楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】尼崎港線を歩く(後編)

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中編より続きます。終点尼崎港駅から先へ延びていた専用線跡を歩いてみました。

左側が尼崎港駅跡。現在は「南城内緑地」と呼ばれています。その名の示すとおり、ここは尼崎城の中で、この人工的な水路は外堀です。右側の土地は築地町といい、江戸時代に小さな2つの島を埋め立てて町にしたもので中国街道も通っていました。
江戸時代の絵図。中央に描かれた区画に「築地町」の文字が見えます(築地町は寛文4(1664)年に完成)。その上部が尼崎港駅のあった部分で南浜と言います。家老5名の屋敷が並び五軒屋敷(ちょうど5つの区画がありますね)と呼ばれていました。上写真はこの絵図の築地町左上の角付近から撮影したもので、当時の区画がそのまま残っています。
※画像は「寛文十年頃尼崎城下絵図」尼崎市公式ホームページより転載
尼崎港駅のある南浜より西へ向けて線路はまだ延びていました。すでに鉄橋は失われていますが。橋台だけが残っています。
ほんのわずかですが、西側の橋台に切り取られた線路が・・・。
廃線跡は「中在家緑地」となって西へ続いていました。
緑地をしばらく歩くと、廃線跡は左右に分岐します。右がAGC(旭硝子)尼崎工場へ、左が日本製鉄(当時は住友金属)尼崎製造所へ向かいます。
AGCへ向かう線路跡は、線路を取り払っただけで細長い空き地として残っている部分があり、今にも貨物列車がやって来そうな雰囲気を残しています。
線路跡をたどるとAGCの工場に吸い込まれます。列車の通過に合わせて開閉していたであろう門扉が今も残っています。
一方、日本製鉄へ延びる線路は痕跡がほとんど残っていません。これは橋台でしょうか???位置的に線路跡のようではありますが・・・。
その向かい側の工場敷地にはいかにも「後から塀を作りました」的な白い壁がありますが、ここを線路が通っていたのでしょうか?この先は工場敷地内となり、どうなっているのかさっぱり分かりませんでした。
尼崎港線から来る線路は無くなってしまいましたが、ここ日本製鉄尼崎製造所には構内輸送用の線路が敷かれており、一部が公道を横断しています。小さな機関車が貨車を牽いて行き来する姿を見ることが出来るそうで、実は隠れた人気スポット。この日は場所だけ確認して阪神尼崎駅まで歩きましたが、また次の機会に取材したいと思います。

【廃線跡】尼崎港線を歩く(中編)

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前編より続きます。

線路跡を使った道路をしばらく歩くと、何となくそれらしい雰囲気が。道路は狭くなり、線路用地は工場や住宅などに転用されていることが分かりますが、時おり怪しげな空き地に出会います。
さらに進むと、天神橋緑地。廃線跡をそのまま公園(と言うには狭いので名前のとおり「緑地」なのかも)にしたものです。
車止め標識の形をしたモニュメント。足元にレールを表現したレンガが敷いてあり、かつて鉄道が存在したことを示しています。
「金楽寺駅」があった付近に、旧国鉄の用地杭がありました。以前高砂線跡を歩いた時にもご紹介しましたね。尼崎港線跡でも複数確認できました。
廃線跡は国道2号線を越え南下。線路跡には住宅が建ち並んでいますが、こうして見ると廃線跡の両側は比較的古い住宅がありますが、中央の1列だけが新しい家です。線路敷地幅だけの細長い区画が続いています。
しばらく進むと廃線跡(写真の歩道左側)は大物駅付近で阪神電車と交差します。走ってきたのは山陽電車5000系の直通特急。阪神大阪梅田までラストスパート!
阪神電車の大物変電所。どうやら尼崎港線の跡地に建っているようです。
阪神本線・なんば線をくぐると、右側に阪神尼崎車庫と工場が広がっています。最後の青胴車5025号が休んでいました。
この先に転用されず線路跡をはっきり残す区画がありました。
古いレールを使用した柵がいかにも線路際という感じですね。近代的な阪神電車の車庫前にこんなローカル線が走っていたのは驚きです。
終点尼崎港駅付近。このあたり、東西にヤードが広がっていました。現在は公園になっています。ただ、線路はここで終わりではなく、この先の工場まで敷かれていました。

