楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その4)

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その3から続きます。ようやく終点有馬駅へ向かいます。

途中、線路の跡は病院にさえぎられますが、その後は比較的分かりやすい道のりとなります。徐々に高度も上がります。写真手前が有馬方、病院は三田方です。
廃線跡は住宅地を抜け、さらにまっすぐ進みますが阪神高速北神戸線と交差する付近で少し途切れます。
この先の廃線跡は山の中ということもあり、しっかり残っていたのですが、その路盤は2013年に開通した有馬山口線バイパスに利用され、道路になりました。写真で阪急バスが向かう先にある橋は有馬線の十八丁川橋梁が架かっていたところで、石積みの橋脚が残っていたのですが現在は撤去されています。一般道ですが自動車専用。歩くのは非常に危険です。む~パパも残念ながら途中で引き返しました。
ここには長らく残っていた橋脚を取り壊すにあたり、これを記録する立て看板があります。橋脚に使われていた石は、モニュメントとしてこの付近の地面に敷きつめられていました。
橋脚は無くなりましたが、有馬方の橋台は今も残されています。
この先、バイパスを歩けないためよく分からないところもあるのですが、廃線跡はやや高度を下げ(実際は下がっていないのかも知れませんが)、終点有馬駅跡に至ります。戦後まで駅そのものは残っていたようで、神戸市ホームページによると
神戸市:昭和36年-No.08 土砂に埋もれた旧国鉄有馬駅(北区有馬町) (kobe.lg.jp)
と、1961(昭和36)年にまだ駅舎が残っていたことが分かります。以前は病院があったように思いますが、現状空き地です。
有馬川に架かる乙倉橋。国鉄有馬駅正面に架かる橋です。今でも駅前広場がそこに広がっているような雰囲気ですね。この角度から撮った国鉄有馬駅の写真はネットでも見ることができます。右側の木造建築は駅前旅館のような感じもしますが、当時の写真では平屋の建物が写っており、いつから建っているのかはっきりしません。
この乙倉橋には、有馬駅や当時の列車の写真が欄干に掛かっており、鉄道の記憶を今に伝えています。これによると乙倉橋は当初木橋で、1928(昭和3)年に鉄筋コンクリートの橋に架け替えられたそうです。
乙倉橋。1995(平成7)年の阪神大震災で大きな被害を受け改修されたそうですが、石積みの橋脚など、多くは当時の姿を留めているものと思われます。

不要不急と判断され、戦時中に休止となった国鉄有馬線。現在は沿線に新しい住宅地もあり、鉄道として残していればそれなりに発展したのかも知れませんが、どうなっていたのかは誰にも分かりません。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その3)

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→その2から
さてさて、む~パパ。前回で国鉄有馬線の築堤を見つけたのに、その後どこを通っていたのか見失ってしまいました。と言うのはちょうど廃線跡の真上に中国道西宮北ICが出来てしまったからなのです。

1960年代の現西宮北IC付近。廃線跡がはっきり残っているのが分かります。(写真:国土地理院)
こんな感じで山を切り通して横断し、現在の西宮市山口町に至っていました。(写真:国土地理院)
現在の同じ場所。西宮北ICが中央部に出来たため、廃線跡が消えてしまいました。(出典:国土地理院)
丹念に探せば何かあるのかも知れませんが、本来の目的であるウォーキングを逸脱してしまいそうです。(写真:国土地理院)
2回目は神戸電鉄田尾寺駅で下車し、中国道で途切れた(上写真の下部分)ところから歩き始めることにしました。
ちょっと季節感がまるで違う写真で歩いた日がバレてしまうのですが「有馬口」駅があった付近。国鉄有馬線は公智神社の前を通過していました。
神様の前を素通りするわけにはいきません。もちろん御朱印をいただきました。

公智神社の前にかかる「駅前橋」。廃線跡ファンには有名な橋で、かつて鉄道があった歴史を今に伝えています。

む~パパ、なんとなく駅前橋のあたりに有馬口駅があったに違いないと思っていたのですが、その後新たな情報提供があり、公智神社より北側の土地に駅や鉄道施設があったとのこと。(出典:Google)
なるほど。本線から三田寄りに向けて側線があったそうで、確かにそれらしい形の土地が残っています。(出典:Google)
この先は橋梁部を除いて廃線跡は道路に転用され、有馬温泉へ向け続いていきます。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その2)

