せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

木津川のほとり・津守を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて津守を歩いてみたいと思います。

鶴見橋跨線橋

「汐見橋線」沿いに歩いていると古めかしい陸橋が見えてきました。こちらは鶴見橋跨線橋です。もともとは大阪市電阪堺線(三宝線)が「汐見橋線」を跨ぐために設けられたものでした。現在は道路橋となっています。

津守神社

鶴見橋跨線橋の先にあったのは津守神社です。

日本の近代化に伴い工業が発達し、現在は住宅も目立つ津守ですが、もともとは淀川河口から堺へと海沿いに広がる新田の一部「津守新田」でした。津守の新田開発が始まったのは江戸時代の初めの元禄11(1698)年の頃と言われています。大阪湾岸では江戸時代の初めから河川の改修と合わせて新田開発が行われ、広大な田んぼが広がっていました。現在、大阪湾岸には工業地帯が広がっていますが、その土地を生み出したのは江戸時代の新田開発にあったともいえるのでしょうか。津守新田も大阪湾岸の新田の一つとして開発されました。

津守神社の境内

津守神社は津守新田の鎮守として創建された神社と伝わっています。目の前には幹線道路の新なにわ筋が通っていますが、神社の境内は都会の喧騒から離れた静かな雰囲気でした。

津守新田会所跡

津守神社の向かいの小学校・幼稚園の敷地に石碑がありました。小学校と幼稚園はすでに閉校・閉園されていて門は固く閉ざされているのですが、柵の隙間から石碑を見ることができます。こちらは「津守新田会所跡」の石碑です。会所は新田で小作料の徴収を行なったり幕府へ年貢を納めたり、その他、田んぼの維持修繕などを行なう役場のような施設でした。この場所で津守新田の行政を司っていたのですが、今は石碑がその存在を伝えるのみです。

西天下茶屋の街並み

阪神高速の高架を潜ると西天下茶屋の街並みが続きます。

西天下茶屋駅

街の中にあったのが西天下茶屋駅
今は時折電車がやってくる小さな駅ですが、おしゃれな窓があり、丸みを帯びた屋根の駅舎はかわいらしく趣がありますね。かつて高野山への路線として賑わった時代を今に伝えているようです。ホームに上がると、ちょうど電車がやってくるところでしたので、このまま汐見橋に戻ることにしました。

現在は住宅が中心の静かな町となっている津守ですが、歩いてみるとそこかしこに新田開発、そして、工業地帯として大いに繁栄した痕跡を見出すことができます。これから気候のよい秋、買い物ついでに足を延ばしてみませんか。

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