楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】尼崎港線を歩く(後編)

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中編より続きます。終点尼崎港駅から先へ延びていた専用線跡を歩いてみました。

左側が尼崎港駅跡。現在は「南城内緑地」と呼ばれています。その名の示すとおり、ここは尼崎城の中で、この人工的な水路は外堀です。右側の土地は築地町といい、江戸時代に小さな2つの島を埋め立てて町にしたもので中国街道も通っていました。
江戸時代の絵図。中央に描かれた区画に「築地町」の文字が見えます(築地町は寛文4(1664)年に完成)。その上部が尼崎港駅のあった部分で南浜と言います。家老5名の屋敷が並び五軒屋敷(ちょうど5つの区画がありますね)と呼ばれていました。上写真はこの絵図の築地町左上の角付近から撮影したもので、当時の区画がそのまま残っています。
※画像は「寛文十年頃尼崎城下絵図」尼崎市公式ホームページより転載
尼崎港駅のある南浜より西へ向けて線路はまだ延びていました。すでに鉄橋は失われていますが。橋台だけが残っています。
ほんのわずかですが、西側の橋台に切り取られた線路が・・・。
廃線跡は「中在家緑地」となって西へ続いていました。
緑地をしばらく歩くと、廃線跡は左右に分岐します。右がAGC(旭硝子)尼崎工場へ、左が日本製鉄(当時は住友金属)尼崎製造所へ向かいます。
AGCへ向かう線路跡は、線路を取り払っただけで細長い空き地として残っている部分があり、今にも貨物列車がやって来そうな雰囲気を残しています。
線路跡をたどるとAGCの工場に吸い込まれます。列車の通過に合わせて開閉していたであろう門扉が今も残っています。
一方、日本製鉄へ延びる線路は痕跡がほとんど残っていません。これは橋台でしょうか???位置的に線路跡のようではありますが・・・。
その向かい側の工場敷地にはいかにも「後から塀を作りました」的な白い壁がありますが、ここを線路が通っていたのでしょうか?この先は工場敷地内となり、どうなっているのかさっぱり分かりませんでした。
尼崎港線から来る線路は無くなってしまいましたが、ここ日本製鉄尼崎製造所には構内輸送用の線路が敷かれており、一部が公道を横断しています。小さな機関車が貨車を牽いて行き来する姿を見ることが出来るそうで、実は隠れた人気スポット。この日は場所だけ確認して阪神尼崎駅まで歩きましたが、また次の機会に取材したいと思います。

【廃線跡】尼崎港線を歩く(中編)

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前編より続きます。

線路跡を使った道路をしばらく歩くと、何となくそれらしい雰囲気が。道路は狭くなり、線路用地は工場や住宅などに転用されていることが分かりますが、時おり怪しげな空き地に出会います。
さらに進むと、天神橋緑地。廃線跡をそのまま公園(と言うには狭いので名前のとおり「緑地」なのかも)にしたものです。
車止め標識の形をしたモニュメント。足元にレールを表現したレンガが敷いてあり、かつて鉄道が存在したことを示しています。
「金楽寺駅」があった付近に、旧国鉄の用地杭がありました。以前高砂線跡を歩いた時にもご紹介しましたね。尼崎港線跡でも複数確認できました。
廃線跡は国道2号線を越え南下。線路跡には住宅が建ち並んでいますが、こうして見ると廃線跡の両側は比較的古い住宅がありますが、中央の1列だけが新しい家です。線路敷地幅だけの細長い区画が続いています。
しばらく進むと廃線跡(写真の歩道左側)は大物駅付近で阪神電車と交差します。走ってきたのは山陽電車5000系の直通特急。阪神大阪梅田までラストスパート!
阪神電車の大物変電所。どうやら尼崎港線の跡地に建っているようです。
阪神本線・なんば線をくぐると、右側に阪神尼崎車庫と工場が広がっています。最後の青胴車5025号が休んでいました。
この先に転用されず線路跡をはっきり残す区画がありました。
古いレールを使用した柵がいかにも線路際という感じですね。近代的な阪神電車の車庫前にこんなローカル線が走っていたのは驚きです。
終点尼崎港駅付近。このあたり、東西にヤードが広がっていました。現在は公園になっています。ただ、線路はここで終わりではなく、この先の工場まで敷かれていました。

次回はその専用線跡をたどりましょう。


【廃線跡】尼崎港線を歩く(前編)

