楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】尼崎港線を歩く(前編)

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兵庫県の鉄道廃線跡を探索するむ~パパ。今回は塚口駅と尼崎港4.6㎞を結んでいた尼崎港線を歩きます。この路線は元々単独の路線ではなく福知山線の支線として作られました。この点、播但線の一部だった飾磨港線とよく似ていますね。旅客輸送は貨物輸送のついでだったようで1981(昭和56)年3月31日に廃止。次いで1984(昭和59)年2月1日に路線そのものも廃止されてしまいます。

今回のウォーキング起点、JR塚口駅。ここから尼崎港線が分岐していました。とりあえず線路沿いを南へ向かいます。
写真奥の伊丹駅から南(手前側)へ伸びる線路。左2組がJR宝塚線(福知山線)。右の1組が尼崎港線です。このあたりは現在も線路が残っています。
名神高速道路をくぐると線路は3つに分かれます。一つは現在線でJR尼崎駅(下り線)へ接続するルート。廃線となったのは尼崎駅上り線へ接続するルートと尼崎港線のルート。尼崎港線はまっすぐ南下し、土手を登って尼崎駅を越えていました。あえて避けると話がややこしくなるので書きますが、この分岐地点すなわちこの写真を撮った背中側が、2005年4月25日に列車が脱線し多くの犠牲者を出した「JR福知山線脱線事故」の現場となります。この写真は上り線へ接続する線路跡のようです。
もう少し南側へ移動します。尼崎港線は写真奥から手前側に伸びていました。写真中央左側の塀が線路跡を示しています。
そのあと、現在建設工事が進む区画やマンション駐車場となったりしながら、廃線跡は南へ向かいます。写真では白いフェンスのある場所がそうだと思われます。JR尼崎駅北側は開発が進み当時の面影を残すものがほとんど消失しています。
JR東海道線の尼崎駅西方を南側から撮影しました。高層マンションが林立しています。尼崎港線は築堤を登り、この少し左側で東海道線を越えていました。近代的な街路からは全く想像もつきません。
ここから南側の線路跡は道路や住宅へと転用されています。この道路は線路跡をそのまま使用したもの。ここまで分かりにくかった廃線跡は、この先はっきりと姿を現します。

以下、続きます。

【阪神電車】尼崎海岸線と金魚鉢(番外編)

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あけましておめでとうございます。新年最初は「阪神電車」から!

む~パパが昔からお世話になっている板宿の鉄道模型バー「日乃電」のマスターから、先日の「尼崎海岸線を歩く(その1)(その2)」の記事に対し、この尼崎海岸線が走っていた当時の非常に貴重な写真をご紹介いただきました。
これが当時の出屋敷駅。左から2本が本線、右の「出屋敷⇔高洲」の行先を掲げているのが海岸線の電車です。本線左側の801形や、中央のステンレス車体で人気のあった5201形ジェットシルバー(5201-5202号)もかなり目を引きますが、海岸線に使われている車両が国道線の路面電車であることもなかなか興味深いです。海岸線は元々は本線の車両(701形)が使用されていたそうですが、車両大型化の進展で先に廃車となってしまい、国道線の路面電車71形にパンタグラフを取り付けて使用していたとのこと。
※この写真は日乃電さま参加のイベントに来られたお客さま(氏名不詳)から提供されたもので、日乃電さまからは使用許可をいただいていますが、著作権上問題があるようでしたら、コメント欄からご連絡をいただければと思います。
再掲となりますが上の写真の同一箇所(現在)です。あまりに変わってしまい、昔の姿を想像すらできません。

さて、この路線でも使われていた路面電車の車両ですが、ファンからは「金魚鉢」と呼ばれ親しまれていました。今でも尼崎市内に2両が保存されており特徴あるその姿を見ることができます。(この他にも保存車はあるようですが非公開です。)
水明公園に保存されている阪神71形のトップナンバー71号。1937(昭和12)年に製造されたもので、各部が曲線で構成された車体と非常に大きな窓が特徴的です。同時代の近代建築と共通するデザイン思想を持つ産業遺産であり、日本を代表する路面電車車両の一つと言えます。
トップナンバー「71」の車番部分。
雨どいを省略し限界まで上に広げた側窓。昭和初期のモダニズムを強く感じます。
こちらは蓬川公園に保存される74号。71号と同じく公園の施設として利用されており、状態も同じような感じです。利用されているためか荒廃しているわけでもなく、廃止後47年を経ているわりには良い状態だと思います。