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その1はこちら

さて、その後長尾川北岸を走った国鉄有馬線は、長尾川を渡って現在の神鉄道場駅の真横にやって来ます。

手前が有馬方、奥が三田方。長尾川を渡る橋梁の痕跡はありませんが、廃線跡が比較的分かりやすい形で残っています。
神鉄道場駅付近の航空写真。(出典:国土地理院)
神鉄道場駅は三田線開業の1928(昭和3)年、道場川原駅として開業したもので国鉄有馬線に近接していましたが、国鉄側に駅はなく八多川を渡った先にあった新道場駅との連絡はしていなかったものと思われます。(出典:国土地理院)

神鉄道場駅舎から撮影した有馬線跡。堀割に線路が通っていた痕跡がはっきりと分かります。

有馬線開通当時は神戸電鉄が存在しておらず周囲には何もなかったので、駅(新道場駅)は八多川を渡って道場の町外れに設けられていました。有馬方には現在も橋台が残されています。
小さな溝を跨ぐ橋台。この辺りは大きな開発が進まなかったためか、現在でも痕跡が見られます。
この先、写真の部分で廃線跡は一旦途切れ田畑に転用されていますが、しばらくすると復活します。
ここからは築堤が現れ徐々に高度を上げていきます。「旧国鉄用地」と書かれた看板がありました。1943(昭和18)年に休止されたまま放棄され事実上廃止となった後、土地は民間などに払い下げられたようです。
はっきりと鉄道らしさの残る築堤。写真中央には朽ちつつも跨道橋が残されているのが分かります。
少し近付いてみました。どうもこの先は立入禁止のようですので、ここまで。石積みが見えます。

この先は分かりにくくなります。もう少し続けます。

【廃線跡】国鉄有馬線を歩く(その1)

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関西の奥座敷・有馬温泉への鉄道路線は、現在神戸市内からアプローチする神戸電鉄有馬線(当時は神戸有馬電気鉄道)が唯一の足です。この路線は1928(昭和3)年に開業した関西圏としては比較的新しい路線。実は最初に有馬温泉へ到達した鉄道は1915(大正4)年に開業した有馬鉄道(開業当初より国が借り上げて運行)です。1919(大正8)年に国有化され有馬線(当時は「有馬軽便線」)となったこの路線は、三田駅から分岐する12㎞あまりの支線でした。戦時中の1943(昭和18)年に休止となりそのまま現在に至りますが、80年が経つ今日も鉄道の痕跡を多く残す「ハイキングが楽しい」路線として有名です。む~パパ、今回は思ったよりボリュームが大きかったので2回に分けて歩いてみました。
※有馬線跡はかなり有名で、数多くのサイトで紹介されています。今回「楽しいむ~さん一家」ではこれらのサイトを参考にした上で実際に現地を訪問し、この記事を執筆しています。

1回目のウォーキング起点は神戸電鉄三田駅。JR福知山線三田駅に接続しています。現在は新開地駅からの直通運転となっていますが、神鉄の有馬線は湊川~有馬温泉であり、有馬口~三田間は三田線となります。
現在の有馬線跡付近。(出典:国土地理院)
有馬線は三田駅から大阪方面へしばらく走ったあと、上図の位置で分岐していました。分岐までの線路跡は福知山線の複線化用地として利用されています。現在も線路跡がはっきり残っていることが分かります。(出典:国土地理院)
上写真で有馬線跡が途切れる部分がありますが、1960年代の航空写真を見るとつながっていることが分かります。(出典:国土地理院)
福知山線(写真の左側)と分かれていく部分。現在も線路跡ははっきり残っていまして、現代的な使い道と言えるソーラーパネルに覆われています。
道路をまたいで畑を突っ切る有馬線跡。ここも鉄道の痕跡がはっきりと残っています。有馬線はこのまま武庫川を越えていました。
農業用水を超える箇所。簡単な構築物ではありますが、はっきりとした鉄道遺跡です。
武庫川を渡る橋梁はありませんが、渡った先の線路跡は道路に転用されていました。
その後、上写真のとおり農地に転用され線路跡は一旦途切れますが、突然田んぼの真ん中に不自然な区画が現れます。このカーブに沿って有馬線が敷かれていたと思われます。三田駅の次となる塩田駅はこのあたりにあったようです。
この後の痕跡としては、農家の庭先にある台形の土地があり、十数メートルだけ残っていますが、明らかに土盛の路盤と考えられます。

以下、続きます。