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兵庫県の鉄道廃線跡を探索するむ~パパ。今回は塚口駅と尼崎港4.6㎞を結んでいた尼崎港線を歩きます。この路線は元々単独の路線ではなく福知山線の支線として作られました。この点、播但線の一部だった飾磨港線とよく似ていますね。旅客輸送は貨物輸送のついでだったようで1981(昭和56)年3月31日に廃止。次いで1984(昭和59)年2月1日に路線そのものも廃止されてしまいます。

今回のウォーキング起点、JR塚口駅。ここから尼崎港線が分岐していました。とりあえず線路沿いを南へ向かいます。
写真奥の伊丹駅から南(手前側)へ伸びる線路。左2組がJR宝塚線(福知山線)。右の1組が尼崎港線です。このあたりは現在も線路が残っています。
名神高速道路をくぐると線路は3つに分かれます。一つは現在線でJR尼崎駅(下り線)へ接続するルート。廃線となったのは尼崎駅上り線へ接続するルートと尼崎港線のルート。尼崎港線はまっすぐ南下し、土手を登って尼崎駅を越えていました。あえて避けると話がややこしくなるので書きますが、この分岐地点すなわちこの写真を撮った背中側が、2005年4月25日に列車が脱線し多くの犠牲者を出した「JR福知山線脱線事故」の現場となります。この写真は上り線へ接続する線路跡のようです。
もう少し南側へ移動します。尼崎港線は写真奥から手前側に伸びていました。写真中央左側の塀が線路跡を示しています。
そのあと、現在建設工事が進む区画やマンション駐車場となったりしながら、廃線跡は南へ向かいます。写真では白いフェンスのある場所がそうだと思われます。JR尼崎駅北側は開発が進み当時の面影を残すものがほとんど消失しています。
JR東海道線の尼崎駅西方を南側から撮影しました。高層マンションが林立しています。尼崎港線は築堤を登り、この少し左側で東海道線を越えていました。近代的な街路からは全く想像もつきません。
ここから南側の線路跡は道路や住宅へと転用されています。この道路は線路跡をそのまま使用したもの。ここまで分かりにくかった廃線跡は、この先はっきりと姿を現します。

以下、続きます。

【1986年】あのころの阪神電車・須磨浦公園にて

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友人の遺した写真をご遺族から譲り受け、公開しています。今回は懐かしい阪神電車の姿をご紹介します。直通特急が走り始める12年前、仲良く阪急電車と須磨浦公園で折り返していた時代の記録です。
こちらへもどうぞ!→【1986年】あのころの山陽電車・須磨浦公園にて
         →【1986年】あのころの阪急電車・須磨浦公園にて

須磨浦公園を出発した3501形。1958(昭和33)年登場。19m3扉の車体や貫通型の正面に2灯のおでこヘッドライトといった「阪神スタイル」を確立した歴史的名車で、赤胴車と言われる塗装はこの3501形から始まりました。この写真が撮影された1986年より8000系への代替廃車が始まっています。(1986.9.14 須磨浦公園)
こちらは7801・7901形。1963(昭和38)年より小型車を置き換える目的で大量増備された車両です。コスト削減のため車体裾を丸める加工をやめ、正面が平面となるなど簡素な外観が特徴です。発電ブレーキも省略されていました。賛否はありますが、む~パパ、阪神電車といえばこれ!という大好きな車両でした。(1986.9.14 須磨浦公園)
終点・須磨浦公園に到着間近の3000系。7801・7901形と増結用の同型車3521形を改造した界磁チョッパ制御車です。写真の先頭に立つ3206は元7812。3521形後期車から改造されたものは正面の雨どいが埋め込み式でしたので顔の印象が異なります。(1986.9.14 須磨浦公園)
7840号。7801・7901形のうち1970(昭和45)年から製造されたグループ。同時期に製造された7001・7101形と組成するため同じ外観です。元々のパートナーである7001・7101形より方向幕の取付けが早かったので、一時期ペアを組んでいる姿はあまり見なかったのですが、全車に方向幕が装備された後は写真のような美しいお揃いの編成も走っていました。ただ、む~パパ的には背の高さが違ういろんな形式を組み合わせた凹凸編成が、かつての阪神電車の魅力だとは思っています。(1986.9.14 須磨浦公園)
上写真の7840号の大阪方に組まれているのが7001・7101形。日本初のサイリスタ・チョッパ制御車(電機子チョッパ制御・力行のみ)で阪神初の冷房車でもあります。写真は同形式のラストナンバー。のち上写真の7801形40番台以降と共に添加励磁制御に改造され2000系となりました。(1986.9.14 須磨浦公園)
旧塗装が懐かしい8000系。この写真撮影時は8211・8213・8215の3編成が登場していました。阪神大震災での被災廃車もあり、リニューアル改造で塗装が変わったりしましたが、現在も直通特急として毎日元気に活躍中。背景に見えるベルトコンベアも神戸市民には懐かしい光景です。(1986.9.14 須磨浦公園)

