せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

加古川左岸の町・尾上を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、尾上を歩いてみたいと思います。

尾上神社

尾上神社
の正面から。播州の海沿いの神社は海に向かって正面を向いている神社が多いのですが、この尾上神社は東を向いています。

法音寺

古い道の雰囲気が残る住宅地の中を歩いていくと、寺院がありました。こちらは法音寺という浄土宗の寺院です。この辺りの地名は「養田」で、「養田の薬師さん」と呼ばれているそうです。創建年代はわかっていないようですが、ご本尊は奈良時代からのものともいわれ、病気の治癒にご利益があると伝わっているそうです。

加古川左岸のこの辺りは静かな住宅地となっていますが、かつては賑やかな港町であったと言われています。高砂といえば今では加古川の右岸の市街地を指しますが、もともとは加古川河口周辺一帯を示す地名で、古代の所謂「高砂泊」は現在の高砂ではなくここ尾上にあったといわれています。対岸に高砂の町が生まれてからも、中世まで、この辺りにあった今津(現在の尾上町池田)は「今津千軒」と呼ばれ非常に栄えたようです。

崎宮神社

今津と呼ばれた中世の港から少し北側の住宅地を歩いていると、小さな神社がありました。こちらは崎宮神社です。

播磨平野を南西に向かって流れていた加古川はこの神社の付近でS字を描くように流れています。港町としての高砂と尾上の運命を分けたのはこのS字でした。「高砂」の名の通り、加古川が運ぶ大量の土砂が堆積して生まれたこの辺りの土地ですが、村や港ができてからも土砂の流入は続きます。今津の港はS字カーブの外側に位置していたために多くの土砂が流入し、次第に船をつけることができなくなり、中世には港としての機能を失っていき、対岸の高砂がその代わりに発展することとなりました。多くの中世の港町と同じく、尾上の港も歴史の向こうに消えていくことになりました。

泊川

現在の尾上に「高砂泊」の痕跡はないものと思っていたのですが、崎宮神社の傍を流れる川はなんと「泊川」という名前。この名前が港に由来しているのかはわかりませんが、ちょっとうれしい発見ですね。

加古川を眺める

加古川の堤防に上ってみました。河口に近いこの辺りでは、土砂が堆積して中州がいくつもできています。まさに高砂の地名の由来になったような景色ですね。この地に港があった痕跡はやはりありません。ちょうど、上流の鉄橋を山陽電車が通過していきました。

加古の流れに生まれ、加古の流れによって消えていった中世の港に思いを馳せながら、堤防を歩いて帰途に就くことにしました。

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