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【阪神電車】尼崎海岸線廃線跡を歩く(その2)

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今回は阪神電車出屋敷駅から分岐していた「尼崎海岸線」のうち、もはやその跡をほとんど留めていない国道43号線以南の線路跡をたどります。その1はこちら
尼崎海岸線を分断した国道43号線。この国道の建設に伴い、尼崎海岸線は廃止されることとなりました。
前回もご紹介した航空写真(出典:Google 昔の航空写真)。黄色い点線で示した廃線跡のうち、道路として残っている部分を赤で示しました。
現地を南側から撮影。線路跡と言われなければ、何の変哲もない道路となっています。
そこから先。現在は公園となっている部分と隣の敷地を仕切るフェンスが、一応廃線跡に沿った形となっています。
ここから線路はこの道路と並行する形となります。当時の写真を見ても何もないところを電車が走っており、ここからは線路を想像することも難しくなります。
Google昔の航空写真より。道路に沿ってからは航空写真でも線路が付いているかどうか不明確なのですが、出屋敷駅より1つ目の駅「高洲駅」の屋根は辛うじて確認することが出来ます。

現在の高洲駅跡。中央右寄りにあるバス停の屋根付近で、当時と同じ場所に現在の高洲停留所があると思われます。海抜0メートル地帯。ここからさらに東浜まで線路は延びていましたが、地盤沈下による浸水被害のため1951(昭和26)年に休止となり復活することはありませんでした。
ここから先、東浜までは直線で線路が延びていたと思われますが、現在も工業地帯で人通りも少なく寂しいところです。南から北に向かって撮影。
東浜から南側は海ですが、当時は埋め立て地のような感じでこの先も土地が広がっており、今とは地形が異なるようです。また、当時はこの先まで線路が延びていたような感じもするので、東浜駅はもっと先の今は海となっている部分にあったのでしょうか?謎は深まるばかり。
廃線跡近くの民家。恐らく道路をかさ上げした際に家の基礎部分とは段差が出来たものと考えられます。地盤沈下の様子がよく分かります。

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【阪神電車】尼崎海岸線廃線跡を歩く(その2)” への12件のコメント

  1. ピンバック: 【阪神電車】尼崎海岸線と金魚鉢(番外編) | 楽しいむ〜さん一家

  2. むーさんパパさんこんにちは。はじめまして。
    鉄道好きなFernweh(フェルンヴェー)と申します。

    東浜駅は写真もほとんどなく廃止後60年(1962年12月1日廃止)も経っていては場所の特定も難しいですが、当時の地図から考えると地盤沈下で消滅した堤防から先ではなくまだ堤防の手前であったと考えられます。

    東浜発電所の跡に建てられた伊藤鋼業の正門の向かい、道路反対側(西側)がその場所と推測されます。現在は線路や駅のあった場所はすべて売却され、駅の跡地と考えらえる場所には大道商事と山川産業の東浜工場が建っています。Googleの地図で調べたところ東経135度400/北緯34度703と出ました。

    どこまで正確かの問題はありますが、こういう事を調べるのにはこちらが大変便利です
    https://ktgis.net/kjmapw/

    • Fernwehさま こちらこそはじめまして。コメントありがとうございます。

      昔の地図サイトのご紹介、ありがとうございます!こちらも拝見しましたが、東浜駅の位置はなかなかに微妙ですね。正確かどうかはおっしゃられるとおり問題はあると思いましたが、調べものをするのは助かります。東浜駅、私は写真を見たことはありません。誰かが撮っていて現在も雑誌等に出ていない写真はあると思われますが・・・。武庫川を渡る連絡線が未成線なのか計画だけだったのか、どこから分岐するのか、今となっては分からないことだらけです。

  3. 今津出屋敷線の未成部分はこれが参考になると思います
    http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E7%94%BB%E5%83%8F%3Afig_amagasaki_chikko_plan.gif
    高洲分岐で浜甲子園に向かうように描かれています。しかし発電所があっただけで今よりもっと周囲になにもない東浜に至る1kmの「盲腸線」にも複線分の用地が確保されていたのを見ると東浜からの延長する可能性があったのではと思います。

    • Fernwehさま コメントありがとうございます。
      この資料による未成線がまずは合理的なルートではないかと思います。現在のこっていれば周囲の風景も変わっていたでしょうね。

  4. というより尼崎築港鉄道(貨物専用)が実際に建設されていれば少なくとも昭和50年くらいまでは尼崎の沿海部分はかなり違った様相だったでしょうね。

    写真がほとんど残っていない東浜駅ですが、レイルロード社の阪神電車形式集.1の25ページには同駅と停車中の318号(311形)が載っています。同形式は1934年に鋼体化改造され1111形になったそうで、写真ではパンタ化されたもののまだ排障器(単線とはいえ全線専用軌道の尼崎海岸線では本来必要ない)も取り付けられているので岩屋~三宮が地下化された1933年以前の撮影と思われます。

    休止後の同駅周辺の写真は鉄道ピクトリアルの特集号のどれかに掲載されていたはずです。あとで「発掘」して確認します。

    • Fernwehさま コメントありがとうございます。
      1933年撮影の過渡期の写真が載っているのですね。レイルロード社さんは貴重な写真を発掘して来られるのですが、その写真は未見です。

  5. 鉄道ピクトリアル 1985年 臨時増刊号(通巻 No.452)の69ページにレールが取り払われ架線柱だけが残る東浜駅跡の写真が載っています。何とも荒涼たる風景です。

    ちなみに尼崎海岸線も武庫川線も複線分ある敷地の東側(武庫川線で言えば川側)にだけ線路が敷かれています。

    また1997年の臨時増刊号(通巻 No.640)の115ページには東浜海岸線で1944年6月11日の正面衝突での事故車両として701/702と1019・1020があがっていますので、おそらく高洲には上下交換ができる設備があったと推測されます。武庫川線は全駅が交換できる相対式ホーム2面2線でした。

    • Fernwehさま コメントありがとうございます。
      その号は私も持っていまして、その辺りの写真は見たことがあります。武庫川線は洲先までだった頃に3線軌道や武庫大橋駅ホームなどを撮影していますが、当時残っていたはずの武庫川の橋脚を記録していなかったのは大失敗でした。

  6. 鉄道ピクトリアル No.452の113ページにある沿線案内図には未成(計画)線として出屋敷から今津の路線、つまり今津出屋敷線が描かれています。この図がどれだけ正確に予定の路線を反映しているかはわかりませんが、少なくとも図からは高洲分岐ではなく東浜からの延長として浜甲子園経由今津までの路線が描かれています。

    またNo.640、48ページの「阪神電気鉄道路線の形成過程」によりますと武庫郡今津町-尼崎市6.1km*が1924年5月19日に特許を受けています。これ以外の特許はないようですので、今津出屋敷線は出屋敷-東浜-浜甲子園-中津濱-今津を結ぶ計画だったと思われます。

    *この数字は本線のルートより短くなるので、おそらく間違いでしょう。

    武庫川河口の橋脚建設に直接つながる特許は1943年3月16日の尼崎市又兵衛字大浜西高洲(前大浜)-西宮市下新田字甲子園口でこれは武庫川線の甲子園口-国鉄西ノ宮を除く区間です。ちなみに武庫川線の起点はこの前大浜だそうで、武庫川線武庫川駅には3.0kmのキロポストがあるそうです。

    • 東浜から免許を受けているのですね。武庫川線の起点はそこなのですね。確かに武庫川駅を起点にするとなると莫大な手間のわりに益は少なそうで、今でも3.0㎞キロポストがそのままなのも頷けます。

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