5年前、大蔵谷駅の西側に残る明石高女前駅跡を訪ねました。
その時の記事はこちら→ 明石高女前駅を訪ねる。
少々時間が経ってしまいましたが、今回は旧大蔵谷駅を訪ねてみようと思います。最初の駅は朝霧川橋梁の上にあり、その後東詰に移ったとのことで、1948(昭和23)年に現在地に移っています。そもそも開業時はこの辺りから国道の南側を走っていたとのこと。半ば路面電車だったころのお話ですね。この旧大蔵谷駅、まだ痕跡があるという情報を得たのですが、車内から見てもよく分からなかったので、現地に行ってみました。
(出典:Googleマップ)
黄色の線が山陽電鉄本線。朝霧川の東ということで「旧大蔵谷駅跡」と記したところへ。「明石高女前駅跡」は前回(5年前ですが)取材した場所です。
上の地図で、大体この辺かなと思う場所にやって来ました。北側に並走するのはJR神戸線。221系の活躍もあと僅かと思いますが、山陽電車を待っていると熱中症になってしまうので、とりあえずお許しください。手前2本が山陽電車の線路です。
この付近。線路両側に古いコンクリートの壁のようなものがあります。ホーム構造物の痕跡と思われます。明石高女前駅と同じスロープのようなものが残っています。
真横から見ると、上下線の同じ場所にスロープ痕のようなものが・・・。明石高女前駅ほどはっきり残っていませんね~。
コンクリートの上に古レールが埋め込まれています。今より線路の高さが低かったのでしょうか。ホーム柵の痕跡でしょうか・・・。
さて、上地図で赤線を引いたところがあります。山陽電車から斜めに離れていく道路がありますが、一説によると神戸~明石間の山手を結ぶ「神明急行電鉄」の予定線であったとか。この予定線、弾丸列車構想、神明道路・・・。神戸市営地下鉄妙法寺駅の近くに謎の橋台があったのは覚えています。
どこまでが本当で、どこからが都市伝説なのか?ちょっと調べてみたいですね。
人丸前駅付近高架化前は旧遊園地前駅もはっきり残っていたそうですよ。クリックにもご協力を!
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地図から見てみると、山陽電車の駅間は比較的に短いのを実感しますね。直通先の某社ほどではありませんが。
大蔵谷駅が現在の地に移動した1948年は、20m車体の800形(→700形)電車が登場した頃でしたが、これも関係があるのでしょうか。
この頃の路線改良で、速さで有名な京急の快特よりも表定速度で上回るほどの高速運転ができるようになったのはとても大きな要素に思えます。お隣の某社が神姫間表定100km/h以上とか言うえげつないスピードなので、山陽電車は遅いと思われてしまっているのですが。
それでも、50歳超えの車両が営業運転で100km/hを上回る高速運転を行うのは自分が知っている限り日本では山陽電車だけだと思います。自分は的形駅で偶然にも回送の3000系を見ましたが、本当に爽快感のある走りでした。当時目撃した車両は4連に組み替えられる前の3032Fだった記憶があります。
山陽沿線出身の名古屋市民さま コメントありがとうございます。大蔵谷はかつては宿場町として栄え、旧駅はその東端に位置していました。移転の経緯はちょっと分かりませんが、現在の大蔵谷駅の場所(やや西寄りですが)に明石高女前駅があり、駅間が短いことから統合されたと説明されています。西舞子駅~大蔵谷駅は駅間が長いので、どちらかというと元の大蔵谷駅のほうが駅間としてのバランスが良いように思えますが、現在地のほうが需要があったのでしょう。西舞子以西は確かに線形が良いので高速運転に適していますが、以東も当時としては高速運転可能になったはずで、現在とは感覚が違っているのだろうと思います。
実家が垂水区中部にあるので「神明急行があったらよかったのに」が本音です。
地下鉄とJR・山陽に挟まれたあの辺りは、兵庫県でも有数のバス路線過密地域です。特に私の実家は、JR塩屋駅の(地形に由来する)拠点性の低さもあって、三宮方面からバスに乗り換えていくと「逆戻り」になってしまうのがもどかしいのです。
もちろん神明急行敷設が世界恐慌で挫折→神明道路へ移行。の歴史は良く分かっていますが、垂水区が神戸市第二位の人口を誇っている現状を見ても、地下鉄西神線の舞子あの地域の鉄道はバブル期に最優先で作ってほしかったなあ、と思います。
元長田区民さま コメントありがとうございます。
神明急行線として建設された場合、あるいは噂の域を越えませんが戦後の旧国鉄複々線化に伴い、国費で路線を神明急行ル-トに付け替える話があったらしく、それが実現していた場合、現在の明舞団地や多聞団地付近の交通体系は大きく変わっていたと思われます。そもそも地下鉄があのルートで敷かれたかどうかも、須磨ニュータウンの姿も、全てが変わっていたのではないでしょうか。歴史にifはありませんが、それを想像するのも楽しいことです。