前編で電鉄兵庫駅の場所をご紹介しましたが、実際はどこまでの範囲だったのでしょうか。1961(昭和36)年の航空写真を見てみましょう。画面中央が山陽電車の「電鉄兵庫駅」です。
写真:国土地理院
これを現在の写真(Googleマップ)と比較してみると、
兵庫勤労市民センターの東端部分がそのまま電鉄兵庫駅の敷地の東端で、現在も全く変わっていないことが分かりました。写真は南側。駅舎はJR兵庫駅を向いていました。
こちらは東端の北側。扇形に広がった線路の形がそのままカーブして残っています。写真は電鉄兵庫駅側から長田駅方面へ向かって撮影したもの。
かつて山陽電車を降りた方は、こで市電か国鉄に乗り換えていました。市電も廃止となり国鉄はJRになりましたが、1930(昭和5)年に建設されたJR兵庫駅だけが昔と変わらない姿を保っています。
JR兵庫駅コンコース。太い円柱は風格がありますね。
階段。全体に神戸駅よりすっきりした意匠が各部に見られ、なかなか魅力的な近代建築だと思います。
さて、お腹も空いたので、近くにある美味しそうなランチのお店に行ってみました。
その名も神戸一。喫茶店ですが「サービスランチ(600円)」が大人気。曜日によって組み合わせが違うのですが、メンチカツ定食は毎日あるようです。
魅力は何といっても、このボリューム。毎日自家精米されているという兵庫県産のお米となめこの入ったお味噌汁もたまりません!
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電鉄兵庫駅の駅前には街頭テレビがおましたな。明石に親戚がおましたんで、しょっちゅう山電に乗って遊びに行とりました。長田駅の手前に市電と交差するダイヤモンドクロッシングがあって、子供にとってはまるでジェットコースターに乗ってるような揺れ具合が毎回楽しみでしたな。懐かしなぁ・・・。
怠惰の清盛さま コメントありがとうございます。電鉄兵庫駅は1952(昭和27)年に神戸市の区画整理の影響を受け写真の形になります。よく考えるとそれから廃止まで、わずか16年なのです。街頭テレビはどの段階で設置されたものなのでしょうか。引き続き長田のほうも取材したいと考えています。私はダイヤモンドクロス通過は西宮北口のものしか経験がありません。
ご返信をおおきにありがとさんです。
街頭テレビが設置された時期は分かりまへんが、私が小学校低学年くらいの頃(昭和30年代後半)にはあったと記憶しとりま。
名前は忘れてしまいましたんやが、「ブーちゃん」という愛称で人気を博してはったタレントさんを街頭テレビで見た記憶が残っとります。
長田の記事も楽しみにさして貰うとりまんので、よろしお願いいたします。
怠惰の清盛さま 昭和30年代後半に小学校低学年ということは、旧兵庫駅のほうは見ておられない世代ということなのですね。さすがにその時代になると写真資料もあまり残っておらず、辿りにくいというのが現実です。長田のほうは、すぐにとは参りませんが取材を進めていきたいと思います。こちらこそ今後ともよろしくお願いいいたします。
私の親族は最寄り駅が山電中八木駅の人で
神戸に行く時は山電兵庫駅で降りて
国鉄で神戸駅や元町駅に行ったそうです
tommyさま コメントありがとうございます。またお返事が遅くなり申し訳ありません。
兵庫駅は山陽電車と国鉄、市電をつなぐ乗換駅だったことから、神戸市内へ行くのに目的地に合わせて国鉄か市電を選ばれていたのでしょうか。国鉄もまだ新快速のない時代で、現在のように明石で乗り換えるというパターンは少なかったのかも知れませんし、今ほど本数もなかったのでしょうか(調べてないのでよく分かりません)。
往時の電鉄兵庫駅前は大変な賑わいでした。国鉄兵庫駅、神戸市電兵庫駅、電鉄兵庫駅が一か所に集まっており、それぞれ乗り継ぎの人が引きも切らずといった様子でした。昭和30年代前半までは神戸の中心は新開地でしたから、西からやってくる人々は、国鉄兵庫駅か電鉄兵庫駅で下車し、神戸市電兵庫駅(兵庫駅前だったか?)で乗り換え、新開地の三角公園前で降りて新開地へ食事に行ったり、買い物に行ったり、映画や演劇を見に行ったりしたものです。夕方から夜にかけては国鉄兵庫駅前から高架沿いに屋台が出ていて、握り寿司が安価で食べられました。飲み屋もあったように思います。国鉄和田岬駅から兵庫駅まで戻ってきた三菱の社員、工員が利用していたのではないでしょうか?1月の柳原エビス神社の祭りのときは、電鉄兵庫駅近くまで夜店が出ていて大変な人出でした。なにぶん幼稚園ごろの記憶ですので、もし違っていたらご訂正を。
MASAさま コメントありがとうございます。
兵庫駅。交通結節点としての役割は失われ、往時の賑わいはありませんね。新開地が戦前から神戸を代表する繁華街として賑わった一端はターミナル兵庫駅の存在が大きかったと思えます。三菱にしても今より工員さんは多かったでしょうし混雑したでしょうね。工員さんや乗り換え客相手の安価な屋台、光景が目に浮かぶようです。時代が移り変わり新開地も兵庫も寂しくなったものですが、それも仕方ないことでしょう・・・。当時の文化や風俗が伺える貴重はお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。