せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

小槌と古墳・芦屋打出を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、芦屋の打出を歩いてみたいと思います。

打出の小槌石絵馬

打出天神社の境内には「打出の小槌石絵馬」がありました。こちらは令和改元に合わせて建立されたものだそうです。

山手へ歩く

打出天神社からは山手に向かって歩くことに。
緩やかなカーブを描く道は昔ながらの道の雰囲気が残っていていいですね。

阿保親王墓の碑

交通量の多い国道171号線を越えると、歩道に「阿保親王墓」と刻まれた石碑がありました。

阿保親王は平安時代初めの平城天皇(後に平城上皇)の皇子でした。第一皇子の立場にありましたが、大同5(810)年の薬子の変で平城上皇が出家したのとともに大宰権帥に左遷されました。菅原道真が大宰府に流されたのはこの90年近く後のこととなりますが、この地に天満宮があるのは何かの縁を感じます。

阿保親王塚古墳

JRの線路をくぐり住宅地を歩くと、森が見えてきました。こちらが阿保親王の墓とされる阿保親王塚古墳です。正面に回ると厳重な柵が設けられ、宮内庁の立て札があり、小さいながらも陵墓ですね。

阿保親王は平城上皇の崩御後に京に戻ることが許されることになりました。晩年には承和の変を防ぐなどの功績を積んで京で亡くなり、墓は別荘があったとされるこの地に設けられます。ただし、後の調査でこの古墳は阿保親王よりもはるか昔の4世紀の古墳時代の築造とされ、阿保親王の墓であるという伝承とは食い違っています。実際のところは、前回訪ねた金津山古墳や開発で失われた打出小槌古墳などと同じく、この地を治めた古代の有力者の墓なのでしょうか。

阿保親王塚古墳より

伝承では阿保親王は打出の浜を眺めるこの地を気に入り、この地への埋葬を望んだとされています。本来の被葬者も地域を一望でき、大阪湾を航行する船からも見えるこの地を墓に選んだということなのでしょう。開発が進んだ今では海を眺めることはできませんが、六甲山地に広がる街並みを眺めることはできます。

閑静な住宅地の中に眠る古墳群は伝説に彩られています。例年になく暖かいこの冬は芦屋で古代への小旅行に出かけてみてはいかがでしょうか。

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