こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石を歩いてみたいと思います。
明石公園から東側の坂道を歩いていくことにしました。前回も訪ねてきたように、明石城は六甲山地から緩やかに続く丘陵にあり、城の背後にはこうした高台が広がっていて、一帯は上ノ丸と呼ばれています。
上ノ丸の高台に小さな神社がありました。こちらは明石神社です。社殿はコンクリート造りですが、江戸時代からの歴史ある神社で、境内には明石城で時刻を告げるために鳴らされていた「明石城太鼓」(とき打ち太鼓)が保存されています。
明石神社から坂道を下ると、民家の建ち並ぶ中に鳥居がそびえているのが見えました。こちらは妙見社で、隣接する本松寺の鎮守社です。創建時期ははっきりとはしていませんが、祀られている妙見尊は島左近が祀っていたとされています。青楓の美しい境内には庭園が広がっていました。初夏にはつつじの花を楽しむことができるそうです。
妙見社の傍に佇んでいたのが本松寺です。
本松寺は安土桃山時代の慶長元(1596)年に秀吉の家臣だった藤井新右衛門勝介という人物の寄進によって創建されたと伝わっています。当時の明石の城は現在の場所ではなく山陽電車西新町駅近くの船上にあり、創建当時の本松寺も船上城下にあったそうです。現在の明石城が築城された後も寺は船上に残されていましたが、江戸時代の元禄4(1691)年に現在の場所へと移っています。
宮本武蔵の庭
明石城を築城した小笠原忠政に仕え、明石の都市計画の他、作庭にも携わってきた宮本武蔵ですが、城下の寺院の庭園も数多く手がけたとされています。こちらの本松寺の庭園もその一つとされています。枯池式枯山水庭園という庭園で、正式な作者はわかっていませんが、作風が明石城の庭園と似ていることから、恐らくこの庭園もそうではないかと言われています。夏の日差しを浴びる静かな庭園を眺めていると、剣豪とは違った宮本武蔵の姿を垣間見るように感じますね。
庭園を眺めていると、流石の夏の日も傾いてきました。本松寺を後にし、武蔵の街並みが今も残る明石を歩いて帰途に就くことにしました。