せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

市川のほとりの妻鹿を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、妻鹿を歩いてみたいと思います。

妻鹿町自治会館

町の中に佇んでいたのは妻鹿町自治会館です。この建物はもともと妻鹿村の役場として使われていたもので、どこか趣を感じることができますね。

妻鹿の地名ははるか古代にさかのぼるとされています。神功皇后や仁徳天皇の時代、この地に雄と雌の二頭の鹿が現れ、雄鹿は海を渡って家島諸島の男鹿島へ渡りましたが、雌鹿はこの地にとどまったそうで、その伝説にちなんで「妻鹿」と呼ばれるようになったとのこと。もとは漁業を中心とした産業の集落で、江戸時代の末頃からは海を埋め立てて開発された新田での農業も盛んにおこなわれるようになりました。

旧勝間家住宅

入り組んだ路地を進むと、立派な民家が現れました。こちらは旧勝間家住宅です。勝間家は妻鹿の網元の家ですが、千石船も二隻持ち、廻船問屋も営んでいました。勝間家の船は瀬戸内海だけでなく、遠く五島列島まで播磨の物産を運んでいたそうです。勝間家の繁栄は昭和初期まで続いたそうですが、後に家は龍野へと移りました。現在では江戸時代の建築とされる建物が残るのみです。立派な塀を眺めていると、賑わっていた当時の妻鹿の様子が目に浮かんでくるような気がしますね。

妻鹿漁港跡

集落のはずれに道が奇妙に曲がった一角がありました。この辺りは妻鹿漁港の跡です。妻鹿漁港は市川の支流に面した川の漁港でした。

魚市場跡

だだっ広い一角は魚市場の跡です。妻鹿の魚市場が開設されたのは大正5(1916)年のことで、ここに集められた海産物は当時広まり始めた自動車や、大正12(1923)年に開業した神戸姫路電気鉄道(今の山陽電車)を使って播磨だけでなく遠く但馬まで運ばれたそうです。
そんなに賑わった魚市場ですが、手柄駅前の姫路市中央卸売市場の開設で、昭和44(1969)年に閉鎖・撤去されました。播磨灘の海の幸で溢れた妻鹿漁港も昭和57(1982)年に埋め立てられ、白浜に代替の港が設けられました。ここ妻鹿では、今は漁協の建物が残るのみです。

市川を行く山陽電車

妻鹿駅に戻りました。
駅のそばの市川橋梁を山陽電車が走り抜けていきます。

市川のほとりに佇む妻鹿を歩くと、戦国時代の戦略上の拠点として、賑わった漁港の町として、歩んできた町の姿が見えるようでした。直通特急の跡に市川を渡って妻鹿駅へやってきた普通車で、趣ある街を後にすることとしました。

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