せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

淀川右岸の町・福と大野を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて、淀川右岸の福と大野を歩いてみたいと思います。

大野川

大福漁港
から北東に向かうと、細長い緑地がありました。地図を見ると、細長い形の大福漁港の延長線上に続いているように見えます。こちらはかつてこの地を流れていた大野川の跡です。大福漁港はもともと大野川の河口の港でした。この辺りは対岸の伝法漁港に似ていますね。

お地蔵さんのある分かれ道

緑地に沿って歩いていると、お地蔵さんのある分かれ道に着きました。左側に進むと百島・大野地区です。

百島・大野地区は福町から大野川を挟んだ西側に、川に沿って細長く広がる集落でした。細長い集落の周りは新田開発によって生まれた田んぼで農業が盛んだったそうですが、淀川の河口に近いこともあり、福町と同じく漁業も盛んだったといわれています。現在も大福漁港を福町と共同で使用していますね。

乗願寺

福町以上に狭く建て込んだ百島地区にあったのが乗願寺です。由緒ありそうな寺院ですが、門は固く閉ざされていました。

大野百島住吉神社

乗願寺のそばにあったのが大野百島住吉神社です。先ほどの福住吉神社といい、漁業が盛んな地域だったせいか、住吉神社が多いですね。こちらは江戸時代の寛永20(1644)年の建立とされ、福住吉神社と同じく、新田開発でこの地域に人が住み始めた頃に建立されたのでしょう。

淀川河口のデルタ洲に広がる新田での農業が盛んだったこの地域ですが、近代に入ると田んぼには大規模な工場が建ち並び、工業地帯となりました。内陸のほうはというと、交通に便利な環境であるためか、住宅や商業施設が建ち並ぶようになりました。今では細い路地が続くもともとの集落の街並みと漁港が、この地が農業と漁業で栄えた村だったことを今に伝えています。

狭い路地

住吉神社の近くにはかつての面影を残しているのであろう細い路地が続いていました。
このまま路地を歩いていけば、阪神なんば線の福駅に戻ることになります。

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