楽しいむ〜さん一家

【西新町】明石車庫・車両工場跡地は今

投稿日:


西新町駅
近代的な高架駅・西新町。かつてここに山陽電車の車庫と車両工場がありました。1968(昭和43)年、東二見に移転後、敷地の大部分はマンションに、残りは保守基地や資材置き場などになっていましたが高架化、保守基地の中八木への移転、病院の建設など、以前の風景を想像しにくくなってきました。今回は昔の写真を交えて車庫・工場のあった時代を思い起こしてみましょう。
Google Mapより現在の西新町駅付近。駅の北側の「ふくやま病院」とマンション「明石ハウス」が位置する三角形の土地が元々車庫・工場のあった部分です。
国土地理院地図より1961(昭和36)年の西新町駅付近。車庫・工場に通じるたくさんの線路が敷かれているのが分かります。周囲はまだ田畑が目立ちますが、東側はすでに宅地化が進んでいますね。
山陽電鉄OBが撮影された写真より。明石車庫。はっきりと撮影年代を特定できないのですが、中央に見えるのは820形828号。一番右は200形206号。820形がまだ前面非貫通であることや現在東二見で保存されている206号が現役でいることから昭和30年代半ば(1960~63年頃)と思われます。
山陽電鉄OBが撮影された同じような角度の写真はもう1枚あり、こちらは手前に本線が写っています。上の写真より時間が経っていまして、820形や850形がすでに前面貫通化されていたり、300形や2700形といった5000系登場まで走っていた車両が顔を揃えていますので、東二見移転直前と思われます。右から2番目はすでに現役を退き入換車になっている206号の姿があります。
現在の同じ場所を上の車庫写真とほぼ同じ角度で撮ってみました。少し引き気味ですが雰囲気は伝わると思います。本線から扇型に広がる土地だけが車庫だったことを物語っています。
ふくやま病院の西側にあるマンション。車庫・工場の敷地をなぞるように建てられています。
車庫敷地西端側。昔の航空写真によると西端には建物があり、西代や飾磨のように電車が並んでいる姿は道路側から見えなかったと思われます。
空爆犠牲者の碑。1945(昭和20)年6月9日の空襲の際、明石車庫・工場が被弾し社員31名が亡くなられたことが記されています。む~パパの叔父は近くの川崎重工明石工場に動員され働いていましたが、爆弾の破片が頭のすぐそばを飛んだと話していました。(6月9日の攻撃では川崎重工の被害はほとんどありませんでしたが、明石公園周辺と市内西部が被害を受けたとのことです。)日本が平和であるのも、失われた多くの尊い命の上に成り立っているものと感謝しなければなりません。