楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その4・終点新宮町へ)

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すこし間が空きましたが、播電鉄道跡をたどるウォーキングは終点「新宮町」を目指します。過去の記事は以下のとおり。
 その1
 その2
 その3

ネットで紹介されている記事によると八重垣病院裏手の用水路をまたぐ石積みは播電鉄道の橋台だそうです。すぐそばを出雲街道が通っています。
橋台を過ぎると線路跡は道路に転用され、まっすぐ北を目指します。

廃線跡は現在の国道179号線に沿った道路となって北上しますが、ハリマ木材工業に突き当り突然途切れてしまいます。この場所が播電鉄道の終点、新宮町駅があった場所です。

ハリマ木材工業に掲げられたプレート。廃線跡は今も「電車道」と呼ばれていると書かれていますね。
播電鉄道「新宮町駅」は出雲街道のすぐ西側にあり、駅前と考えられる場所は街道筋にあったのでしょう。付近は現在も古くからの風情ある町並みが残されています。写真は街道がクランクする箇所にある旧家。城下町と同じ防御上の工夫なのでしょうか。
街道筋にある戦前からあると思われる近代建築。播電鉄道の新宮町駅は集落の南端に位置しています。対して姫新線の播磨新宮駅は集落北端に設置されているようです。

同じく出雲街道に面した和菓子店「櫻屋」。なにやらホーロー看板のようなものがたくさん架かっていますが・・・。

懐かしいホーロー看板。ここまで並んでいるとなると、このお店のオーナーが集めたものかな、と思ってしまいます。
今回のゴール、姫新線播磨新宮駅。さすがに全線を1日で歩くのは無理があったので本竜野駅で南北2回に分けてみました。ただ歩くだけであれば1日でも踏破可能だと思われますが、あちこち寄り道したので予想以上に時間がかかりました。
日も傾いた播磨新宮駅。新型気動車がカッコ良いです。む~パパのシルエットがホームに伸びていますね。
いやはや、お疲れさまでした~。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その3・JR本竜野~揖保川)

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その2より続きます。

播電龍野から先、廃線跡は醤油の匂いが漂うヒガシマル本社工場を横目に北へ進みます。現在は県道437号線になっています。播電にはこの工場への引込線もあったそうです。
その後、播電を廃止に追いやった姫新線が廃線跡に沿って進みます。しばらく北へ歩くと魅力的な火の見やぐらと公民館が。播電觜崎(ばんでんはしさき)駅はこの付近にありました。姫新線東觜崎駅がこの近くにあります。

この先で線路は西へ進路を変え、揖保川を渡ります。

播電の通っていた觜崎橋から。北側を姫新線の列車が渡って行きます。
觜崎橋の下には播電鉄道の橋台遺構が残っていますが、なかなか入りにくいところでして・・・。
觜崎橋の下流には増水で流された播電鉄道の橋脚が残っているとのこと。恐らくこれでしょう。
この先、廃線跡は県道を離れて田んぼの中を突っ切ります。水路を横切る橋台が残っていました。
その延長線上にも橋台が。背景に見える築堤は姫新線のものです。
播電鉄道の橋台から姫新線のキハ127を撮ってみました。(2023.6.17 東觜崎~播磨新宮)
廃線跡は田んぼや住宅になっていますが、かすかにそれらしき土地境界を残しています。

終点新宮町まであと少しです。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その2・JR網干~JR本竜野)

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その1より
山陽本線を乗り越えた播電鉄道の本線は龍野・新宮町へ向かいますが、ここ「糸井」駅から山陽本線の網干駅への支線がありました。醤油やそうめんを国鉄に積み替え全国へ発送する必要があったためです。

ウイング神姫バス「糸井」。播電「糸井」もこのあたりだったと思われます。
ここから山陽本線へ向かう線路跡は道路や宅地になっていますが、小さな用水に橋台が残っています。明確に鉄道跡と判断できる数少ない遺構です。
廃線跡を転用した道路。突き当りに見えるのがJR山陽本線。播電鉄道はこの先でJRに並行し、網干駅北側に駅設備を設けていました。
JR網干駅。アーバンネットワークの西端駅です。この辺りは播電鉄道の駅や引込線があったと思われますが、痕跡は全くありません。ホーム石垣が残っているそうですが、今回は発見できませんでした。播電鉄道と国鉄は線路の幅が違うため、貨車をそのまま乗入れさせることが出来ず、中身を積み替える必要がありました。これがのちに姫新線(当時は姫津線)の開業を招くこととなります。
この後、線路跡は道路を離れて進みますが現在痕跡をたどるのは困難です。写真右の建物から延びる境界線は鉄道敷地との境界でしょうか。ちょっと分かりかねる、というのが本当のところです。
本社と車庫のあった「鵤(いかるが)」駅跡。写真は検車設備の跡だそうで、奥には階段も残されているそうですが私有地ということもあり、立ち入ることはできません(公道から撮影)。隣接する民家は鵤駅ホームを土台としているそうですが、はっきりと痕跡を認めることは不可能です。