次回はその専用線跡をたどりましょう。


【廃線跡】尼崎港線を歩く(前編)

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兵庫県の鉄道廃線跡を探索するむ~パパ。今回は塚口駅と尼崎港4.6㎞を結んでいた尼崎港線を歩きます。この路線は元々単独の路線ではなく福知山線の支線として作られました。この点、播但線の一部だった飾磨港線とよく似ていますね。旅客輸送は貨物輸送のついでだったようで1981(昭和56)年3月31日に廃止。次いで1984(昭和59)年2月1日に路線そのものも廃止されてしまいます。

今回のウォーキング起点、JR塚口駅。ここから尼崎港線が分岐していました。とりあえず線路沿いを南へ向かいます。
写真奥の伊丹駅から南(手前側)へ伸びる線路。左2組がJR宝塚線(福知山線)。右の1組が尼崎港線です。このあたりは現在も線路が残っています。
名神高速道路をくぐると線路は3つに分かれます。一つは現在線でJR尼崎駅(下り線)へ接続するルート。廃線となったのは尼崎駅上り線へ接続するルートと尼崎港線のルート。尼崎港線はまっすぐ南下し、土手を登って尼崎駅を越えていました。あえて避けると話がややこしくなるので書きますが、この分岐地点すなわちこの写真を撮った背中側が、2005年4月25日に列車が脱線し多くの犠牲者を出した「JR福知山線脱線事故」の現場となります。この写真は上り線へ接続する線路跡のようです。
もう少し南側へ移動します。尼崎港線は写真奥から手前側に伸びていました。写真中央左側の塀が線路跡を示しています。
そのあと、現在建設工事が進む区画やマンション駐車場となったりしながら、廃線跡は南へ向かいます。写真では白いフェンスのある場所がそうだと思われます。JR尼崎駅北側は開発が進み当時の面影を残すものがほとんど消失しています。
JR東海道線の尼崎駅西方を南側から撮影しました。高層マンションが林立しています。尼崎港線は築堤を登り、この少し左側で東海道線を越えていました。近代的な街路からは全く想像もつきません。
ここから南側の線路跡は道路や住宅へと転用されています。この道路は線路跡をそのまま使用したもの。ここまで分かりにくかった廃線跡は、この先はっきりと姿を現します。

以下、続きます。

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その3)

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甲子園口駅で国鉄(現JR)東海道線に接続した阪神武庫川線ですが、ここで終わりではなく東海道線に沿って西ノ宮(現西宮)まで実際に線路が敷かれていました。

今回は線路に沿って西宮まで歩いてみましょう。

甲子園口駅の少し西側にある通路。線路の北側に出るためのものです。高さが低いので反対側に行くにはかがんで通過しないといけません。写真は南側。
北側は煉瓦造りの丸い出入口となっています。東海道線の大阪~神戸間は、日本で初めて鉄道が通った1872(明治5)年に遅れること2年の1874(明治7)年に開業した日本で2番目に古い鉄道路線で、この通路も同時代(明治29年の複線化時のものという情報があります)のきわめて古いものと考えられます。今年はこの区間開業150年記念の年にあたります。
この通路は北から入ると途中でコンクリート造りの四角いものに変わります。元々の通路は煉瓦の部分で、四角い部分は阪神武庫川線の築堤を付け足した際に延長されたものと言われています。(写真は南側から撮影)※大正15年という説もあります。
そこから線路際を西宮方向に歩くと、他の方のブログにも紹介されていますが阪神電鉄の用地杭が建っています。現在も阪神電鉄の土地かどうか定かではありませんが、阪神の路線がここまで来ていた証ではあります。
蒸気機関車の給水塔を模したモニュメント。タンクを支える足の部分を利用しているようです。
モニュメントに取り付けられたプレート。当時この区間は電化されており、周辺に蒸気機関車運用のための設備はなかったことから、新たに給水塔が建てられたようです。
当時も国鉄は複々線だったはずです。4本の線路の南側(写真では右側)に阪神武庫川線の狭軌線路が通っていたのですが、現状からは想像もつきませんね。
散策途中で見かけた使われていない鉄橋。武庫川線の遺構かと思いましたが、鉄橋の銘板には昭和29年とあり、当時のものではありませんでした。が、武庫川線を用いた貨物輸送は昭和33年頃まであったといいますので、この鉄橋が使用されたことがあるのかも知れません。単にアサヒビール専用線のものだったかも知れませんが・・・。
現在のJR西宮駅。貨物専用とは言え、阪神電車の路線がここまで延びていたというのは興味深いことですね。

