楽しいむ〜さん一家

【831号】最後まで東二見に残った820形

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山陽電車820形は1948(昭和23)年、我が国戦後初のロマンスカーとして登場しました。形式としては800形だったようで、中途半端な820から車番が始まっているのは運輸省から割当てを受けたモハ63形(63800~63819)が下3桁(800~819)を使い元は800形と称されていたので、その続番であるというのが通説です。しかし、近年の研究によるとモハ63800~63819は正式に「800形」と呼ばれたことはなく、あくまで「モハ63800形」であり、ゆえに「いわゆる820形が本当の意味での800形である」という最初の話に戻るわけですが、そもそも国への届出上は「クモハ3000」など単体のものだけであって、「3000系」という呼び方は会社内や鉄道ファンの間で呼び慣わされているに過ぎない、実ははあやふやなものなのです。

が、まあそれはともかく。
820形はトップナンバー「820-821」が東二見車両工場に保存されていましたが、老朽化のため解体されたというお話は、以前ここ(←リンク先へ飛びます)でしました。実際にはこの他にも残された車両がありました。

ラストナンバー編成である830-831号のうち830号は、西代本社にあった教習所の教材として使用されていました。青一色の車体が新鮮で、車庫が西代から東須磨に移った後もしばらく置いてありました。車籍は無かったため本線走行はできなかったものと思われます。いつのまにか解体されてしまいました。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
東二見車両工場に鎮座していた256号(左)と831号(右)の車体。830号と820-821号解体で、820形はすべて失われたと思われた中で、人知れずひっそりと残っていたのがこの831号でした。820形のうち最後の4両(828~831)は1973(昭和48)年に廃車となっています。相方の830号が教習車となり、この831号は車体のみが活用されたようです。皮肉なことに831号が800形(820形・850形)で最後まで生き残ることになりました。(1997年頃 写真所蔵:山陽電気鉄道)

その後、東二見車両工場敷地の一角はセブンイレブンとなり、831号はあえなく解体、831号のあった場所に256号が移動して据えられています。両方とも解体されると思われましたが、256号は何とか生き残りました。

831号があった場所に移り現存する256号の車体。台車は東京メトロ(当時は営団地下鉄)に寄贈され、地下鉄博物館所蔵の「日本最初の地下鉄(東京地下鉄道1001号)」に取り付けられています。
その時の記事は→こちら

830-831号の現役時代。日本初の軸はり式台車OK-3を履いています。教習車になった後の姿と外観は変わりなく、最後まで前面の方向幕は取り付けられなかったと思われます。831号の台車は1973(昭和48)年の廃車時に失われたものと考えられますが、830号の台車は残り、現在も東二見車両工場と川崎車輌本社に1つずつ保存されています。(1968.5.17 東二見車庫 所蔵:山陽電鉄OB)

日本の鉄道史に名を残した貴重な車両ではありましたが、保存するのは難しかったでしょうね。



【西新町】明石車庫・車両工場跡地は今

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西新町駅
近代的な高架駅・西新町。かつてここに山陽電車の車庫と車両工場がありました。1968(昭和43)年、東二見に移転後、敷地の大部分はマンションに、残りは保守基地や資材置き場などになっていましたが高架化、保守基地の中八木への移転、病院の建設など、以前の風景を想像しにくくなってきました。今回は昔の写真を交えて車庫・工場のあった時代を思い起こしてみましょう。
Google Mapより現在の西新町駅付近。駅の北側の「ふくやま病院」とマンション「明石ハウス」が位置する三角形の土地が元々車庫・工場のあった部分です。
国土地理院地図より1961(昭和36)年の西新町駅付近。車庫・工場に通じるたくさんの線路が敷かれているのが分かります。周囲はまだ田畑が目立ちますが、東側はすでに宅地化が進んでいますね。
山陽電鉄OBが撮影された写真より。明石車庫。はっきりと撮影年代を特定できないのですが、中央に見えるのは820形828号。一番右は200形206号。820形がまだ前面非貫通であることや現在東二見で保存されている206号が現役でいることから昭和30年代半ば(1960~63年頃)と思われます。
山陽電鉄OBが撮影された同じような角度の写真はもう1枚あり、こちらは手前に本線が写っています。上の写真より時間が経っていまして、820形や850形がすでに前面貫通化されていたり、300形や2700形といった5000系登場まで走っていた車両が顔を揃えていますので、東二見移転直前と思われます。右から2番目はすでに現役を退き入換車になっている206号の姿があります。
現在の同じ場所を上の車庫写真とほぼ同じ角度で撮ってみました。少し引き気味ですが雰囲気は伝わると思います。本線から扇型に広がる土地だけが車庫だったことを物語っています。
ふくやま病院の西側にあるマンション。車庫・工場の敷地をなぞるように建てられています。
車庫敷地西端側。昔の航空写真によると西端には建物があり、西代や飾磨のように電車が並んでいる姿は道路側から見えなかったと思われます。
空爆犠牲者の碑。1945(昭和20)年6月9日の空襲の際、明石車庫・工場が被弾し社員31名が亡くなられたことが記されています。む~パパの叔父は近くの川崎重工明石工場に動員され働いていましたが、爆弾の破片が頭のすぐそばを飛んだと話していました。(6月9日の攻撃では川崎重工の被害はほとんどありませんでしたが、明石公園周辺と市内西部が被害を受けたとのことです。)日本が平和であるのも、失われた多くの尊い命の上に成り立っているものと感謝しなければなりません。

