました。現在線路と駅は地下にありますが、基本的に地上時代と線路の形は変わっていません。
地上時代の西代駅を出発した3050形アルミカー。山陽電車の駅によく見られる形の橋上駅舎がありました。1988(昭和63)年8月15日。西代駅の西にあるのに「西代東踏切」なのは元々駅がこの地より西側にあったことを物語っています。
かつて西代には山陽電車の車庫がありました。地下化工事のため車庫は東須磨に移転しましたが、車庫移転後も側線が残り新造車の搬入などに使われていました。写真は1968(昭和43)年頃。神戸高速鉄道開通直前、西代駅橋上駅舎から西方向を撮影したもの。兵庫へ向かう3000系特急の姿。中央は旧下りホーム跡で当時は運転指令室として使用されていました。左下隅に地下道入口が写っていますが、現在もこの場所に残っています。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
西代駅すぐ西側にあった踏切跡から東方向。中央に地上時代の写真にあった地下道の入口があります。旧線路跡と南側の地盤に段差があります。
この写真は1968(昭和43)年、神戸高速鉄道開業直前、西代駅東方で地下線へ入る3000系と、兵庫駅から地上線をやって来た2000系ステンレスカー2014号の姫路行き特急。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
11/7写真追加。同じ場所を同じ角度から。現在では電車が地下に潜っていた場所とはとても思えません。
同じ場所を西方向へ。歩道の左側(南側)の道がここで途切れており、かつて地下へ向かう勾配の横に付いていた道路だということが分かります。
同場所の航空写真(出典:Googleマップ)。兵庫スバル自動車の北側がかつてトンネルの入口があった部分です。

引き続き旧長田駅付近へ向かいます。クリックにもご協力を!
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【地下化】西代~板宿間の地上線路跡は今

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地下化工事の完成直前に阪神・淡路大震災で被災、そのまま地上線から現在線に切り替わった西代駅~東須磨駅間。ついこの間と思っていたのも四半世紀前となり、あの付近で地上を走っていた山陽電車の姿も記憶からも薄れつつあることでしょう。今回はその頃の痕跡がどこかに残っていないか、探索することとしました。

今日の起点は板宿(神戸市須磨区)。いつも賑やかな板宿商店街の南端出口に地上時代の板宿駅がありました。写真は地上駅舎跡で「山陽そば」は地上駅舎時代からありました。線路を挟んで南側にも細い駅舎があり、自動券売機が斜めに置かれていたことを思い出します。

板宿商店街の南端入口から東方向。この道路の下に山陽電車が走っています。

地上時代の同一場所。背景のビルは同じで「餃子の王将」が現在もありますが、茶色のビルに入っている「ケンタッキーフライドチキン」が以前は「ミスタードーナツ」だったことが分かります。(写真所蔵:山陽電気鉄道)

Google「過去の航空写真(1979-1983)」から。写真中央が板宿駅。駅から左斜め上へ延びている白い線が板宿商店街のアーケードです。かつて板宿本通りは北出口の手前で左に少し角度が付いていて、アーケードを抜けた先にダイエーがありました。

板宿駅から西代駅方向に歩いてみても、ほとんど鉄道の痕跡はありませんが、かすかに当時の面影を残しているところがあります。

こちらもGoogle「過去の航空写真(1961-1963)」から。左右に通っているのが山陽電車の線路で、左が板宿方向。写真中央に道路が線路を避けるように上部が欠けている区画があります。線路に沿った道路がここだけ一旦住宅地に入り、再び線路際に戻っています。

分かりにくいですが地上時代の当該地点。西代駅方向。踏切から細い道が線路に沿って付いていますが、写真右の自転車に乗った人物が写る付近で道が無くなり、民家が線路際まで迫っているのが分かります。(写真所蔵:山陽電気鉄道)

現在の同所を西側から。左手に黒っぽい車が走っている部分が地上線跡。航空写真で道路が線路を避けて少し折れている部分に当たります。

東側の線路際へ出ていた部分。奥が地上線跡となります。

地上線跡に出てみました。向こう側が板宿方向。元々線路際まで家が建っていた部分だけ歩道幅が狭くなっているのが分かります。この写真では手前の広い歩道部分のうち、右半分は地上線跡、左半分は元々線路際にあった道路ということになります。