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その3)

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甲子園口駅で国鉄(現JR)東海道線に接続した阪神武庫川線ですが、ここで終わりではなく東海道線に沿って西ノ宮(現西宮)まで実際に線路が敷かれていました。

今回は線路に沿って西宮まで歩いてみましょう。

甲子園口駅の少し西側にある通路。線路の北側に出るためのものです。高さが低いので反対側に行くにはかがんで通過しないといけません。写真は南側。
北側は煉瓦造りの丸い出入口となっています。東海道線の大阪~神戸間は、日本で初めて鉄道が通った1872(明治5)年に遅れること2年の1874(明治7)年に開業した日本で2番目に古い鉄道路線で、この通路も同時代(明治29年の複線化時のものという情報があります)のきわめて古いものと考えられます。今年はこの区間開業150年記念の年にあたります。
この通路は北から入ると途中でコンクリート造りの四角いものに変わります。元々の通路は煉瓦の部分で、四角い部分は阪神武庫川線の築堤を付け足した際に延長されたものと言われています。(写真は南側から撮影)※大正15年という説もあります。
そこから線路際を西宮方向に歩くと、他の方のブログにも紹介されていますが阪神電鉄の用地杭が建っています。現在も阪神電鉄の土地かどうか定かではありませんが、阪神の路線がここまで来ていた証ではあります。
蒸気機関車の給水塔を模したモニュメント。タンクを支える足の部分を利用しているようです。
モニュメントに取り付けられたプレート。当時この区間は電化されており、周辺に蒸気機関車運用のための設備はなかったことから、新たに給水塔が建てられたようです。
当時も国鉄は複々線だったはずです。4本の線路の南側(写真では右側)に阪神武庫川線の狭軌線路が通っていたのですが、現状からは想像もつきませんね。
散策途中で見かけた使われていない鉄橋。武庫川線の遺構かと思いましたが、鉄橋の銘板には昭和29年とあり、当時のものではありませんでした。が、武庫川線を用いた貨物輸送は昭和33年頃まであったといいますので、この鉄橋が使用されたことがあるのかも知れません。単にアサヒビール専用線のものだったかも知れませんが・・・。
現在のJR西宮駅。貨物専用とは言え、阪神電車の路線がここまで延びていたというのは興味深いことですね。

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その1)
【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その2)

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その2)

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前回(その1)の続き。武庫大橋から北側の廃線跡を歩きましょう。その前に、む~パパが前回歩いた1982(昭和57)年の2年前、1980(昭和55)年の廃線跡を記録したブログをご紹介いただきました。管理人さまに許可を得てリンクを貼っています。2年違いですが旧武庫大橋駅に杭が打たれていたり、変化があります。
↓ リンク先
阪神武庫川線廃線区間の記録: 国鉄・私鉄の思い出 (seesaa.net)

武庫大橋西詰。以前は阪神国道線(路面電車)が走っていました。武庫川線は国道線と交差し、北へ向かいますが、旅客営業はここまで。これより北側は国鉄による貨物輸送のみだったとのことです。
武庫大橋から北側は廃線跡が今もそのまま残っています。フェンスに囲まれた不思議な空間が堤防の脇に続いています。昔は線路も残っていたとのことですが現在は何もありません。
その先は右側の堤防に線路が敷かれていたそうですが、盛土もされてさすがに線路跡という雰囲気はなくなっています。
南へカメラを向けています。左が武庫川。堤防より1段下の空間(写真中央)が廃線跡だそうで、かつては線路が残っていたそうです。
この先は国鉄(JR)線に接続するため左へカーブします。写真のマンションは線路跡のカーブ上に沿って建っています。かつては阪神電鉄系の会社が事務所を構えていたそうです。
マンション敷地の延長上にある築堤。国鉄(JR)へ合流するような構造になっています。
この先はJR甲子園口駅構内になりますが、何やら怪しげな構造物が残っています。恐らく阪神武庫川線の甲子園口駅関連遺構と思われます。
この遺構を西側から。この一角だけが妙に怪しい雰囲気です。
怪しい構造物の延長線上にある駐輪場。ここは阪神武庫川線の甲子園口駅建設予定地だったそうで、最近発見された図面によると国鉄への貨物線とは分岐してホームが設けられる予定だったようです。実際は旅客電車が走ることはなく、貨物列車がここから東海道本線と並走し西ノ宮(現西宮)へ向かっていました。
現在のJR甲子園口駅(南口)。それなりに商業集積のある中間駅ですが、もし阪神電車の支線が接続していたら、少しは街の姿も変わっていたかも知れませんね。
「その1」~「その2」のルート。(Google Mapより)


