せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

御影・平野城を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、御影を歩いてみたいと思います。

城ノ前バス停

御影駅の南側へ歩いてみました。大通りにあったのは「城ノ前」なる名前のバス停です。この辺りの地名は今では「御影」ですが、以前は「城ノ前」「大手筋」といった城を思わせる地名がありました。城の痕跡はすっかり姿を消してしまったのですが、こうして地名にはかつての城の姿が残されているのですね。

中勝寺

山手幹線沿いに歩いていくと、中勝寺なる寺院がありました。戦国時代の永正(1505)年に創建された寺院で、平野城を築いた平野忠勝の菩提を弔うために子孫が建立したと言われていて、以前は「忠勝寺」という名前だったそうです。

六甲山麓に強固な守りをもった平野城でしたが、城が築かれた直後に起こった観応の擾乱であっさりと破られてしまいます。近代に入り、平野村と呼ばれていたこの辺りは御影町へ編入され、さらに戦後には神戸市に編入されていきます。急速な市街化と住宅開発により、中世にわずかな期間存在した城の痕跡は消えていきました。

弓弦羽神社

中勝寺の隣には弓弦羽神社への参道がありました。
御影に城があった頃、この神社の辺りには弓場があったとも言われています。

平野城が破られた後、平野忠勝はどうなったのか…? 実は、農業へ戻り、郡家と呼ばれるこの地の庄屋を務めるようになりました。忠勝の子孫は江戸時代にはこの周辺の大庄屋を務めるようになります。中世の戦乱で多くの武家が滅んでいったことを考えると、この平野忠勝の選択は正しかったということなのでしょうか。

弓弦羽神社の境内

弓弦羽神社の境内からは、神社の名前の由来となった六甲山地(諸説あります)の山並みをわずかに眺めることができます。

弓弦羽の杜からの蝉しぐれを聞きながら、平野氏の治めたこの地を後にすることとしました。

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