せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

小利木町と男山を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路城北西の小利木町界隈を歩いてみたいと思います。

小利木町と中濠

小利木町には趣のある街並みが続いています。姫路は古くからの城下町ですが、城下の多くの街並みは昭和20(1945)年の姫路大空襲と戦後の市街化で失われてしまいました。しかし、姫路城の北西のこの辺りは戦災の影響が少なく、大規模な開発も行われたなかったようで、昔ながらの街並みが残されています。

清水橋から姫路城を眺める

清水橋付近から千姫の小径側、姫路城の方へと歩いてみました。
高い石垣の上に姫路城の大天守がそびえています。姫路城は平城ではなく、姫山という山に築かれた平山城で、大手前側からは分かりにくいのですが、こうして城の北側から眺めてみると山の上の城であることがよくわかります。なお、この姫山は奈良時代に記された『播磨国風土記』の伝説で大汝命(おおなむちのみこと)の船から蚕(ひめこ)が落ちたという日女道丘(ひめじおか)に比定されています。ちなみに、この「日女道丘」が現在の「姫路」の地名の由来とされています。

男山

姫路城から住宅街を歩いて姫山に隣り合うように佇む男山の麓へ着きました。姫山と対をなす山で、『播磨国風土記』で箱が落ちた箱丘に比定されています。山には男山八幡宮が佇んでいました。

男山千姫天満宮

山の中腹に佇んでいたのが男山千姫天満宮です。元和9(1623)年に千姫が嫁ぎ先の本多家の繁栄を願って建立した神社で、今年2023年にちょうど建立400年となりました。姫路城西の丸から遥拝できるように、東に向けて社殿が建てられています。

前回も訪ねたように、本多忠刻と結婚した千姫は本多家の転封後、「播磨姫君」と呼ばれてここ姫路で過ごしました。しかし、それも長続きはしませんでした。姫路へ移って10年も経たず、寛永3(1626)年に夫の忠刻が死去し、千姫は本多家を出て江戸に移り、出家して「天樹院」と名乗りました。その後、70歳で亡くなるまで江戸で過ごしたそうです。

結婚にあたって、夫の本多忠刻には化粧料として父・本多忠政とは別に播磨に10万石が与えられたそうです。波乱の人生を歩むことになった千姫にとって、ここ姫路で過ごした10年足らずの日々がもっとも穏やかで幸せな時間だったのかもしれません。

男山八幡宮

男山の山頂付近まで上ると、男山八幡宮の社殿が佇んでいました。

男山からの眺め

男山の山頂は姫路市の配水池が設けられていて、姫路市配水池公園として整備されています。公園からは姫路の街並みと姫路城を眺めることができました。

古代の『播磨国風土記』の伝説、そして、波乱の人生を歩むことになった千姫。姫路城北西の小利木町から男山へと歩くと、姫路の街が積み重ねてきた歴史を辿っているようでした。

これからの季節、姫路城や千姫の小径は桜で彩られます。お花見と合わせて、史跡を巡り、姫路の歴史に思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

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