せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

山陽沿線ブログ終了のお知らせ

平素より山陽沿線ブログをご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
当ブログは、読者の皆さまに支えられ、長期間にわたり更新を続けてまいりましたが、
このたび12月末日をもちまして終了させていただきました。
今後とも山陽電車をご愛顧賜りますよう、お願い申しあげます。

晩秋の曽根崎を歩いて(前編)

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肌寒い風が吹き、年末を感じるようになったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神大阪梅田駅

直通特急が到着したのは大阪の都心・梅田にある阪神大阪梅田駅です。

曽根崎

阪神大阪梅田駅から梅田の街を歩くことにしました。11月も末になり、年末の雰囲気が漂う街は多くの人で賑わっています。そんな賑わう町中に飲食店や商店の連なる商店街がありました。こちらは曽根崎お初天神通りです。

露天神社

商店街の奥には神社がありました。こちらは「お初天神」こと露天神社です。

現在は大阪の都心となっている梅田ですが、現在のように繁華街やビジネス街となったのは近代以降で、東海道本線の大阪駅が開設されたことがきっかけでした。それ以前の大坂は堂島や船場、天満といった旧淀川(現在の大川や土佐堀川、堂島川)沿いで、梅田は町はずれの湿地帯や田園地帯でした。梅田の地名自体も湿地帯に田を開いたことを意味する「埋田」が由来です。江戸時代の元禄16(1703)年にこの神社の裏手の天神の森で起こった心中事件は近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」の題材になり、町はずれの寂しい土地だった曽根崎の名前を一気に有名にしました。露天神社の通称「お初天神」は浄瑠璃の悲劇のヒロインの名前にちなんでいます。

露天神社の境内

神社の境内は観光客で賑わっていました。訪れている人の多くは外国人で、梅田の町中で気軽に神社の雰囲気を味わえることが人気を集めているようです。また、浄瑠璃にちなんでいるのか、恋愛成就の神社ともいわれていて、境内にはそれに関する装飾もありました。

大坂の街が発展する以前のこの辺りは淀川が河口付近で分流し「難波八十島」とも呼ばれた多くの中洲が形成された低湿地帯でした。今の曽根崎地区になっている一帯は「曽根州(そねのしま)」と呼ばれる中洲で、河川の氾濫があったことややせた土地であることを意味する「そね」という名前が付けられてることからもわかるようにひときわ荒れた土地だったようです。しかし、この地は多くの中洲を日本列島に見立てて新しい天皇の即位の儀礼をおこなう「八十島祭」の場所でもありました。現在、この儀礼は行われていませんが、平安時代から鎌倉時代にかけて22回も行われた記録が残されています。この露天神社は「八十島祭」の祭礼の地のひとつであったと言われています。

露天神社を眺めて

観光客でにぎわう神社を眺めてみました。

ビルの合間に佇む神社から、荒れた中洲に佇む社だった太古の姿を想像するのは難しいのですが、千年以上もの間に大きく様変わりした街をこの神社は眺めてきたのでしょうか。

大都会の中に残された歴史の面影を訪ねて、もう少し曽根崎を歩いてみたいと思います。

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