【地上線】山陽長田駅周辺の今昔(その1)

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現在は阪神神戸高速線の駅となっている高速長田駅。かつてここは山陽電車の地上線時代、長田駅がありました。長田駅から当時の起点、兵庫駅までは道路上を走る併用軌道で「路面電車」だったのです。そもそも軌道として出発した電鉄には当たり前の光景で、元をたどればアメリカの都市間を結ぶ電鉄に普通に見られた姿、そして日本で最初にそれを採り入れたのが阪神電車なのですが、そこらへんの話をしていると長くなってしまうので、今回は長田駅周辺の今と昔を比較してみたいと思います。
そもそも長田駅がどこにあったのかというと、いつもの「Google Map」昔の航空写真によると、村野工業高校の向かい側のようですね。現在は長田警察署の前。すぐ南には神戸市交通局長田車両工場がありました。東洋一の市電と称され、戦前に名車700形ロマンスカーを生み出した名門工場です。のち市バスの整備工場となり、現在は西神南のハイテクパーク内に移転しています。機会があれば別途ご紹介しましょう。(写真:Google Map)
山陽電車の長田駅正面。手前が兵庫方。東向きに改札口がありました。奥に見える塔のある建物は長田消防署で、現在は中央幹線の南側に移転しています。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
現在の旧長田駅付近。電車が走っていた痕跡は全くありません。
西側から。現在でもまだまだ地方私鉄で見られるような光景です。電車は820形。日本初のOK台車を履いた830-831の編成です。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
上写真よりすこし西側の現在。正面左に村野工業高校が見えます。西代方面から来た山陽電車は、ここで新湊川を渡るとすぐ長田駅に進入していました。
長田駅ホームから西方向。新湊川橋梁が写っています。現在ほどの勾配は無いようですね。電車は2000系ロマンスカー2002号。正面窓はすでにHゴム支持に改造されています。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
長田駅ホーム東方向。兵庫行きの200形電車が停車中。流線形スタイルを残しながら正面の傾斜がなくなったタイプですね。道路には何ともクラシカルなプリンスグロリアの姿が見えます。(写真所蔵:山陽電気鉄道)
現在のほぼ同じ位置。風景は一変し、電車が走っていたとは信じられない風景です。

さて、長田駅を出た兵庫行き電車は交差点で神戸市電と平面交差していました。
以下続きます。

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【まもなく見納め】旧標準色の事始め【820形】

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今月で見納めとなる旧標準色の3030号。ファンのみなさまも徐々に盛り上がってきていることと思いますが、緊急事態宣言中のため昔の写真を引っ張り出してきました。

さて、この旧標準色はいつ始まったのでしょうか。一部のファンからは「阪神ジェットカーに似ている」との指摘もありますが、あのツートンカラーは1958(昭和33)年に登場したものです。山陽電車に登場したのは1948(昭和23)年ですから、10年も前ということになります。

当時のカラー写真が残されていないので模型で再現。1948(昭和23)年、日本は戦後の混乱期を脱出しつつありましたが、まだ電車は「乗れれば良い」時代にデビューしたのが820形(形式呼称は800形)。我が国では戦後初のロマンスカーで、しかも特別料金不要の車両としては破格の設備を誇りました。この車両で初採用されたのがネイビーブルーとイエロークリームのツートンカラーです。山陽電車にとっては戦後復興を象徴し新しい時代へ発展するテーマカラーとなりました。田舎電車から都市間高速鉄道へ脱皮したことを示すカラーリングだったのです。(模型提供:NEXT)

ここからは以前山陽電鉄にお勤めの方からご提供いただいた写真をご紹介します。商用利用はご遠慮ください。(ご利用の際は山陽電車までお問い合わせください。)

820形か、その改良型850形と思われる車内。扉間には転換クロスシートが並び、いかにも特急電車らしい風格です。これが戦争が終わって3年後に登場した車両。日本が急速に復興していったことを示しています。


姫路駅に停車する820形826-827。この編成は西代車庫の火災に遭い焼失、850形と同一の車体を新造したもので、前面のアンチクライマーが無く、屋根の通風器も850形と同じものでした。写真で台車が820形のものではなく、700形のDT-13Sを履いていることが分かりますが、これは西代で同時に焼失した712-713のものです。背景の山陽百貨店もまだかなり低く、撮影は1960年よりは前ではないかと思われます。

820形824-825。尾上の松~高砂間と思われます。正面窓のうち2枚は登場時横桟が入っていましたが、のちに1段となっています。同じ川崎車輌製の小田急や京阪のロマンスカーと共通する整ったデザインでファンからも人気がありました。写真は普通列車に運用中のもの。2000系登場後は主役を譲りロングシートに改造されました。

820形はのち850形と共に正面に貫通扉が取り付けられました。末期は270形と3両編成を組んで活躍。神戸高速鉄道にも乗り入れていました。写真で見るとパンタグラフが変わっていることが分かります。

820-821は廃車後もしばらく東二見車庫で保管されていましたが老朽化のため解体され、今は見ることが出来ません。(1982年7月)

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