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【廃線跡】播電鉄道の痕跡をたどる(その2・JR網干~JR本竜野)

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その1より
山陽本線を乗り越えた播電鉄道の本線は龍野・新宮町へ向かいますが、ここ「糸井」駅から山陽本線の網干駅への支線がありました。醤油やそうめんを国鉄に積み替え全国へ発送する必要があったためです。

ウイング神姫バス「糸井」。播電「糸井」もこのあたりだったと思われます。
ここから山陽本線へ向かう線路跡は道路や宅地になっていますが、小さな用水に橋台が残っています。明確に鉄道跡と判断できる数少ない遺構です。
廃線跡を転用した道路。突き当りに見えるのがJR山陽本線。播電鉄道はこの先でJRに並行し、網干駅北側に駅設備を設けていました。
JR網干駅。アーバンネットワークの西端駅です。この辺りは播電鉄道の駅や引込線があったと思われますが、痕跡は全くありません。ホーム石垣が残っているそうですが、今回は発見できませんでした。播電鉄道と国鉄は線路の幅が違うため、貨車をそのまま乗入れさせることが出来ず、中身を積み替える必要がありました。これがのちに姫新線(当時は姫津線)の開業を招くこととなります。
この後、線路跡は道路を離れて進みますが現在痕跡をたどるのは困難です。写真右の建物から延びる境界線は鉄道敷地との境界でしょうか。ちょっと分かりかねる、というのが本当のところです。
本社と車庫のあった「鵤(いかるが)」駅跡。写真は検車設備の跡だそうで、奥には階段も残されているそうですが私有地ということもあり、立ち入ることはできません(公道から撮影)。隣接する民家は鵤駅ホームを土台としているそうですが、はっきりと痕跡を認めることは不可能です。

播電鉄道では鵤駅に隣接する太子山に遊園地を建設し旅客誘致に努めたとされていますが、今はD51のある静かな公園となっており当時の賑わいを感じさせるものは残っていません。太子山公園のD51は以前 こちら でご紹介しました。

この先も廃線跡は道路や田畑、民家に転用されており、まっすぐたどるのは難しいです。
林田川。播電鉄道はこのあたりで川を渡っていたようですが、河川改修もあり橋台等は残されておらず、鉄道の痕跡は全くありません。
播電龍野駅跡付近。龍野駅は新宮町へ向かう中間駅ではなく揖保川に向いた終端駅のスタイルをしており、新宮町へ向かうにはここで一旦向きを変える必要がありました。現在は全く痕跡はなく比較的新しい住宅が立ち並ぶ区画となっています。
姫新線本竜野駅。播電龍野駅より東寄りにあり全く接続していませんでした。姫路へダイレクトにつながる鉄道の開通により、播電鉄道はその存在意義を失うこととなります。当時としては先進的な標準軌の軌道も国鉄と直通できなければ貨物受け渡しに手間がかかります。そもそも播電の路線自体、揖保川水運の代わりとして網干港から船へ積み出す意図が大きかったと思われ、物流が急速に鉄道輸送へ取って代わられることを予想できなかったのかも知れません。

続きます。次回から新宮を目指す路線を歩いてみましょう。

【東須磨】鷹取工場で整備されたSLたち②~太子山公園のD51

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東須磨駅も最寄りだった旧国鉄鷹取工場で整備された保存機関車。今回は第2回として太子山公園(兵庫県太子町)のD51を紹介します。

JR網干駅より北へ約2㎞。太子町役場にほど近い太子山公園。網干(山陽網干駅より南側)と播磨新宮を結んだ播電鉄道が遊園地を経営していた場所です。近隣には同鉄道の車庫跡があり、ピットの跡が残されているそうですが、それはまたの機会に取材するとして・・・。この公園にD51が保存されています。
立派な屋根の下で保存されるD51 345号。
4つの動輪が「D」の証。定期的に手入れされているようで、今にも走り出しそうです。
キャブ(運転室)。丸い旋回窓が取り付けられているところから見て、厳しい冬を越してきた機関車であることが分かります。そう、この345号機は1940(昭和15)年に日立製作所(山口県)で製造され仙台に配置された後、戦後は主に北海道で活躍した機関車なのです。1976(昭和51)年、追分で廃車となり、保存のため鷹取工場で整備されました。
鷹取工場構内で。恐らく同工場に入場したのは初めてではないでしょうか。撮影日時不明ですが、廃車・保存時期から見て1976(昭和51)年と思われます。

鷹取機関区に隣接する留置線で。短い排煙板(デフレクタ)や装備から北国のD51であることが分かりますが、縁もゆかりもない太子町に保存されたとはいえ現在も大切にされており、幸せな余生を送っていると思われます。

国鉄マンの手により美しく整備され送り出されたSLたち。現在の姿を追います。