せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

別府川と工業の街・別府を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、別府を歩いてみたいと思います。

別府川

あかがね御殿
から別府駅側に戻り、別府川を渡ります。
ゆったりとした大きい川ですが、流れ出ているのは意外と近く、加古川沿いの日岡付近です。この日岡も延長されたもので、もともとはもっと近く、加古川市内の野口町から流れ出ていました。

別府町の街並み

別府川を渡った先も住宅地が広がっています。

近代以降、工業都市として栄えた別府ですが、それ以前は田畑が広がる田園地帯でした。しかし、海に近いこの辺りは砂混じりの土地で、井戸水には塩が混じり、決して農業に適した環境ではありませんでした。農業に困っていたのは別府に限らず周辺の地域も同様で、これを解決したのが、五ケ井用水でした。五ケ井用水は加古川から水を引く灌漑用水で、聖徳太子が造ったとの伝説もあるほど古くからの用水です。その名の通り、加古川左岸の五か所の村へと網目のような水路を持っていました。別府川については五ケ井用水ではないのですが、間接的にはつながっていて、別府の土地を潤しました。

新野辺住吉神社

住宅街の中に小さな鳥居がありました。こちらは新野辺住吉神社です。

新野辺住吉神社の境内

新野辺住吉神社の社殿は近年建て替えられたそうで、小さな真新しい社殿がありました。
この辺りの地名は「新野辺(しのべ)」で、その名の通り、江戸時代初めころにかけて、開発された新しい土地のようです。新野辺住吉神社はその鎮守として江戸時代初めに阿閇神社から住吉三神を勧請して建立された神社とされています。

大蔵家

新野辺住吉神社からしばらく歩くと、古い民家が見えてきました。こちらは大蔵家住宅です。大蔵家は江戸時代半ばの天明6(1786)年からこの新野辺の庄屋を務め、天保9(1838)年から幕末まで姫路藩の大庄屋を務めていました。大庄屋時代に治めていたのは、ここ新野辺だけでなく、荒井から別府にかけての12ケ村に及びました。

大蔵家を眺める

大蔵家住宅は登録有形文化財に指定されているものの見学会を除いて非公開で、通常は外から眺めるのみですが、立派な外壁は印象的ですね。大蔵家の治めていたのはちょうど五ケ井用水によって水が供給されていた地域が多く、五ケ井用水とともに繁栄していったとでもいえるでしょうか。

農業で栄えた別府ですが、近代に入ると景色が大きく変わります。
次回、もう少し別府を歩いてみたいと思います。

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