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その1)
【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その2)

【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その2)

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前回(その1)の続き。武庫大橋から北側の廃線跡を歩きましょう。その前に、む~パパが前回歩いた1982(昭和57)年の2年前、1980(昭和55)年の廃線跡を記録したブログをご紹介いただきました。管理人さまに許可を得てリンクを貼っています。2年違いですが旧武庫大橋駅に杭が打たれていたり、変化があります。
↓ リンク先
阪神武庫川線廃線区間の記録: 国鉄・私鉄の思い出 (seesaa.net)

武庫大橋西詰。以前は阪神国道線(路面電車)が走っていました。武庫川線は国道線と交差し、北へ向かいますが、旅客営業はここまで。これより北側は国鉄による貨物輸送のみだったとのことです。
武庫大橋から北側は廃線跡が今もそのまま残っています。フェンスに囲まれた不思議な空間が堤防の脇に続いています。昔は線路も残っていたとのことですが現在は何もありません。
その先は右側の堤防に線路が敷かれていたそうですが、盛土もされてさすがに線路跡という雰囲気はなくなっています。
南へカメラを向けています。左が武庫川。堤防より1段下の空間(写真中央)が廃線跡だそうで、かつては線路が残っていたそうです。
この先は国鉄(JR)線に接続するため左へカーブします。写真のマンションは線路跡のカーブ上に沿って建っています。かつては阪神電鉄系の会社が事務所を構えていたそうです。
マンション敷地の延長上にある築堤。国鉄(JR)へ合流するような構造になっています。
この先はJR甲子園口駅構内になりますが、何やら怪しげな構造物が残っています。恐らく阪神武庫川線の甲子園口駅関連遺構と思われます。
この遺構を西側から。この一角だけが妙に怪しい雰囲気です。
怪しい構造物の延長線上にある駐輪場。ここは阪神武庫川線の甲子園口駅建設予定地だったそうで、最近発見された図面によると国鉄への貨物線とは分岐してホームが設けられる予定だったようです。実際は旅客電車が走ることはなく、貨物列車がここから東海道本線と並走し西ノ宮(現西宮)へ向かっていました。
現在のJR甲子園口駅(南口)。それなりに商業集積のある中間駅ですが、もし阪神電車の支線が接続していたら、少しは街の姿も変わっていたかも知れませんね。
「その1」~「その2」のルート。(Google Mapより)


【阪神】武庫川線の廃線部分を歩く(その1)

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5000系・5030系の直通特急が行き交い、山陽電車沿線のようではありますが・・・。
ここは阪神電車武庫川駅。阪神電車には川の上にホームが設けられている駅がいくつかありますが、川幅の広い武庫川を横切り、その両岸に改札口がある武庫川駅はそうした駅の代表格と言えましょう。冬のやわらかい日差しが川面に反射して・・・、にしても、寒い!

