せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

市川のほとりの妻鹿を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、妻鹿を歩いてみたいと思います。

土手の道標

市川の堤防の上を歩いていると、古い道標を見つけました。
「右おくやま・ごちゃく 左こうじん」と記されているのを見ることができます。
この辺りは妻鹿の村はずれにあたる場所だったといわれ、ここからは市川の渡し船もあったそうです。

大河ドラマのおかげで知られるようになった妻鹿城ですが、天正8(1580)年に居城の姫路城を羽柴秀吉に譲った黒田官兵衛が移り住むようになりました。小さな山城だった妻鹿城は御着と姫路とともに播磨平野を治める拠点になっていきました。

妻鹿の街並み

山陽電車の線路の南側へ出ると、路地の入り組んだ町並みが広がるようになりました。この辺りが古くからの妻鹿の町です。現在では埋め立てによりわかりにくくなっていますが、妻鹿は市川の河口のデルタ洲に生まれた町です。妻鹿城は戦国時代に戦略上の拠点となりましたが、妻鹿の町自体は漁業と農業の村でした。

西楽寺

町中に佇んでいたのは西楽寺です。中世に妻鹿城を築城した妻鹿氏を頼ってこの地にやってきた赤松氏の一族が書写山圓教寺にちなんで天台宗の寺院を開いたのが始まりとされていますが、詳しいことはわかっていません。立派な本堂からわかるように、江戸時代から浄土真宗大谷派の寺院となっています。

龍泉寺

西楽寺の近くにはもう一つ、龍泉寺という寺院が佇んでいました。こちらも浄土真宗大谷派の寺院です。こちらは創建も江戸時代の寛永11(1634)年とされています。先ほどの西楽寺といい、町の中心に信州寺院の立派なお堂が佇む光景は、どこか中世都市の面影を感じることができるような気がします。

入り組んだ路地の続く中に中世の面影を今に感じる妻鹿の町をもうすこし歩いてみたいと思います。

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