せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

間もなくオープン! 尼崎城を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、尼崎を歩いてみたいと思います。

尼崎市立文化財収蔵庫

街中にあったのが、尼崎市立文化財収蔵庫です。本来は尼崎城の跡地に設けられた旧城内中学校の校舎だった建物を利用した博物館のような施設ですが、現在、本来の建物はリニューアル工事中で、現在は幼稚園の跡地に仮移転しています。

マンホール

文化財収蔵庫の近くの路上には尼崎城を描いたマンホールがありました。

三の丸公園

本来の文化財収蔵庫の建物の近くまで歩くと、「三の丸公園」なる公園がありました。その名の通り、この公園のある位置もかつては尼崎城の城内でした。

大物主神社

文化財収蔵庫から東側の阪神電車の大物駅の方へと歩くと、街中に神社がありました。こちらは大物主神社です。創建時期は不明ですが、大物川や庄下川などの河川が形成したデルタ洲の一つに設けられた祠が由来とも言われ、はるか古代にまでさかのぼることができるとされています。諸説あるようですが、この神社が「大物」の地名の由来になったとも言われています。

尼崎城が築かれたのは江戸時代のことですが、尼崎の地に城が築かれたのはさらに遡るといわれています。かつての城は尼崎城よりも東の大物駅から大物主神社にかけての辺りにあり、大物城とも「尼崎古城」とも言われていました。この城が築かれた時期は不明ですが、中世には簡素な平城があったようです。この大物城を拡大したのが尼崎城であるという説もあるようですが、詳しくはわかっていません。

大物くずれの戦跡碑

大物駅近くまで歩くと、公園の入り口に石碑があるのを見つけました。こちらは「大物くずれの戦跡碑」です。戦国時代の初め、幕府の実権を握っていた細川氏の内部で家督相続を巡って起こった争いの中で、享禄4(1531)年にここ大物で細川高国と細川晴元らが衝突。大敗した高国は大物城へ退避しようとしたところを捕らえられて、当時、大物にあった広徳寺(現在は寺町に移転しています)で自害させられました。膠着状態が続いていた戦いがここ大物で一気に高国方が劣勢になったことから「大物くずれ」と言われています。天守が復元され、注目されている尼崎城に対して、大物城は痕跡も少なく、石碑がひっそりとたたずんでいました。

間もなく…といいつつ、尼崎城は一昨日オープンしましたね。白く輝く復元天守は注目ですが、さらに足を延ばして市街化で消えた尼崎城の名残をより感じてみてはいかがでしょうか。

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