【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その1)

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5000系・5030系の直通特急が行き交い、山陽電車沿線のようではありますが・・・。
ここは阪神電車武庫川駅。阪神電車には川の上にホームが設けられている駅がいくつかありますが、川幅の広い武庫川を横切り、その両岸に改札口がある武庫川駅はそうした駅の代表格と言えましょう。冬のやわらかい日差しが川面に反射して・・・、にしても、寒い!

武庫川駅からは短い支線「武庫川線」が走っています。む~パパが小さい頃は2つ先の洲先駅まででしたが1984(昭和59)年に武庫川団地駅まで延長され、現在の営業キロは1.7㎞。編成ごとに違うカラフルな色に塗られた5500系が専属で活躍しています。写真は本線改札内から見た武庫川線のホーム。中間改札が設けられていますね。

今回この武庫川線の「廃線部分」を歩いてみます。武庫川線は浜手にあった軍需工場(川西航空機→現在の新明和工業)への従業員輸送および資材搬入のために建設されたもので、1943(昭和18)年に武庫川~洲先間が、その後武庫川駅より北側の路線が国鉄(現JR)甲子園口駅を経て西ノ宮(現西宮)駅まで建設されました。途中、阪神国道(現国道2号線)との交差部には武庫大橋駅が設けられ、阪神電車はここまで運行されていました。国鉄からは資材運搬のため貨物列車が乗り入れており、武庫大橋駅以南は狭軌と標準軌両方の列車が入れる3線軌条となっていました。

さて、武庫川駅から北側を見てみます。堤防に沿って線路が北上しています。左側から合流するのは阪神本線との連絡線で、車両を本線から出し入れするためのもの。む~パパ、小さいころから何やら怪しげな線路が北へと続いているのを見て「いつかは歩いてみたい」と思っていまして、まだ武庫大橋駅のホームが残っていたころに行ったことはあるのですが、久しぶり(40年以上ぶり!)の再訪となります。
※あらかじめお断りしておきます。この廃線跡については多くの方がブログ等で紹介されています。今回の記事はこれらを参考にさせていただき、実際に歩いてみたものです。

線路が敷かれている部分は、現在も引上げ線として必要な長さのみのようです。昔はもう少し短かったような気もしますが、気のせいかも知れません。
さて、ここからは廃線跡の探索です。いきなり現れる遺構。線路は無いのに道路下を潜れるようになっています。む~パパが前回歩いたとき、洲先駅より南は3線軌条が残っていたのですが、武庫川駅以北は線路があったのは覚えているものの、詳しい記憶はありません。写真を撮っていなかったことが悔やまれます。この先に見える家は線路跡に建っているものです。

ここから先、堤防に沿った線路跡にきれいに住宅が建ち並んでいます。写真は比較的最近分譲された区画のようで、少し前の写真ではまだ姿が見えません。

ここから武庫大橋駅までの線路跡には隙間なく住宅が建ち並んでいます。川に沿ってカーブしている廃線跡がそのまま宅地となっています。以前歩いたときはまだ空き地で付近の方が畑などに使っており、少し掘り返せばレールが顔を出す状態でした。

国道2号線との交差部。武庫大橋駅があったところです。ここからはまだ北へ線路が続いていましたが、交差部は埋められ痕跡は無くなっていました。

武庫大橋駅跡。少し広くなっており、行き違いのできる駅構内の雰囲気をわずかに残しています。
1982年当時の武庫大橋駅跡。真ん中に立っているのは、かつてのむ~さんパパです。ホームがきちんと残っていましたが、レールは3線軌条ではありませんし標準軌のようです。国道下に北側へ抜ける開口部(前述のとおり今は埋まっています)が見えます。このとき撮った写真はこの1枚のみ。もっとあちこち撮っていればと悔やまれます・・・。