武庫川駅からは短い支線「武庫川線」が走っています。む~パパが小さい頃は2つ先の洲先駅まででしたが1984(昭和59)年に武庫川団地駅まで延長され、現在の営業キロは1.7㎞。編成ごとに違うカラフルな色に塗られた5500系が専属で活躍しています。写真は本線改札内から見た武庫川線のホーム。中間改札が設けられていますね。

今回この武庫川線の「廃線部分」を歩いてみます。武庫川線は浜手にあった軍需工場(川西航空機→現在の新明和工業)への従業員輸送および資材搬入のために建設されたもので、1943(昭和18)年に武庫川~洲先間が、その後武庫川駅より北側の路線が国鉄(現JR)甲子園口駅を経て西ノ宮(現西宮)駅まで建設されました。途中、阪神国道(現国道2号線)との交差部には武庫大橋駅が設けられ、阪神電車はここまで運行されていました。国鉄からは資材運搬のため貨物列車が乗り入れており、武庫大橋駅以南は狭軌と標準軌両方の列車が入れる3線軌条となっていました。

さて、武庫川駅から北側を見てみます。堤防に沿って線路が北上しています。左側から合流するのは阪神本線との連絡線で、車両を本線から出し入れするためのもの。む~パパ、小さいころから何やら怪しげな線路が北へと続いているのを見て「いつかは歩いてみたい」と思っていまして、まだ武庫大橋駅のホームが残っていたころに行ったことはあるのですが、久しぶり(40年以上ぶり!)の再訪となります。
※あらかじめお断りしておきます。この廃線跡については多くの方がブログ等で紹介されています。今回の記事はこれらを参考にさせていただき、実際に歩いてみたものです。

線路が敷かれている部分は、現在も引上げ線として必要な長さのみのようです。昔はもう少し短かったような気もしますが、気のせいかも知れません。
さて、ここからは廃線跡の探索です。いきなり現れる遺構。線路は無いのに道路下を潜れるようになっています。む~パパが前回歩いたとき、洲先駅より南は3線軌条が残っていたのですが、武庫川駅以北は線路があったのは覚えているものの、詳しい記憶はありません。写真を撮っていなかったことが悔やまれます。この先に見える家は線路跡に建っているものです。

ここから先、堤防に沿った線路跡にきれいに住宅が建ち並んでいます。写真は比較的最近分譲された区画のようで、少し前の写真ではまだ姿が見えません。

ここから武庫大橋駅までの線路跡には隙間なく住宅が建ち並んでいます。川に沿ってカーブしている廃線跡がそのまま宅地となっています。以前歩いたときはまだ空き地で付近の方が畑などに使っており、少し掘り返せばレールが顔を出す状態でした。

国道2号線との交差部。武庫大橋駅があったところです。ここからはまだ北へ線路が続いていましたが、交差部は埋められ痕跡は無くなっていました。

武庫大橋駅跡。少し広くなっており、行き違いのできる駅構内の雰囲気をわずかに残しています。
1982年当時の武庫大橋駅跡。真ん中に立っているのは、かつてのむ~さんパパです。ホームがきちんと残っていましたが、レールは3線軌条ではありませんし標準軌のようです。国道下に北側へ抜ける開口部(前述のとおり今は埋まっています)が見えます。このとき撮った写真はこの1枚のみ。もっとあちこち撮っていればと悔やまれます・・・。

※追加情報がありました。かつてはここから北側に狭軌の線路が残っていて、国道2号をくぐるところに境目があり、線路が食い違っていたそうです。謎は深まります。

次回は武庫大橋駅以北を訪ねます。

【旧線跡】湊川を歩く(前編)

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神戸電鉄の起点、湊川駅。そこはNHK「ブラタモリ」でも紹介された兵庫と神戸の境界線でもありました。今回は少し周辺を歩いてみましょう。

11月28日で95周年を迎えた神戸電鉄湊川駅。1928(昭和3年)開業当時の駅舎が現在もそのまま残っています。神戸高速鉄道開業の1968(昭和43)年以降、電車は地下に新設されたホームを経由して新開地駅へ直通していますが、開業時は写真の地面と同じ高さにホームがある終端駅でした。
この湊川駅の駅舎は湊川公園の下にあります。ここは当時天井川だった旧湊川付替え工事に伴って埋め立てられた土地で、一段高い堤防部分をくり抜いて道路としたのが写真の湊川トンネル。上部が湊川公園というわけです。写真右側に見えるビルは神戸電鉄本社です。
このトンネルは1921(大正10)年に完成したとのこと。山手幹線をまたぐ風景は神戸の人にとってはおなじみですが、なぜここにトンネルがあるのか知らない人も多いことでしょう。
あ、そうそう。湊川駅の西向かいには「人工衛星饅頭」で知られる大吉屋さん。人工衛星というよりはUFOではないかという人もいますが、それはともかく。