過去の航空写真を見ていると、西代から山陽電車に沿っていた道路が、この辺りで左にカーブする線路と分かれ、板宿方向へまっすぐ伸びているのが分かりました。その延長線上が板宿本通りのアーケードが折れている部分と一致しており、妙法寺川に沿って北上する神戸三木線(県道22号線)の旧道であろうと思われます。近年は区画整理により大半が失われ、現在の航空写真ではごく一部が残るのみとなっているようです。

続いて西代駅付近を探索しています。クリックにもご協力を!
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【祝】山陽5000系デビュー35周年

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主に直通特急として活躍中の山陽電車5000系。1986(昭和61)年7月10日に営業運転に投入され、今年で35周年を迎えました。当時一挙に7編成が登場し旧性能車を置き換えたことはむ~パパの記憶には新しいところですが、もうあれからずいぶん長い年月が経ったものです。ちなみに5000系は制御方式が異なるものの同スタイルの5030系と合わせると、2000(平成12)年まで14年間にわたって増備されたため、非常に多くのバリエーションがあり趣味的には面白い車両なのですが、それは追々ご紹介するとして、今回は登場時の5000系の姿を追ってみましょう。

登場時、市販されていた下敷き。川崎重工構内で撮影されたトップナンバー5000号の貴重な写真です。右上に書かれた文字「フレッシュ!マロンシートカー」「普通車でデビュー!」にご注目。登場時の5000系は旧性能車の置換えという位置付けであり、全て3両編成で通常は普通車のみに使用されていました。また、先頭車と中間車では座席の色が異なっており、先頭車は茶色系、中間車は赤色系でした。「マロンシート」という言葉は当時沿線学生の間では流行りましたが、鉄道ファンにとっては意味の分からない単語でした。シート色も特に栗色という感じではありませんでしたし・・・。(所蔵:む~さんパパ)

高架になる前の西飾磨駅で行き交う5000系。網干線は当時ワンマン運転にはなっておらず、3両編成だった5000系も運用されていました。1986年に登場した1次車7編成(5000~5012)のうち、最後の5012号(写真右)は川崎重工の試作ボルスタレス台車を履いて登場しました。のち5018号の台車と交換し他の1次車と揃えられました。山陽電車では以後ボルスタレス台車の採用はありませんでしたが、現在阪神電車から乗り入れて来る9000系・9300系・1000系にはボルスタレス台車が採用されています。(写真所蔵:山陽電気鉄道)

登場時の座席。これは先頭車のもので中間車はこげ茶とワインレッドの組み合わせとなっていました。(写真所蔵:山陽電気鉄道)

試運転中5000号の貴重なショット。震災まで存在した地上時代の西代駅で。後方は現在もそのままの姿で建っている山陽電車の本社。(写真所蔵:山陽電気鉄道)

同じく試運転中の5000号。舞子公園駅。明石海峡大橋の完成や橋上駅舎化により風景は激変しました。駅の北側にあるマンションもまだありません。(写真所蔵:山陽電気鉄道)

同じく舞子公園駅で、今は無き3202号。3号車の3621号はOK台車を履いています。まだ現塗装車は登場していません。(記録によると1986.7.15に登場したとのこと。)
(写真所蔵:山陽電気鉄道)

それにしても豪華な普通車が登場したと驚いたものです。クリックにもご協力ください。
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【孤軍奮闘】最後の未更新編成3028号

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旧標準色3030号が定期運用から退き、編成単位で残る3000系未更新車は3028号のみとなりました。すでに代替となる6000系も活躍を開始しており引退も目前と思われます。「Last Run」ヘッドマークも緊急事態宣言下で装着されるかどうか微妙な情勢です。そんな3028号をご紹介しましょう。

地上時代の西代~板宿間を走る旧標準色時代の3028号。2000系改造の3554号を3号車に加えた4両編成で、揃って冷房改造を受けました。3028号は3000形3次型の後期タイプに属するトップナンバーで、貫通路がやや上部に移っているため貫通路にある窓の上部に少し隙間があるのが特徴です。車内も床面と貫通路に段差が復活しています。
(写真所蔵:山陽電気鉄道)