※追加情報がありました。かつてはここから北側に狭軌の線路が残っていて、国道2号をくぐるところに境目があり、線路が食い違っていたそうです。謎は深まります。

次回は武庫大橋駅以北を訪ねます。

【大阪】安治川トンネルと九条周辺を歩く【阪神なんば線】

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む~パパ高校生の頃、NHKで「匂いガラス」なるドラマ(唐十郎作 1986年放映)を見て、安治川トンネルという川底を通るトンネルの存在を初めて知ったのです・・・。とは言え、実はそのまま30年以上忘れてたのが最近、大阪市営渡船を回ったりした関係でふと思い出し、ちょっと周辺を歩いてみました。

阪神電車西九条駅。現在は阪神なんば線の中間駅で、JR環状線・桜島線と接続しています。2009(平成21)年の全通までは「西大阪線」の終着駅でした。当時はJR線を越えるため高い場所にある駅が途中でちょん切られたような形をしていましたが、西九条駅開業40年以上を経て大阪難波まで線路がつながり、当初計画が実現しました。む~パパとしては非常に感動したものですが、あの近鉄と阪神の線路がつながった日から14年とは、月日の経つのは早いものです。
さて、阪神なんば線の線路に沿って九条方向へ少し歩くと、ビルのような建物が見えてきます。これが安治川トンネル北側のエレベーター建屋。阪神電車は橋梁で安治川を渡っています。

水都と呼ばれる大阪。安治川は市内南西部にある多くの河川の一つで、水運が盛んなため架橋出来なかったことから市内の他の河川と同様、渡船が行き来していました。安治川の場合、多数の船が航行するため渡船も危険ということで、代替手段としてトンネルが設けられました。完成は1944(昭和19)年。空襲にも耐え現在も多くの人々に利用されています。

エレベーターを利用する自転車の方々。かつては自動車を載せるエレベーター(上写真左側の大きな入口)もありましたが、渋滞が激しくなったのと周辺に架橋が進んだため、現在は使用されていません。
川底を通るトンネル。長さは約80mで日本初の沈埋工法(あらかじめ作られたトンネル部分を川や海の底に沈めて土で埋める)で作られたものです。
こちらが南側のエレベーター建屋。都市部の川辺によくある殺風景な場所です。ちなみに歩行者は階段も利用できます。
かつてここには渡し舟がありました。交差点「源兵衛渡」という名前だけが残っています。後ろの高架は阪神なんば線。
安治川トンネル南側のエレベーターを降りると、そこは九条の商店街。庶民的な親しみやすい雰囲気にあふれています。写真の右側は阪神なんば線の高架。急角度で地下へ降りていくのが分かります。
騒音など環境対策なのでしょう。高度を下げる阪神なんば線の高架はカバーが掛かっていて中を通る電車の姿はほとんど見ることが出来ません。町の中を巨大な構築物が通過していますが、すでに日常の風景になっていることでしょう。
阪神なんば線が地下へ完全に潜る地点。高架上を走るのは大阪メトロ中央線。両線は九条駅で接続しています。大阪・関西万博会場へのメインルートとなる大阪メトロ中央線。山陽沿線からはこの九条駅で乗り換えるのが最も便利ということになるでしょう。
九条商店街から少し路地へ足を向けると、下町らしいカメラを向けたくなる空間が広がっていました。

他社で活躍した阪神電車② えちぜん鉄道MC1101形・MC2101形

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阪神電車からは赤胴車の3301形だけでなく、ジェットカーと呼ばれるクリームと青の普通専用車のうち相当数が、1101形・2101形(のちMC1101形・MC2101形)としてえちぜん鉄道(移籍当時は京福電気鉄道)に移っています。今回はこれらの車両を少しマニアックにご紹介しましょう。

