せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

阪神間に眠る古墳・菟原を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、灘区の菟原と呼ばれた地域を歩いてみたいと思います。

処女塚古墳

処女塚古墳
を後にすることにします。

都賀川

阪神本線の新在家駅前を通り過ぎ、住宅地を歩いていくと、川に差し掛かりました。こちらは都賀川で、上流に目を向けると、冬の澄んだ空の下に連なる六甲山地を眺めることができました。

船寺神社

阪神大石駅前
からの商店街を歩いていくと、大きな神社がありました。こちらは船寺神社です。

船寺神社の境内

船寺神社は神功皇后の三韓遠征に由緒を持つ神社とされています。かつてこの地は深淵と呼ばれる入り江で、神功皇后が三韓遠征に赴く際に船を停泊させたという伝説があります。ただ、神殿が設けられ、神社の体裁になったのはずっと時代が下った平安時代の永保2(1082)年とのこと。入り江があった痕跡は見当たりませんが、かつては複雑な地形だったのでしょうか。ちなみに、現在は神社の北側を走っている阪神本線ですが、昭和42(1967)年に高架線が開通する前はこの神社の南側の今とは全く異なるルートを通っていました。

西求女塚古墳

船寺神社から西に歩くと公園がありました。単なる公園かと思ったら、こんもりとした盛り上がりがあります。こちらは西求女塚古墳です。

前回訪ねた処女塚古墳には菟原処女(うないおとめ)という女性が埋葬されているという言い伝えがありますが、こちらの西求女塚古墳には菟原処女を巡って争った男性の一人の菟原壮士(うないおとこ)が埋葬されているとされています。ただ、調査ではこの古墳が築造されたのは3世紀後半とされ、処女塚古墳よりも古いとされています。実際の被葬者ははっきりとはわかっていませんが、この地を治めた豪族の墓ではないかと考えられています。この古墳、地図で見ると前方後円墳のように見えますが、実際は前方後方墳だそうで、発掘調査では三角縁神獣鏡が見つかるなど、貴重な文化財が出土しているようです。処女塚といい、以前訪ねた阿保親王塚古墳といい、この辺りに大和政権とは異なる勢力がいて、大阪湾岸を押さえていたのであろうことを感じられ、何ともロマンがありますね。

西求女塚古墳を眺める

西求女塚古墳を眺めてみました。

市街地の中に古代へのロマンが眠る菟原、古墳だけでなく、何だか神功皇后と深淵の伝説も、この地域が大阪湾の海運の中で重要な地域だったことを感じさせますね。公園となった前方後方墳の向こうに、今とは全く異なる古代の景色が広がっているような気がしました。

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