地上時代の板宿駅に進入する3028号。3614号は3000形では3次型ですが前期型に分類され、貫通路が低く正面貫通路の窓と幌枠に隙間はなく、車内も貫通路と床面は面一です。3550形を加えた4両編成は3000系黄金時代の一コマと言えるでしょう。
(写真所蔵:山陽電気鉄道)
地上時代の西代駅を通過する塗装変更後の3028号。比較的早くに塗装変更されており、ヘッドライトケースは原型のままで、車体色のクリーム色が塗られています。3両編成となり普通列車に運用される3028号。現在はこの姿で活躍中です。

あれほどたくさんいた3000系未更新車もとうとう1編成が残るのみとなりました。最後まで応援よろしくお願いします。クリックにもご協力を!
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【ふたば学舎】神戸市内に残る貴重な戦前校舎

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コロナでお蔵入りとなっていました記事です・・・。

長田区にかつて存在した二葉小学校。旧校舎は廃校後、地域活性化のためのコミュニティスペース「ふたば学舎」として活用されていますが、いわゆる近代建築としても貴重な存在です。
1929(昭和4)年築。鉄筋3階建てで3階中央部が講堂となっています。かつて神戸市内でもよく見られた様式で、山陽電車東須磨駅に隣接する東須磨小学校も同じ形式の校舎でした。東須磨小学校のほうは1926(大正15)築ですので、二葉小学校よりやや古いです。(すでに阪神大震災前に建て替えられています。)

各部に施された曲線が大正~昭和初期に見られる意匠。太平洋戦争に突入する前にあったひと時の余裕が感じられます。

この種のデザインは鉄道車両も例外でなく、1937(昭和12)年に製造され「金魚鉢」と呼ばれた阪神国道線71形にも窓上や扉の上に同様の曲線が施されていました。(写真は尼崎市内で保存されているもの。)

ふたば学舎の内部。手は加えられていますが、校舎としての雰囲気は残されています。かつての東須磨小学校(む~パパは卒業生でして・・・。)もよく似た感じでした。

階段部分。映画のロケに使えそうですね。

講堂部分。一方には1段高い演台(舞台?)があり、多目的に使用できるようになっていました。天井の装飾は意外にシンプルです。

戦争・震災をくぐり抜け現代に生き残った昭和初期の鉄筋校舎。これからも末永く活用されることを期待します。クリックにもご協力を!
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【初めての】鉄人ビアガーデン!!

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行きたい行きたいと思いつつ、なかなか行けなかった「鉄人ビアガーデン」に、む~パパ&む~ママ、今年初めて参加しました。む~さんとむ~さん妹、おばあちゃんちに行ってて留守。大人の休憩です!

どこか懐かしい香りのするチラシ。テーマは1960年代とか。

む~パパ、仕事帰りの20時過ぎ。ちょっと遅くに会場の鉄人広場へ到着。平日なんですがお盆に入った1週間とあって、大勢の人たちで賑わっていました。
一応入口らしいですが、全体にオープンスペースなので気にしなくても良いです。


とりあえず”鉄人”。

いろんな料理を扱う屋台が並んでいます。事前情報では鯨カツがあるらしい。む~パパ、まずは屋台を見て回り・・・。


どて焼き、チヂミとともに、鯨カツをゲット!神戸市の小学校出身で現在40代くらいのみなさんであれば「鯨肉のノルウェー風」っていう、どこがノルウェーやねん!とツッコミの入りそうな鯨料理が給食で出ていたことを記憶されておられるのではないでしょうか?鯨肉のカツ、どこか懐かしい食感でしたよ!

※この給食料理、「鯨肉の”ノールウェー”風」と表記されていたのではないか、というご意見をいただきました。む~パパもそうだったような気がします。誰か覚えていませんか?


にしても、なかなか混雑は収まりません。

鉄人ビアガーデンは16日まで。鉄人の足元でお酒と料理を味わってみませんか?

まだまだ暑い日が続きます。冷たいビールで乾杯!クリックにもご協力を!
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