こちらはMC1101形。車体は元阪神5101形で、10両が存在したジェットカーの両運転台車です。前回ご紹介したMC2201形とは異なり、中央の扉が埋められ2扉車となっています。下回りは阪神由来のものではなく「ジェットカー」の性能は持っていません。3301形同様、片側の前面に高圧配管が付き特徴ある顔をしています。
(2012.6.2 福井口・貸切イベント時、許可を得て撮影)
MC2101形。京福電鉄時代に元南海1201形である2001形を更新するため、機器を流用して製作した車両で、車体部分は元阪神5231形です。こちらも中央の扉が埋められ2扉車になっています。5231形は片運転台ですが、京福電鉄入線時に両運転台化改造を受けた車両があります。写真は両運転台化改造車。冷房は取り付けられていません。
(2012.6.2 福井口)

こちらは同じMC2101形ですが片運転台のまま残った車両です。こちらは冷房改造されています。
(2012.6.2 福井口・貸切イベント時、許可を得て撮影)

MC2101形で両運転台化された車両のうち、写真のように運転台を撤去し片運転台に戻った車両もいました。車番の書体が阪神電車のまんまです。
(2012.6.2 福井口・貸切イベント時、許可を得て撮影)
MC2101形の両運転台化改造車のうち、運転台を撤去した車両。前照灯跡がそのまま残っています。
(2012.6.2 福井口・貸切イベント時、許可を得て撮影)

ここで少~しウンチクを。MC1101形・MC2201形(元阪神5101形・3301形)は阪神電車初の大型車で、前面を上から見ると丸くカーブを描いていました。ところがジェットカーの増備車である5231形を前身とするMC2101形の前面は平面を組み合わせた三つ折りとなっていて、同時期の赤胴車である3601・3701形(のちの7601・7701形)と同じ顔をしているはずです。ちょっと検証してみましょう。

こちらはMC1101形(阪神5101形)の前面窓を拡大したもの。前面ガラスの外側が車体より凹んでいるのが分かります。前面のカーブに平面のガラスをうまく合わせようとした形跡が伺えます。
(2012.6.2 福井口・貸切イベント時、許可を得て撮影)
MC2101形(阪神5231形)の前面。こちらは車体が平面ですのでガラスがぴったりはまっています。反射する光でも前面に折れ目が付いているのが分かります。
(2012.6.2 福井口・貸切イベント時、許可を得て撮影)

む~パパ、小学生のときから山陽沿線に入ってくる阪神電車のうち3501形と7701形は車体が同じなんだけれども、顔の印象が何となく違うような気がする、なぜなんだろうと疑問に思っていたのですが、上記の違いを先輩から教えていただき、とても納得した覚えがあります。が、そのとき実車はすでになく、検証することが出来ずにいました。もう11年も前ですが、えちぜん鉄道で実際に違いを見ることができて良かったと思っています。

他社で活躍した阪神電車① えちぜん鉄道MC2201形

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大手私鉄など都市部の車両が役目を終えた後、地方に移って再び活躍する例は枚挙にいとまがありません。今回はそうした中から、かつてえちぜん鉄道で活躍した阪神電車の車両をご紹介します。

えちぜん鉄道MC2201形2204号。元阪神3301形3304号です。えちぜん鉄道の前身、京福電鉄時代に導入されました。線路の幅が異なるため台車は旧国鉄のものを使用しています。(2012.6.2 永平寺口)
阪神3301形は3501形とともに1958(昭和33)年、初めての赤胴車として登場しました。車両の前後に運転台がある「両運転台車」で、1両でも使用できます。阪神電車の赤胴車で両運転台だったのは3301形4両のみでした。えちぜん鉄道塗装になった後も、かつての阪神電車らしい曲線の多いプロポーションはそのままです。(2012.6.2 永平寺口)
阪神3301形と言えば、む~パパ世代には単行で武庫川線を走っていた姿が印象深いものです。冷房改造されましたが冷房用電源が無いので、武庫川線で使用されるときは冷房が入らなかったという話は、当時の鉄道ファンにとってのウンチクとして語り継がれていました。(1977.4.10 武庫川)
のどかな感じがする46年前の武庫川駅。3301形3303号はのちえちぜん鉄道MC2202号になりました。この写真は本線を通過する列車の先頭にも3301形が立っており、偶然にも2両の3301形が同じ写真に写っています。(1977.4.10 武庫川)

阪神電車時代、架線電圧の昇圧(600V→1500V)時に前面に取り付けられたいかめしい配管が魅力的です。写真は同好者による貸切運転時で、甲子園行きノンストップの看板が付けられています。(2012.6.2 永平寺口)

えちぜん鉄道にいた懐かしい元阪神車両は2014年、その活躍に終止符を打ちました。