水明公園(71号保存)


蓬川公園(74号保存)

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【阪神電車】尼崎海岸線廃線跡を歩く(その2)

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今回は阪神電車出屋敷駅から分岐していた「尼崎海岸線」のうち、もはやその跡をほとんど留めていない国道43号線以南の線路跡をたどります。その1はこちら
尼崎海岸線を分断した国道43号線。この国道の建設に伴い、尼崎海岸線は廃止されることとなりました。
前回もご紹介した航空写真(出典:Google 昔の航空写真)。黄色い点線で示した廃線跡のうち、道路として残っている部分を赤で示しました。
現地を南側から撮影。線路跡と言われなければ、何の変哲もない道路となっています。
そこから先。現在は公園となっている部分と隣の敷地を仕切るフェンスが、一応廃線跡に沿った形となっています。
ここから線路はこの道路と並行する形となります。当時の写真を見ても何もないところを電車が走っており、ここからは線路を想像することも難しくなります。
Google昔の航空写真より。道路に沿ってからは航空写真でも線路が付いているかどうか不明確なのですが、出屋敷駅より1つ目の駅「高洲駅」の屋根は辛うじて確認することが出来ます。

現在の高洲駅跡。中央右寄りにあるバス停の屋根付近で、当時と同じ場所に現在の高洲停留所があると思われます。海抜0メートル地帯。ここからさらに東浜まで線路は延びていましたが、地盤沈下による浸水被害のため1951(昭和26)年に休止となり復活することはありませんでした。
ここから先、東浜までは直線で線路が延びていたと思われますが、現在も工業地帯で人通りも少なく寂しいところです。南から北に向かって撮影。
東浜から南側は海ですが、当時は埋め立て地のような感じでこの先も土地が広がっており、今とは地形が異なるようです。また、当時はこの先まで線路が延びていたような感じもするので、東浜駅はもっと先の今は海となっている部分にあったのでしょうか?謎は深まるばかり。
廃線跡近くの民家。恐らく道路をかさ上げした際に家の基礎部分とは段差が出来たものと考えられます。地盤沈下の様子がよく分かります。

痕跡の残っていない廃線跡も興味深い地形が残っています。クリックにもご協力を!
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【阪神電車】尼崎海岸線廃線跡を歩く(その1)

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阪神電車の出屋敷駅から、かつて「尼崎海岸線」という支線が南に向かって延びていました。当時のライバル阪急が阪神エリアを貫く新線計画を立て、それに対抗して阪神が免許申請したもので、この免許、阪神側に下りたため工業地帯への足として建設したものですが、国道43号線の建設に伴い1962(昭和37)年廃線となりました。廃線前は地盤沈下による浸水被害のため先の区間は休止された状態でした。廃線から60年近く。もう痕跡は残っていないものと思いましたが・・・。
おなじみ「Google Map昔の航空写真」より1945~1950年の出屋敷駅付近。尼崎海岸線は出屋敷駅から西へ出発、すぐ南下していました。こんな感じで線路が敷かれているのが分かります。
現在の出屋敷駅付近。よく見ると線路跡が残っているのが分かりますか?
線路跡は工場などに転用されていますが、比較すると現在も線路跡が分かる部分があります。
こちらは現在のGoogle Mapより。出屋敷駅部分を拡大。駅は近代的な高架駅に生まれ変わり、付近は住宅地化していますが・・・。
「出屋敷西公園」が廃線跡を活用しているのは言うまでもないですが、その北側にも阪神本線に合流するカーブ部分の線路跡が一部残っているようです。これは興味深い!

というわけで現地を取材してみました。
出屋敷駅屋上駐車場から南側を撮影。中央部に廃線跡を転用した公園。手前の斜めに仕切られた塀は本線への合流部でしょう。
出屋敷駅。この辺りから尼崎海岸線が南へ分岐していたのですが、高架化された現在そのような光景は想像すら出来ません。
駐車場の奥を斜めに横切る塀。この向こうが出屋敷駅から分岐する廃線跡です。
その先が出屋敷西公園。廃線跡をそのまま転用した細長い公園です。

今回はここまで。続いて国道43号以南の廃線跡をご紹介します。クリックにもご協力を!
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