播電鉄道では鵤駅に隣接する太子山に遊園地を建設し旅客誘致に努めたとされていますが、今はD51のある静かな公園となっており当時の賑わいを感じさせるものは残っていません。太子山公園のD51は以前 こちら でご紹介しました。

この先も廃線跡は道路や田畑、民家に転用されており、まっすぐたどるのは難しいです。
林田川。播電鉄道はこのあたりで川を渡っていたようですが、河川改修もあり橋台等は残されておらず、鉄道の痕跡は全くありません。
播電龍野駅跡付近。龍野駅は新宮町へ向かう中間駅ではなく揖保川に向いた終端駅のスタイルをしており、新宮町へ向かうにはここで一旦向きを変える必要がありました。現在は全く痕跡はなく比較的新しい住宅が立ち並ぶ区画となっています。
姫新線本竜野駅。播電龍野駅より東寄りにあり全く接続していませんでした。姫路へダイレクトにつながる鉄道の開通により、播電鉄道はその存在意義を失うこととなります。当時としては先進的な標準軌の軌道も国鉄と直通できなければ貨物受け渡しに手間がかかります。そもそも播電の路線自体、揖保川水運の代わりとして網干港から船へ積み出す意図が大きかったと思われ、物流が急速に鉄道輸送へ取って代わられることを予想できなかったのかも知れません。

続きます。次回から新宮を目指す路線を歩いてみましょう。

【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その1・網干港~JR網干)

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播電鉄道はかつて網干港から山陽本線網干駅、龍野を経て新宮町へ向かっていた私鉄(車両は路面電車のようなスタイルですが、ほぼ専用軌道だったようです。)で、1909(明治42)年に開業しましたが、1934(昭和9)年に廃線となりました。今回む~さん一家ではその痕跡を実際にたどってみます。
※播電鉄道については多くのサイトで廃線跡が紹介されています。このブログはこれらの記事を参考に現地を訪れ取材したものです。

今回のウォーキング起点は山陽網干駅。駅を出たら左へ。一旦港のほうに向かいます。
東雲橋から運河のような網干川を望むと、かつて港町として賑わった雰囲気がまだ残っているようです。播電鉄道の前身「龍野電気鉄道」起点「網干港」駅はこの橋のたもとにありました。写真左側の川べりには貨物駅の設備があったようです。
東雲橋から北方向へ向かう道が線路跡。ゆるやかに右カーブし、現在の国道250号と交差します。
東雲橋北交差点付近にある「ことぶき食堂」。建て替えられていたとしても、当時から駅前食堂だったとすれば興味深いですね。
国道250号線を横断する「山電網干駅前」交差点。播電「余子浜」停留所は交差点南側にあったようです。当時まだ山陽電車が存在していなかったため、接続を考慮する位置ではありませんでした。
次の「津ノ宮」は魚吹八幡神社の玄関口である現在の宮内交差点付近にあったそうです。線路はここで道路を横断して東側に移っていたそうですが、何となくこの先でちょっとそれらしき雰囲気がするものの、実際はまったく痕跡が残っていません。
この付近にある水路を跨ぐ古い橋。相当古い時代のものではありますが、明治時代かと言われるとそこまで古くはないかも、と思ったりします。
その次の停留所「坂出」。付近には鉄道の痕跡を示すものは何もありませんが、消防車庫の上に火の見やぐらが建つ、いかにも鉄道模型ジオラマに出て来そうな建築物がありました。
「和久」停留所から現在の道路を離れ、線路は左に逸れていたようですが、今となってはさっぱり分かりません。廃止から90年近く経つ以上、無理もないですね。
その後、播電鉄道は築堤を上がって山陽本線を乗り越えます。一度廃止になって痕跡を消した鉄道ですが、再び廃線跡を利用して山陽本線を越える道路が建設中。歴史は繰り返すといったところでしょうか。
JR網干駅。播電鉄道はここを越えて龍野方面へまっすぐ向かいますが、途中の「糸井」から網干駅の北側に乗り入れる支線がありました。しかし、播電鉄道、この時代の鉄道にしては珍しく標準軌(1435㎜)を採用していたため狭軌(1067㎜)の国鉄とは乗入れ出来ず、貨物は積み替えが必要でした。これがのちにこの鉄道の命運を左右することになります。

以下、続きます。