「人工衛星饅頭」は今川焼の一種ですが、現在でも100円なのは良心的価格というべきでしょう。なかなかの人気のようで行列が出来ていました。

少々脱線しました。さて駅に戻りましょう。1枚目写真の1階部分。元はここにホームがあり、電車が発着していました。現在もなんとなくターミナルの雰囲気を残しています。
この先の旧線跡トンネル部分は歩行者用通路として利用されています。手が加えられているので線路跡とはイメージしにくい空間ですね。
通路突き当りにあったタイルには「武庫連山海陸古覧」という江戸時代終わりごろの兵庫津付近が描かれた絵がありました。左に突き出たのは和田岬。中央が兵庫津で、よく見ると西代や板宿の集落、左奥には須磨の町と鉢伏山が描かれています。
付近の地下道に描かれた湊川トンネルの絵。山手幹線と新開地方面へ分岐する市電の姿。右側の高い建物は神戸タワー。周辺の緑や湊川公園の階段が堤防らしい形を今より残しているような気がします。
分かりにくい写真ですが壁の向こうは神戸電鉄の線路。鈴蘭台方面から来た電車は一度トンネルを抜け、短いこの切り通し区間を通って地下に入ります。現在はそのまま現湊川駅を経て新開地へ向かっていますが、開業時は少し左寄りに進み、トンネルを出たところで地上駅に顔を出すようになっていました。運転台から見ると今でも旧線跡が残っているのが見えるそうですよ。

付替え工事によりルートの変わった湊川(新湊川)。次回は元々のルート上に開けた商店街を散策します。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その4・終点新宮町へ)

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すこし間が空きましたが、播電鉄道跡をたどるウォーキングは終点「新宮町」を目指します。過去の記事は以下のとおり。
 その1
 その2
 その3

ネットで紹介されている記事によると八重垣病院裏手の用水路をまたぐ石積みは播電鉄道の橋台だそうです。すぐそばを出雲街道が通っています。
橋台を過ぎると線路跡は道路に転用され、まっすぐ北を目指します。

廃線跡は現在の国道179号線に沿った道路となって北上しますが、ハリマ木材工業に突き当り突然途切れてしまいます。この場所が播電鉄道の終点、新宮町駅があった場所です。

ハリマ木材工業に掲げられたプレート。廃線跡は今も「電車道」と呼ばれていると書かれていますね。
播電鉄道「新宮町駅」は出雲街道のすぐ西側にあり、駅前と考えられる場所は街道筋にあったのでしょう。付近は現在も古くからの風情ある町並みが残されています。写真は街道がクランクする箇所にある旧家。城下町と同じ防御上の工夫なのでしょうか。
街道筋にある戦前からあると思われる近代建築。播電鉄道の新宮町駅は集落の南端に位置しています。対して姫新線の播磨新宮駅は集落北端に設置されているようです。

同じく出雲街道に面した和菓子店「櫻屋」。なにやらホーロー看板のようなものがたくさん架かっていますが・・・。

懐かしいホーロー看板。ここまで並んでいるとなると、このお店のオーナーが集めたものかな、と思ってしまいます。
今回のゴール、姫新線播磨新宮駅。さすがに全線を1日で歩くのは無理があったので本竜野駅で南北2回に分けてみました。ただ歩くだけであれば1日でも踏破可能だと思われますが、あちこち寄り道したので予想以上に時間がかかりました。
日も傾いた播磨新宮駅。新型気動車がカッコ良いです。む~パパのシルエットがホームに伸びていますね。
いやはや、お疲れさまでした~。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その3・JR本竜野~揖保川)

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その2より続きます。

播電龍野から先、廃線跡は醤油の匂いが漂うヒガシマル本社工場を横目に北へ進みます。現在は県道437号線になっています。播電にはこの工場への引込線もあったそうです。
その後、播電を廃止に追いやった姫新線が廃線跡に沿って進みます。しばらく北へ歩くと魅力的な火の見やぐらと公民館が。播電觜崎(ばんでんはしさき)駅はこの付近にありました。姫新線東觜崎駅がこの近くにあります。

この先で線路は西へ進路を変え、揖保川を渡ります。

播電の通っていた觜崎橋から。北側を姫新線の列車が渡って行きます。
觜崎橋の下には播電鉄道の橋台遺構が残っていますが、なかなか入りにくいところでして・・・。
觜崎橋の下流には増水で流された播電鉄道の橋脚が残っているとのこと。恐らくこれでしょう。
この先、廃線跡は県道を離れて田んぼの中を突っ切ります。水路を横切る橋台が残っていました。
その延長線上にも橋台が。背景に見える築堤は姫新線のものです。
播電鉄道の橋台から姫新線のキハ127を撮ってみました。(2023.6.17 東觜崎~播磨新宮)
廃線跡は田んぼや住宅になっていますが、かすかにそれらしき土地境界を残しています。

終点新宮町まであと少しです。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その2・JR網干~JR本竜野)

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その1より
山陽本線を乗り越えた播電鉄道の本線は龍野・新宮町へ向かいますが、ここ「糸井」駅から山陽本線の網干駅への支線がありました。醤油やそうめんを国鉄に積み替え全国へ発送する必要があったためです。

ウイング神姫バス「糸井」。播電「糸井」もこのあたりだったと思われます。
ここから山陽本線へ向かう線路跡は道路や宅地になっていますが、小さな用水に橋台が残っています。明確に鉄道跡と判断できる数少ない遺構です。
廃線跡を転用した道路。突き当りに見えるのがJR山陽本線。播電鉄道はこの先でJRに並行し、網干駅北側に駅設備を設けていました。
JR網干駅。アーバンネットワークの西端駅です。この辺りは播電鉄道の駅や引込線があったと思われますが、痕跡は全くありません。ホーム石垣が残っているそうですが、今回は発見できませんでした。播電鉄道と国鉄は線路の幅が違うため、貨車をそのまま乗入れさせることが出来ず、中身を積み替える必要がありました。これがのちに姫新線(当時は姫津線)の開業を招くこととなります。
この後、線路跡は道路を離れて進みますが現在痕跡をたどるのは困難です。写真右の建物から延びる境界線は鉄道敷地との境界でしょうか。ちょっと分かりかねる、というのが本当のところです。
本社と車庫のあった「鵤(いかるが)」駅跡。写真は検車設備の跡だそうで、奥には階段も残されているそうですが私有地ということもあり、立ち入ることはできません(公道から撮影)。隣接する民家は鵤駅ホームを土台としているそうですが、はっきりと痕跡を認めることは不可能です。

播電鉄道では鵤駅に隣接する太子山に遊園地を建設し旅客誘致に努めたとされていますが、今はD51のある静かな公園となっており当時の賑わいを感じさせるものは残っていません。太子山公園のD51は以前 こちら でご紹介しました。

この先も廃線跡は道路や田畑、民家に転用されており、まっすぐたどるのは難しいです。
林田川。播電鉄道はこのあたりで川を渡っていたようですが、河川改修もあり橋台等は残されておらず、鉄道の痕跡は全くありません。
播電龍野駅跡付近。龍野駅は新宮町へ向かう中間駅ではなく揖保川に向いた終端駅のスタイルをしており、新宮町へ向かうにはここで一旦向きを変える必要がありました。現在は全く痕跡はなく比較的新しい住宅が立ち並ぶ区画となっています。
姫新線本竜野駅。播電龍野駅より東寄りにあり全く接続していませんでした。姫路へダイレクトにつながる鉄道の開通により、播電鉄道はその存在意義を失うこととなります。当時としては先進的な標準軌の軌道も国鉄と直通できなければ貨物受け渡しに手間がかかります。そもそも播電の路線自体、揖保川水運の代わりとして網干港から船へ積み出す意図が大きかったと思われ、物流が急速に鉄道輸送へ取って代わられることを予想できなかったのかも知れません。

続きます。次回から新宮を目指す路線を歩いてみましょう。